水の丘交通公園

鉄道メインの乗り物図鑑です。
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国鉄 EF62形電気機関車

2008-11-28 23:57:22 | 保存車・博物館
信越本線横川~軽井沢間の碓氷峠(※)を通過可能で、かつ他の区間も走行可能な
電気機関車として、碓氷峠専用のEF63形電気機関車と共に開発されたものである。
昭和37年に試作機、翌年と昭和44年に量産機が2次にわたって、53両が製造されている。

重連運転を想定しており、正面は貫通型となっている。
運転台の窓はパノラミックウィンドウで、この部分だけ僅かに傾斜しているが、
貫通扉は垂直に配置された関係で窓上の部分が突き出している。
ヘッドライトは正面窓上に2箇所配置されている。
塗装は当初がチョコレート色一色、後にブルーと正面下部のみクリームの2色塗りになった。

先述したが、この機関車は碓氷峠以外の区間へも直通する必要があるため、
通常幹線の軌道規格に適合し、かつ碓氷峠での粘着運転に対応できるように
重量配分や技術的などに腐心した設計となっている。

車体は鋼鉄製だが、軽量化のため、天井は、ほぼ全長に渡ってFRPが採用されている。
これだけでは強度が不足し、パンタグラフが載せられないので、この部分だけ、
鉄製の梁を通して、その上にパンタを載せる方法で対応している。
こと製造された時期により、車体側面の送風用ルーバーや明かり窓の数や形状が
異なる。

主制御装置は自動進段・電動カム軸式抵抗制御で、バーニア制御器も装備している。
国鉄の電気機関車は、ごく初期に輸入した英国・デッカー製電気機関車で
この方法を採用していたが、当時の技術では整備が難しく、米国・ウェスティング
・ハウスから輸入した構造が簡単な単位スイッチ式を採用していた。
しかし、この方法は場所をとり過ぎるため、本形式の特性上適さず、
コンパクトで多段・自動進段に有利で、技術的にも問題がなくなったカム軸式
制御器へと回帰した。
これと併せてバーニア制御器を用いることで、加速段数を多段とすることで、
トルク変動を抑え、空転防止を図っている。
この組み合わせは以降に製造されたEF64形、EF65形へも引き継がれている。

ブレーキは発電ブレーキ併用空気ブレーキでEF63形電気機関車との重連総括制御が
可能である。
また、客車列車への充当を考慮し、電動発電機を装備しており、客車の暖房運転を
行うことが可能である。

台車はレールにかかる1車軸あたりの重量を16t以内(国鉄のレールの幹線規格は
16tまで)に抑えるため、3軸式ボギー台車を採用している。
通常のF級機関車の場合、2軸ボギー台車×3の配置なのだが、本形式は、幾分かは
軽い3軸ボギー台車×2を採用している。
この台車の回転軸が車軸の真上になるため、構造上、車体と台車を繋ぐセンターピンが
設置できない。
このため台車中心部分の車体両側と台車を結ぶ引張棒と台車の第1軸と2軸の間の
リンク装置で台車の回転許容と位置決めを行う仮想心皿方式をとっている。
また、軽量化のため、揺れ枕(ボルスタ)のない構造をとっているほか、通常は
外付けとなる空転防止のための砂箱(砂をまいて線路との摩擦力を得る機関車の装備)が、
台車枠に組み込まれるなど、軽量化への配慮が為されている。

運行開始に向け、1号機による試験運転を1年ほど、丸山信号所付近の横川側を
複線化して実施し、その結果が量産機にフィードバックされた。
昭和38年7月より、新線の切り換えが開始され、アプト式で42分を要した、この区間を
半分以下の17分で結んだ。
輸送定数も大幅に伸びEF62形牽引+EF63形電気機関車2両による後ろ押しで、
貨物列車で400tまで牽引が出来るようになった。

