車体の老朽化により引退した初代AE形「スカイライナー」(※)の機器を
流用して車体を新造した車両である。
平成5年~平成7年にかけて8両編成×5本=40両が登場した。
車番は成田空港側から3401+3402+3403・・・で上野側先頭車が3408である。
十の位が編成番号で実際の編成番号-1で表記される。
したがって、第1編成は3401~3408、第2編成は3411~3418で最終の第5編成は
3441~3448となる。
編成中の電動車は6両、付随車は2両で、1の位1・2・4・5・7・8が電動車、
3・6が付随車である。
原則的に8両編成で運用されるが登場時や車両故障などで6両で運用された
こともある。
車体デザインは3700形電車のものを踏襲しているが、ステンレスではなく、
普通鋼鉄製になっている。
3441編成より先頭部分に大型スカートを設置したが、後に全ての編成で
取り付けている。
行き先表示と種別表示は共に字幕式である。
塗装はライトグレーにレッドの帯とブルーの細帯が入るもので、後に在来形式にも
波及している(当時の京成電車の塗装はオレンジ1色にステンレスの細帯を巻いて、
その中に黄色の細帯)。
ちなみにこの塗装自体は3200形で試用されたもののうちの一つである。
客用ドアは片側3箇所、全て両引き戸である。
車内はオールロングシートで先頭車に京成電鉄の車両として初めて
車椅子スペースを設けた。
各ドアの上にはLEDスクロール式の旅客案内装置が設置されている。
主制御装置は種車のものを流用した同じ界磁チョッパ制御でブレーキは
同じく回生ブレーキ併用電気指令式ブレーキである。
ブレーキについては通勤輸送を考慮して混雑時でも空いている時と変わらない
ブレーキ力が得られるように応荷重装置を新設している。
しかし、主制御装置は特急車の頃のままで直列から並列の切り換えがない
永久並列回路となっているため、回生ブレーキが45km/hまでしか
使用できないほか、低速度域での衝動抑制についてはあまり考えられていない。
台車は種車からの流用品であるが、ブレーキ装置に改良を施している。
運転台はT字型ワンハンドルマスコンでコンソールは3700形と同じ見やすい形状と
されたが支援装置の類は故障表示灯ぐらいしかない。
パンタグラフは種車からの下枠交差形パンタグラフを使用していたが、
平成15年から17年までにシングルアーム式に交換されている。
平成14年より客室設備を中心に改造を行っている。
主な内容は、LED旅客案内装置の更新と設置数削減(千鳥配置化)、座席の張り替え、
英語放送用ICレコーダー設置(主要駅でのみ使用)、方向・種別幕交換などである。
運用は3700形と共に自社線の特急や京急羽田線羽田空港への直通列車などで
終日運用されている。
自社線では基本的に京成本線と押上線以外では運用されないが、平成11年に
3411編成の3414+3415が足回りの不具合のため、編成を離れた関係で、
一時的ながら6両編成で使われ、京成千葉線や千原線に乗り入れた事がある。
また、北総開発鉄道(→北総鉄道)に3401編成が短期間リースされたことがある。
※初代AE形電車
成田空港へのアクセス特急用として昭和47年に登場した車両である。
昭和53年までに6両編成×7本=42両が製造された。
形式の「AE」は「Airport Express」の略称である。
車体は鋼鉄製で正面は独自の流線型スタイルとなっていた。
車内は乗車時間が1時間程度と短いことから、ビニルレザー張りの
転換クロスシートを採用した他、客室デッキ仕切り付近に大型荷物置場が
設置された。
塗装はクリームに窓周りがマルーンのツートンで全国の小学生から愛称を
募集し「スカイライナー」と命名された。
主制御装置は界磁チョッパ制御で定速度運転機構付き、ブレーキは回生ブレーキ
併用電気指令ブレーキと当時の鉄道車両の最新技術を詰め込んだ。
台車は空気バネ台車である。また、京成の電車として初めて冷房を搭載した。
昭和47年に予定されていた空港の開港と同時に颯爽とデビューするはずだったが、
過激派によるテロや地元住民の武力を用いた反対で大幅に遅れる事になって
しまった。
これを受けて京成としては暫定的に成田までの特急に使う予定であったが、
運輸省(→国交省)から「使用目的が違う」と運行許可が中々下りず、
営業開始は昭和48年の大晦日からという事態になった。
昭和53年の開港直前には過激派によって焼き討ちに遭い、早くも中間車1両が
廃車になった(すぐに代替新造)。
昭和58年に塗装をクリームとブルーのツートンにレッド細帯をブルーの
太帯2本で挟んだ、大胆なストライブを入れたものに変更した。
また、座席もビニルレザーからモケット張りに変更。
昭和62年には回転リクライニングシートになっている。
平成2年に翌年の空港ターミナル直下乗り入れに伴い、8連化を実施している。
この際、先頭車2両を中間車に改造し、余った2両が廃車され、
8両編成×5本=40両の陣容になった。
その後、AE100形の増備が進んだため、平成5年で全車引退した。
引退後は全車が先述の3400形に改造されている。
このうちAE61号の車体は、宗吾工場で保存されている。台車は3400形に
流用されているため、同時期に廃車となった赤電のものを履いている。
なお、平成21年に登場し、来年よりデビューする新型特急車に形式が