本形式は上野~長野間を直通できるので、貨客を問わず、ここを通過する列車に
使用された。
昭和40年代初頭の信越本線の電化が、直江津、宮内と距離を伸ばすに従い、
新潟まで足を伸ばすこともあった。
しかし、昭和40年代後半にはいると上野~金沢間で運行されていた急行「白山」の
電車特急化、客車列車の電車化などが進み、碓氷峠を越える客車列車は減少し、
貨物の牽引が主となった。
また、関東~北陸間の貨物輸送に対しては、最短距離でありながら、重量制限の
関係で編成の組み換えを要し、横川・軽井沢両駅でのEF63形電気機関車の付け替えを
行わなければならないことから、遠回りでも勾配が緩い上越線ルートが
選択されるようになった。
その後も対長野県への貨物列車へ充当されたが、これも昭和59年に中央・篠ノ井線
経由に変更されている。
どちらの区間も汎用機で速度も速いEF64形やEF65形で運行できるからで、
碓氷峠さえ通過しなければ、わざわざ、この特殊な機関車を連結する必要性が
ないためである。
これにより、本形式は余剰となったが、同じ頃、老朽化による故障が相次いでいた
EF58形電気機関車が牽引していた東海道・山陽本線の荷物列車に使われることになり、
住み慣れた信州を離れ、下関へと26両が転属していった。。
これは本形式が電動発電機付きで、乗務員用の暖房を使用できるためである。
しかし、元来、勾配区間用で足の遅い本形式で性能限界速度いっぱいでの長距離運転は
機器類に多大な負担をかけてしまい、故障が続出。廃車になる筈だったEF58を復帰させたり、
電源装置を持たないEF65を使用せざるを得ない状況にまで陥った。
民営化直前に昭和61年に荷物列車自体が廃止になり、昭和62年までに全廃となった。

JR以降後はJR東日本に6両が残り、主に夜行急行列車「能登」とその間合いの
貨物列車の牽引を行っていた。
しかし、平成5年に「能登」が電車化されたため、この時点で定期運用を失った。
以降は臨時用に残り、この区間を通過するジョイフルトレインの牽引などに当たった。
平成9年に長野新幹線(北陸新幹線)開業に伴い、横川~軽井沢間が廃止されたため、
平成10年までに全車廃車となった。

廃車後は1号機と54号機が碓氷峠鉄道文化むらに展示保存されている。
また3号機が長野車両センターに保管されている。


試作機にあたる1号機。ちなみに「そよかぜ」は上野~軽井沢間を結んでいた
臨時特急の愛称。

※横川~軽井沢間の碓氷峠
「横軽」とも略される、この区間は直線距離にしてわずか10kmほどながら、
500m以上の高低差があり、日本書紀の頃から記録が残る難所であり、信州と関東を
結ぶ国境としての要衝でもあった。。
鉄道は明治21年に開通したが、66.7/1000という鉄道が通過する区間としては、
並外れた急勾配があり、「アプト式」と呼ばれる、台車に備え付けられた専用の
歯車で歯形状のレールを噛み合わせて、登坂していくという特異な方法が
とられるほどであった。
開業時には蒸気機関車で運行されていたが、煤煙による事故が耐えなかったため、
まだ「電車」自体が珍しい明治45年には第3軌条方式での電化が為され、
電気機関車が導入されたことからも、その困難さが伺える。
しかし、元々が観光鉄道や登山鉄道など輸送力の小さな区間で使われる方法であり、
首都と信州を結ぶ主要幹線で使われる方法としては、あまりに輸送力が不足していた。
特に高度経済成長期に入り、人や物資の輸送が増大したことにより、
問題が深刻化し、また、明治期に作られた施設の老朽化が進行していたため、
通常の粘着方式による新線への切り換えと、この区間を安全に直通できる機関車の
開発が行われた。
これが、今回紹介のEF62形と、後に「峠のシェルパ」と呼ばれるようになるEF63形である。
電車、ディーゼルカーなどはEF63の、客車と貨車はEF62とEF63のサポートが
必須であった。
なお、後年の技術の進歩で同程度の勾配を持つ京阪電鉄京津線や東急玉川線、
さらに急な勾配を持つ箱根登山鉄道は最初から粘着方式で開業している。

京成電鉄 3500形電車

2008-11-26 22:52:44 | 電車図鑑・私鉄電車(関東)
昭和47年から昭和57年にかけて、老朽化した「青電」と呼ばれる旧型車群を
置き換えるために登場した車両である。
4連24本、96両が製造され、京成電車の一大勢力となった。
車両番号は車両の形態に関わらず、通し番号である。
偶数車と奇数車は機器を分散して2両で1ユニットとした構造をとっているため、
4連に2連を足した6連や4連+4連の8連での運行が可能である。

車体は京成の電車として初めてのステンレス製(但し、骨組みは鋼鉄製の
スキンステンレス製)で、同社の通勤型の車両としては初の冷房車となった。

車体は設計と構造の簡略化から、曲面を省いた直線的なものとなり、
優雅な曲線を描いた、これまでの車両とは一線を画している。
窓は別組み立て・外付けのユニット構造になっている。
ステンレス車なので塗装はされておらず、アクセントとしてファイヤーオレンジの
帯を巻いている。

先頭は切妻で、縁の部分が協調された額縁スタイルとなっている。
ヘッドライトは窓下にテールライトと立て並びになった。
運転室も編成の中間部に連結される際、正面貫通扉と客席との仕切り戸を
展開させて、運転席のみならず、助手席側も仕切れるようになった。
編成間通路は4連の1・2号車と3・4号車の間が広幅で妻窓はなく、2・3号車の間は
狭幅で妻窓がある。
これらは後に3300形以前の車両の更新改造の際に踏襲されている。
種別表示と行き先表示は字幕式のものを全面貫通扉上部と側面に設置しているが、
旧来どおりの種別板や方向板も併用されていた。
なお、行き先板は昭和61年に廃止されているが、種別板は未更新車で現役である。

座席はロングシートでドアは両引き戸が片側3箇所ある。
天井や座席下などはデコラなどで無塗装とされている。
冷房付ではあるが、当時、都営浅草線での冷房の使用は許可されなかったので、
補助送風機として首振り扇風機が取り付けられている。
なお、都営浅草線での冷房使用が解禁されたのは昭和62年からである。

主制御装置は当初、同年に登場したAE車で実績のある界磁チョッパ制御が検討されたが、
当時の都営浅草線直通車への規定に抵触するため、これまで通りの抵抗制御と
なった。
基本的な性能は3200形6M車や3300形と同じで、運転台側の台車にモーターを
搭載していない。

長期に渡って増備されたため、製造時期によって、内装などの細部が異なる。
昭和55年~57年に増備されたグループの一部は車体がオールステンレス製に
なった。

平成4年から車体の帯色の変更が、実施され、現在の赤帯に青の細帯となった。

平成8年からは、大規模な車体更新が行われ、面目を一新した。
主な内容は、正面部を3つ折れ構造とし、貫通扉を種別幕取り付けの新品と交換、
ヘッドライトはテールライトと共に角型ユニット化、窓の拡大、スカート取り付け、
ドア間の側面窓を3つ並びから2つ並びにして拡大、京急の乗り入れ協定批准のため、
先頭車の台車を前後で入れ換えて運転台側台車の電動化とこれに伴う、配線の
引きなおし(これにより未更新車との連結が不能になった)、
側面コルゲートの減少、内装の全面張替え、座席のバケット化などである。
平成10年以降に更新された編成からはパンタグラフのシングルアーム化も
実施している。

座席は最初に使用していたものが、あまりに硬すぎたため、乗客から不評であり、
平成11年以降はクッションのやわらかいものに変更され、これ以前のものも
交換されている。

当初は全編成を対象に、この更新改造を行う予定であったが、フレームの劣化が
京成の想定以上に進行しており、コストがかかりすぎたことから、
平成13年度をもって中止となった。
これ以降の未更新車は新型車への置き換え対象になることになってしまった。
これらを対象とした廃車は平成15年より開始されている。

現在は運用範囲が更新車と未更新車で分かれている。
更新車は、4連~8連で支線の普通列車から都営浅草線直通の優等列車まで幅広く
運用されている。
逆に未更新車は、平成10年の京急の羽田空港開業によるダイヤ改正以降、
8連運用が廃止になり、6連も平成13年ごろに失ったことから、
もっぱら金町線や千葉線のローカル運用に就いている。


更新車。この編成はパンタグラフのシングルアーム化を受けている。

福井鉄道 600形・610形電車

2008-11-20 20:19:28 | 電車図鑑・ローカル私鉄&第三セクター
老朽化した140形電車の置き換えのために名古屋市交通局から、名城線で
運行していた1100形・1200形電車(※)を平成9年~11年に、名鉄住商岐阜工場で
改造の上、譲り受けたものである。
以下に形式別で概要を記す。

●600形(外観は下の写真を参照)
単行運転用に、平成9年と10年に1両ずつ譲り受けた。
入線にあたり、連結部分に他の車両の運転台部分を接合しての両運転台化、
客用ドアの2ドア化と中ドアの埋め込み、中ドア跡への客席の延長と窓設置、
パンタグラフ取り付け、台車・モーターを豊橋鉄道からの廃車発生品に交換、
冷房化(これも豊橋鉄道の廃車発生品)、ワンマン化(整理券発券機・運賃箱・料金表
設置、自動放送装置整備)、ドアステップ・軌道区間用の排障器取り付けなどの
改造を実施している。
塗装は地元の高校がデザインしたものを採用している。