引き継がれた。
流用して車体を新造した車両である。
平成5年~平成7年にかけて8両編成×5本=40両が登場した。
車番は成田空港側から3401+3402+3403・・・で上野側先頭車が3408である。
十の位が編成番号で実際の編成番号-1で表記される。
したがって、第1編成は3401~3408、第2編成は3411~3418で最終の第5編成は
3441~3448となる。
編成中の電動車は6両、付随車は2両で、1の位1・2・4・5・7・8が電動車、
3・6が付随車である。
原則的に8両編成で運用されるが登場時や車両故障などで6両で運用された
こともある。
車体デザインは3700形電車のものを踏襲しているが、ステンレスではなく、
普通鋼鉄製になっている。
3441編成より先頭部分に大型スカートを設置したが、後に全ての編成で
取り付けている。
行き先表示と種別表示は共に字幕式である。
塗装はライトグレーにレッドの帯とブルーの細帯が入るもので、後に在来形式にも
波及している(当時の京成電車の塗装はオレンジ1色にステンレスの細帯を巻いて、
その中に黄色の細帯)。
ちなみにこの塗装自体は3200形で試用されたもののうちの一つである。
客用ドアは片側3箇所、全て両引き戸である。
車内はオールロングシートで先頭車に京成電鉄の車両として初めて
車椅子スペースを設けた。
各ドアの上にはLEDスクロール式の旅客案内装置が設置されている。
主制御装置は種車のものを流用した同じ界磁チョッパ制御でブレーキは
同じく回生ブレーキ併用電気指令式ブレーキである。
ブレーキについては通勤輸送を考慮して混雑時でも空いている時と変わらない
ブレーキ力が得られるように応荷重装置を新設している。
しかし、主制御装置は特急車の頃のままで直列から並列の切り換えがない
永久並列回路となっているため、回生ブレーキが45km/hまでしか
使用できないほか、低速度域での衝動抑制についてはあまり考えられていない。
台車は種車からの流用品であるが、ブレーキ装置に改良を施している。
運転台はT字型ワンハンドルマスコンでコンソールは3700形と同じ見やすい形状と
されたが支援装置の類は故障表示灯ぐらいしかない。
パンタグラフは種車からの下枠交差形パンタグラフを使用していたが、
平成15年から17年までにシングルアーム式に交換されている。
平成14年より客室設備を中心に改造を行っている。
主な内容は、LED旅客案内装置の更新と設置数削減(千鳥配置化)、座席の張り替え、
英語放送用ICレコーダー設置(主要駅でのみ使用)、方向・種別幕交換などである。
運用は3700形と共に自社線の特急や京急羽田線羽田空港への直通列車などで
終日運用されている。
自社線では基本的に京成本線と押上線以外では運用されないが、平成11年に
3411編成の3414+3415が足回りの不具合のため、編成を離れた関係で、
一時的ながら6両編成で使われ、京成千葉線や千原線に乗り入れた事がある。
また、北総開発鉄道(→北総鉄道)に3401編成が短期間リースされたことがある。
※初代AE形電車
成田空港へのアクセス特急用として昭和47年に登場した車両である。
昭和53年までに6両編成×7本=42両が製造された。
形式の「AE」は「Airport Express」の略称である。
車体は鋼鉄製で正面は独自の流線型スタイルとなっていた。
車内は乗車時間が1時間程度と短いことから、ビニルレザー張りの
転換クロスシートを採用した他、客室デッキ仕切り付近に大型荷物置場が
設置された。
塗装はクリームに窓周りがマルーンのツートンで全国の小学生から愛称を
募集し「スカイライナー」と命名された。
主制御装置は界磁チョッパ制御で定速度運転機構付き、ブレーキは回生ブレーキ
併用電気指令ブレーキと当時の鉄道車両の最新技術を詰め込んだ。
台車は空気バネ台車である。また、京成の電車として初めて冷房を搭載した。
昭和47年に予定されていた空港の開港と同時に颯爽とデビューするはずだったが、
過激派によるテロや地元住民の武力を用いた反対で大幅に遅れる事になって
しまった。
これを受けて京成としては暫定的に成田までの特急に使う予定であったが、
運輸省(→国交省)から「使用目的が違う」と運行許可が中々下りず、
営業開始は昭和48年の大晦日からという事態になった。
昭和53年の開港直前には過激派によって焼き討ちに遭い、早くも中間車1両が
廃車になった(すぐに代替新造)。
昭和58年に塗装をクリームとブルーのツートンにレッド細帯をブルーの
太帯2本で挟んだ、大胆なストライブを入れたものに変更した。
また、座席もビニルレザーからモケット張りに変更。
昭和62年には回転リクライニングシートになっている。
平成2年に翌年の空港ターミナル直下乗り入れに伴い、8連化を実施している。
この際、先頭車2両を中間車に改造し、余った2両が廃車され、
8両編成×5本=40両の陣容になった。
その後、AE100形の増備が進んだため、平成5年で全車引退した。
引退後は全車が先述の3400形に改造されている。
このうちAE61号の車体は、宗吾工場で保存されている。台車は3400形に
流用されているため、同時期に廃車となった赤電のものを履いている。
なお、平成21年に登場し、来年よりデビューする新型特急車に形式が
引き継がれた。