単行運転用で総括制御も不可能なことから、収容力に問題があり、
日中の閑散時や早朝などしか運転されないことが多かった。
平成16年4月より低床車の導入で休車となっているが、同年6月に福井大学と
大研化学工業によるリチウムイオン電池での実験走行や
平成19年度のビア電(夏季限定のビール電車)に使用されるなど、それなりに
活躍の場は残されている。
余談ではあるが、本形式改造のため、運転台を供出した車両の残りの部分が
名鉄岐阜工場(現在は廃止)にしばらく残されていた。

●610形
先の600形の収容力不足を受けて、平成11年に2連で登場したものである。
2両連結である点を除いて、ほぼ同じ改造を施されている。
編成はモハ610+クハ610で、モハが武生新・福井駅前側でクハが田原町側である。
連結部の座席の一部は優先席で、この部分だけ灰色になっている(他は濃い青)。
塗装も600形と同じであったが、平成17年頃に広告塗装(上の写真参照)に変更され、
平成19年からは引退した300形電車と同じ白にグリーンと赤の帯の入ったものに
なっている。
こちらは低床車導入後も朝ラッシュ時を中心に、現在も運行されている。
また、車内がロングシートなので夏季はビア電に用いられる機会が多い。


単行運転用の600形電車。

※名古屋市交通局1100形・1200形電車
名城線開業用に登場した1000系と呼ばれるグループに属する車両である。
昭和40~49年に製造された。
同市の地下鉄車両のトレードカラーでもあるウィンザーイエローに、
ラインカラーであるパープルの細帯が入る。
名古屋市の地下鉄車両としては初めて方向幕を本格採用(試験では東山線の
101号車が使用したことがある)したほか、キャブシグナル式ATCを採用している。
車輪には市電の無音電車シリーズ同様、弾性ゴム車輪を使用して防音効果を
図っている。
台車は1000形と、その中間車の1500形が空気バネ台車、他はコイルバネ台車である。
集電方式は第3軌条方式でパンタグラフは設置されていない。

車内はロングシートで、車内が狭く乗車区間も短いため、網棚を設置していない。
1100形は昭和46年の市役所前~大曽根間及び金山~名古屋港間開業時に、
1200形は昭和49年の金山~新瑞橋間開業時に、それぞれ投入されている。
後継の2000形の登場で平成12年までに全車廃車になった。
廃車後は、今回紹介の福井鉄道のほか、高松琴平電鉄にも譲渡されている。

JR四国 7000系電車

2008-11-18 13:17:16 | 電車図鑑・JR新系列一般用車両
予讃線の松山電化に合わせて、平成2年に登場した車両である。

JR移行後、初めて作られた両運転台構造の電車で、路面電車以外で
単行・ワンマン運転が可能な電車としては、日本最初のVVVF制御車になった。
両運転台で電動車の7000形と制御車で片運転台(伊予市・琴平側にのみ運転台がある)
の7100形で構成され、中間車はない。
編成は単行から4連まで組め、6000系との併結も可能である。

車体はステンレス製で、水色の帯を配している。
先頭部は貫通型で、貫通扉の窓下部にワンマン表示がされる。
ワンマン運転時以外は非表示である。
客用ドアは片側に3箇所あり、両端のドアが片開き式で中ドアは両引き戸である。
ワンマン運転時は、中ドアは締め切りとなる。
最近になって各ドアに半自動ドア操作ボタンが設置された。
なお、ワンマン運転は2連でも行われる。この場合、片方の車両は締め切られ、
実質1両での営業になる。

車内は片側をロングシート、片側をボックスシートにして、中ドアを境に
点対称に配置している。これは同時期に登場した1000形気動車と同じである。
窓は一段下降式となっている。
ワンマン運転対応のため、整理券発券機や運賃箱、運賃表示機などが設置されている。

運転室は半室式で、右半分は仕切りも無く、フリースペースである。
また乗務員用ドアも運転室側にしかなく、反対側は監視用の小窓が
取り付けられている。
運転台はデスク型ツーハンドル式である。

主制御装置は先述のとおり、VVVFインバータ制御である。素子はGTOであるが、
7016号はIGBT式に換装して、長期運用試験を行っている。
ブレーキは回生ブレーキ併用電気指令式空気ブレーキである。

現在、7000形25両、7100形11両が松山運転所と高松運転所に所属している。
運行範囲は予讃線伊予市~高松間、土讃線が多度津~琴平間である。
トイレがないため、瀬戸大橋線への直通は行なわない。


車内。ボックスシートとロングシートが半々。


7100形。


ラッシュ時に運行される7000形のみの3重連運転。迫力のVVVFサウンドが
楽しめる(車内は混雑するのでそれどころではないが・・・)。

国鉄 DF50形電気式ディーゼル機関車 (四国鉄道文化館保存車)

2008-11-17 11:54:14 | 保存車・博物館
非電化の亜幹線での蒸気機関車の廃止を進めるため、昭和32年に登場した
ディーゼル機関車である。
国鉄のディーゼル機関車として初めて量産され、昭和38年までに138両(0番台×65両/
500番台×73両)が製造されている。

車体は箱型で、後に登場するDD51形以降の凸形車体とは一線を画している。
塗装は当初がチョコレート色に細いイエローの帯、晩期が下がグレー、
上がオレンジで、その境に白の細帯が入るものになっている。
晩期には先頭部分に鉄板を貼り付けて、構造を強化したものもあった。

ディーゼルエンジンで発電し、モーターを駆動する電気式を採用している。
これは当時、液体変速機の技術が未発達だったためである。
エンジンはスイス・ズルツァー社製のものとドイツ・MAN社製のものとの2種類あり、
前者を0番台(1~65)、後者を500番台(501~573)と番号で分類されている。
このうち、1~7号機は量産先行型で、以降に生産されたものと、機器の配置などで
若干の差がある。

台車配置は2軸ボギー式台車(全て動力付き)を3つ配置した「B-B-B」で、
線路にかかる重量負担を軽減し、規格の低い路線でも運用が可能となっている。
中間台車は、通常構造のままだとカーブを曲がれないため、左右へのずれを
許容した構造となっている。
この構造は後のEF60形電気機関車以降の機関車に応用された。
モーターは6基搭載で、駆動方式は吊り掛け式である。

この他、客車への暖房供給のため、暖房用のボイラーを設置している。

通常、ここまでの重装備であると、重量過多となってしまうのだが、
車体の軽量化などで、レールへの負担を減らし、規格の低い路線でも運用が
可能であった。

本形式は、初めて長距離運行が可能な実用的ディーゼル機関車として、北海道を除く、
全国で特急から貨物まで幅広く活躍した。
特にトンネルの多い地方の路線では、蒸気機関車の煤煙から開放されたことで
乗務員、乗客双方から好評を得ている。

しかしながら、ディーゼル機関車として技術的に過渡期に生産されたこともあり、
多くの課題を残していた。
特に出力不足は深刻で、全軸駆動なので空転こそ少ないものの、勾配線区では
著しい速度低下を起こしたほか、平坦区間でも出力的な余裕は少なく、
走行性能的には蒸気機関車と差がなかった。

またパワーがない割りに、電気式で搭載機器が多く、ライセンス生産された
エンジンの搭載などで生産コストが高く、蒸気機関車を全て駆逐するまでの
大量生産には向かなかった。

昭和37年に強力な液体変速式ディーゼル機関車DD51形が登場し、量産化されると
本形式は徐々に地方の線区へと転用されていった。

昭和50年代に入ると電化が進行したことと、ディーゼルカーの投入が進んだことにより、
客車列車の運用が減ったことなどから、多くが廃車になった。

特急列車の牽引は昭和54年の日豊本線全線電化まで「富士」や「彗星」で行っていた。
最後まで残ったのは紀勢本線を走る寝台特急「紀伊」で同年まで運行された。
定期列車運用としては旅客が昭和56年(500番台はこの時点で全機引退)、
貨物が昭和58年で終了している。
最終運用は昭和58年9月に運行された臨時急行列車「さよならDF50土佐路」号を
1号機と65号機が牽引したもので、これを最後に全車引退となった。

引退後、1号機は、多度津工場に保管され、昭和58年に準鉄道記念物の指定を受けた。
昭和62年には車籍復帰を果たした。
平成19年より伊予西条駅隣接地に開館した四国鉄道文化館にて展示されている。
本機は現在も車籍を有するが静態保存のままである。

多度津工場には、この他に、繁藤駅で昭和47年7月に発生した土砂崩れ(繁藤災害。
繁藤駅周辺で発生した大規模な土砂崩れで、周辺で発生していた小規模な地滑りの
復旧作業をしていた作業員や停車中だった列車が巻き込まれ60名が死亡した)で
大破した45号機の製造銘板やナンバープレートが保管されている。
本機は現地で解体されたが、車体の一部は今も現地の川底に埋まっているという。

この他、4号機が大阪府の菅原天満宮公園に、18号機が同じく交通科学博物館に
保存されている。


運転台。ちなみに機関車と新幹線では、右がマスコン、左がブレーキになる。


助手席。機関やモーターの出力系のメーターなどがある。


運転台側の台車。


中間台車。左右にずれることが可能。

JR九州 815系電車

2008-11-11 23:47:12 | 電車図鑑・JR新系列一般用車両
豊肥本線の熊本~肥後大津間電化に伴い、平成11年に登場した車両である。
鹿児島本線の熊本地区、日豊本線の大分地区でも運用され、老朽化した
国鉄形電車を置き換えた。

編成は、門司港側からクモハ815+クハ814の2両編成で全部で26両が製造された。
編成番号の前に「N」が冠され、第1編成の場合、「N001」と表記される。
車両の転配の絡みでN015編成はN027に改番され、現在はN001~014・N016~027が
在籍している。
このうち、N007~010は、豊肥本線高速鉄道保有株式会社が保有し、JR九州に
貸し出す形をとっている。

製造メーカーは小倉工場製のN026編成を除いて、日立製作所で、同社の「A-train」
システムを、JRグループで初めて採用している。

車体は「A-train」準拠のダブルスキン構造のアルミ合金製で、
乗務員室、客室、トイレなどが、製造工程の合理化のため、
ユニット化されている。
塗装はドアと前頭部の縁と貫通扉に施され、他は無塗装である。
ドアは外側を赤、内側を黄色、前頭部縁及び貫通路は赤色である。
熊本地区所属のN004編成は、熊本駅にオープンした「FRESTAくまもと」の
ラッピング電車になっていた時期がある。

なお、本形式のデザインは、これまでもJR九州をはじめ、
多くのデザイン性に優れた車両を生み出した水戸岡鋭治氏率いる
ドーンデザインが手がけており、平成13年度のグッドデザイン賞と
ブルネル賞を受賞している。
なお、ブルネル賞受賞の記念プレートは大分地区で運行されているN018編成の
クモハ815-18の運転席後ろの仕切りに設置されている。

客用ドアは両開き式で片側に3箇所設置されている。
下り列車(門司港から見て、熊本・八代方面や大分・佐伯方面に行く列車)で
進行方向右側のドアの上にLEDスクロール式の旅客案内装置を設置している。

客席はオールロングシートで、JR九州の電車で初めての採用となった。
しかし、ロングシートといえども、各座席と座布団と背もたれが一人分ずつ独立し、
窓のない戸袋部分にはヘッドレストがあるというものである。

トイレはクハ814の連結面にあり、車椅子に対応している。

客室の窓は全て固定式で、ガラスにUVカットガラスを採用している。
このため、カーテンは設置されていない。

ワンマン運転時に車内で運賃が収受できるように、運賃箱、整理券発券機、
運賃表を運転席後部などに設置している。
ただし、平成18年より、運賃は原則、駅での収受になったため、
現在は使用していない。

台車は従前からのボルスタレス台車で、車輪直径を在来車よりも小さくすることで
ドア部分のステップをなくし、ホームとの段差も極力なくしている。

運転台や走行機器にはJR九州で初採用のものが多い。
以下に挙げると・・・
・IGBT素子使用のVVVFインバータ制御(交流回生ブレーキ・純電気ブレーキ可能)
・片手操作式ワンハンドルマスコン
・定速度制御機構(普通列車用の電車として初めて)
・シングルアームパンタ
・・・である。
なお、営業運転での最高速度は120km/hである。
行き先表示は正面貫通扉上と側面にあり、どちらも字幕式である。

運用範囲は、鹿児島本線鳥栖~八代間、豊肥本線熊本~肥後大津間、
日豊本線中津~佐伯間で、それぞれの区間で主力車両として運行中である。


旧「FRIESTAくまもと」編成。ラッピング跡がくっきり残っている。

東京急行電鉄 デハ150形電車

2008-11-08 22:24:51 | 電車図鑑・路面電車
昭和39年に路面電車線の玉川線に投入された電車である。
メーカーは東急車輛で4両が製造された。

車体製法にアメリカ・バット社の技術を採り入れ、当時製造中で東横線で運行を
開始していた7000系電車(初代)と、共通点が多い。
車体は全鋼鉄製で、全長13m、ドアは片開きのものが、片側3箇所に設置されている。

正面は2枚窓で中央部で少し縦に折れている。正面中央上部に方向幕、
正面窓下中央部に車号とステンレスのラインが入る。
ヘッドライトは窓下に2つでテールランプと一体のケースに入っている。
ケースの形状は7000系電車と同様のものである。
これとは他に、三軒茶屋駅にあった玉川線と下高井戸線の分岐点で
列車の行き先を示すための方向標識灯が方向幕の両脇に設置されていた。
側面部は鋼鉄製ながらコルゲートラインが入り、本形式の外観上の最大の特徴と
なっている。
側面窓は一段下降式で、正面部の方向幕共々、戦後製電車としては初採用となった。
塗装はデハ200形から採用されている
ライトグリーンとクリームのツートンカラーである。
内装や座席も7000系に準じたものとなっている。

性能面では、吊り掛け駆動、空気直通ブレーキ、間接非自動制御と保守的なものに
なった。
台車はコイルバネ台車で、車輪直径をデハ80形などの高床車より、少し小さくしている。

昭和42年に連結2人乗り化改造を行い、連結面となる奇数車の渋谷側と
偶数車の二子玉川園側の運転台は使用されなくなった。
昭和44年に玉川線廃止後は、下高井戸線改め、世田谷線に残り、
塗装をグリーン一色に改めている。

昭和58年より、車体更新が開始され、側面コルゲートのステンレス化、
連結面運転台の撤去と、この部分の側面窓の埋め込み、方向指示標識灯の撤去、
内装の張替えなどを実施している。
平成元年以降は、正面窓(右側)の2段化、ヘッドライトのシールドビーム化、
制御装置や台車の改修、保安ブレーキ取り付けなどの改造を行っている。
しかし、これだけの改造を受けながら、登場時の姿を大きく損なうことはなかった。

平成13年にホームのかさ上げに伴う300系電車への統一化のため、全車が引退した。
引退直前に、珍しいアメリカ・バット社のライセンスで製造された路面電車として
同国のトラム・ミュージアム(路面電車博物館)から、引き取って保存したいとの
打診があったが、実現せずに全て解体されている。

なお、余談ではあるが、本形式の運転席から方向幕を操作するハンドルの脇に
あった表示の一覧表には山下駅の旧称である「玉電山下」が、度重なる改造を経ながらも
残されていた。
70形や80形が、木製の車内を残しながら、大きく原型を損ねていく中、
約40年間黙々と「玉電」の看板を守っていた本形式は、最後の最後まで、
地味ではあったが、最も「玉電」らしい車両であったといえる。

熊本市交通局 8200形電車

2008-11-07 22:16:13 | 電車図鑑・路面電車
熊本市が昭和57年に導入した車両である。
昭和35年製造の350形(現在の1350形)以来、熊本市発注のものとしては
久々の完全な新車で2両が製造された(昭和35年以降は大阪市などから
中古車を払い下げて運用していた)。
形式は製造年の西暦である1982年からとられている。
本形式には車両愛称があり、8201号が「しらかわ」、8202号が「火の国」と命名されており、
正面向かって右側に表示されている。

車体は当時、長崎電気軌道や広島電鉄で運行を開始していた「軽快電車」風の
ものである。
塗装はアイボリーにライトグリーンの帯を配したもので、後に在来車(1080形以降と
8500形)も同様のものに変えられた。
ドアは前と車体中央の2箇所で、前ドアが2枚折り戸、中ドアが4枚折り戸である。
乗降方式は中乗り前降りの運賃後払い制である。
車内はロングシートと転換クロスシート(1人掛け)を組み合わせた
セミクロスシートで、前ドアと中ドアの間がクロスシート、
中ドアから後ろがロングシートとなっている。
中ドア後ろ側には車掌台が設置されている。また、この部分に側面方向幕が
設置されている。

主制御装置はVVVFインバータ制御で営業用の車両としては日本で初めて採用された。
路面電車では、軌道回路(線路を流れる微弱電流。踏み切りや信号の動作に
使われる。半導体等を用いた制御器を用いると電磁波によって
これが狂うことがある)の形成が必要ないため、一般鉄道への導入を前に
採用することが出来た。
モーターは、パワーがあるので1台車1個モーターで、動力台車も2つある
ある台車のうち片方だけである。
台車は緩衝ゴム支持方式のコイルバネ台車で、動力台車は8201号「しらかわ」が
健軍町側、8202号「火の国」が田崎橋/上熊本駅側にある。
これと逆の付随台車側には折りたたみ式の連結器が設置されており、連結運転が
可能である。
しかし、連結運転をすると辛島町電停付近にあるポイントを通過する際に、
支障を来たすことから、導入時に行われた試運転時以外に行われていない。

昭和58年に技術面で評価され、鉄道友の会ローレル賞を受賞している。

登場以来、大きな変化はなかったが、平成18年にVVVFインバータ制御装置の
老朽化に伴い、素子をGTO式からIGBT式に交換している。

運用は熊本市電全線で、特に運用も限定されていない上、他の車両と比べて
少数派なので見つけづらい。
来訪の際は、勘と根性をフルに働かせて、見て撮って乗って頂きたい(いうまでもないが、
現業機関への問い合わせは、業務の大きな妨げになるので禁止である)。

横浜市交通局 10000系電車

2008-11-02 15:26:49 | 電車図鑑・地下鉄
横浜市営地下鉄グリーンライン(日吉~中山間)開業用に登場した車両である。

平成18年に量産先行車(4連2本)が、翌年に量産車(4連13本)が製造され、
合わせて15本が所属している。

駆動方式に都営大江戸線や大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線などとと同じ
リニアモーター駆動となっており、車体も全長15.6mと小柄(一般的な鉄道車両は
18m~20m程度)なものとなっている。
主制御装置はIGBT式のVVVFインバータ制御である。
台車はダイレクトマウント式ボルスタ付きの空気バネ台車である。

車体はアルミ合金製でドアは片側3箇所に設置している。戸袋部分に
ラインカラーであるグリーンのグラデーションステッカーを貼っている。
量産先行車は、横浜市のイメージカラーであるブルーの
グラデーションであったが、路線名とラインカラーの決定を受けて
貼り替えられている。

座席はロングシートで各車両に車椅子スペースを設置している。
連結部貫通路や座席肘掛にガラスを多用して、狭い車内を広く見せている。
次駅案内や市からのお知らせ、ニュースなどを流す旅客案内装置は、
液晶画面のものをドア両脇に設置している。
また、各ドアにはドアチャイムが設置されている。

運転台は片手操作式ワンハンドルマスコンでATOによる自動運転とワンマン運転に
対応している。

車番の見方は一の位が号車番号、百と十の位が編成番号である。
「10152」号の場合、「10000系第15編成の2号車」という意味になる。
現在は4連だが、需要増による6連化を見込んで一の位「3」と「4」は
欠番になっている。
従って、現在の編成は第1編成を例にとると、中山側から順番に10011+10012+10015+10016となっている。

平成20年3月の開業までに全編成が揃えられた。量産先行車の搬入に際しては
メーカーのある神戸港から洋上を渡り、横浜本牧港から陸送され、
高架線にクレーンで持ち上げられるという、地下鉄車両としては、
かなり変わった方法で行われた。
量産車は、通常通り、JR線を甲種回送され、横浜本牧から陸送である。
なお、横浜市交通局では地下鉄の全座席を優先席としている。
来訪の際は、積極的に席を譲り合っていただくよう御願いしたい。

お知らせとご案内:新規ブックマーク追加と当ブログご案内

2008-11-01 18:44:06 | お知らせとご案内
新規ブックマークとしてTADA様のサイト「汽車・電車 1971~」を加えました。
昭和40年代~50年代初期の日本各地の鉄道の様子や、全国の保存車を紹介しています。
特に保存車を写真付きで紹介しているサイトでは随一。
今後、末永いお付き合いをお願い申し上げます。

また、背景をオレンジ色に変えました。
春先までこのカラーで運用する予定です(モバイル版含む)。

さて、今回は当ブログのご案内をいたします。
当ブログ「水の丘交通公園」はブログ形式の鉄道図鑑でございます。
おおよそ2日間隔で更新していますが、管理人の勤務(24H3交代制)の関係上、
この間隔が大幅に拡がる場合がございます。
また、旅行等で不在の場合も同じです。
写真・記事の内容は管理人に帰属します。使用の際はコメント欄に
具体的な理由(できれば当サイトへの感想も含む)をご記入ください。
追って当方よりメールにて可否の連絡を致します。

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分類は管理人の主観ですのでご了承ください。
適当だと思われる指摘があれば逐次修正に応じますのでコメント欄にご記入ください。

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