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水の丘交通公園

鉄道メインの乗り物図鑑です。
※禁無断転載!使用に際してはコメント欄にて
用途を申告してください。

国鉄 青函連絡船 十和田丸(初代・模型)

2011-04-23 21:33:34 | 電車以外の乗り物
昭和29年9月26日の台風15号襲来で沈没し、修復不能となった車載客船「洞爺丸」の
代船として就航したものである。
昭和32年に1隻が製造された。
製造を担当したメーカーは新三菱重工神戸造船所である。

船体は普通鋼鉄製で船首は緩やかな曲線を描いて突き出し、青函連絡船の船で
初めてアンカーリセス(錨を収納する部分の凹み)を設けた。
船尾には鉄道車両用の搬入口があり、貨物船の「空知丸(初代)」、「檜山丸(初代)」で
試験を行った水密扉(空知丸)と急速排水ポンプ(檜山丸)の運用実績を基に、
搬入口には青函連絡船の車載客船で初めて水密扉を設けた。
車両の積載数は18両(ワム貨車で)である。
塗装はアイボリーに浅い緑色のツートンカラーで煙突は従来どおりに黄褐色に
上部が黒で「工」のエンブレムが赤である。
このエンブレムを採用した船はこの船が最後である。

客室は端艇甲板室後部の2等寝台室と特別室、一層下の遊歩甲板には2等座席(いわゆる
座敷)、同甲板室中央の機関室囲壁の前部から左舷にかけて2等椅子席と2等食堂、
右舷側は2等座席となる。
2等座席はじゅうたん敷きで椅子席は大型のソファが置かれていた。
3等は軽食堂と椅子席を除いて全て畳敷きの座席である。
なお、この船から1等船室が無くなっているが、すぐに国鉄の等級改正の実施が
迫っていたためで、2等がそのまま1等に、3等が2等になっている。
また、洞爺丸型まで存在した車両甲板よりも下の客室は安全性を向上させるため、
廃止された。
これにより一応の居住性の向上は図られたが、事故後に急いで建造された船であったため、
船内装飾がほとんど無く殺風景な船室であった。

主機関はディーゼルエンジン2基(2600馬力×2)で、青函連絡船の車載客船で初めての
ディーゼル船になった。
船尾舵は2つとなり、時化の中でも船位を保てるようにした他、復元性の向上を
図っている。
また、船底はエンジンなどの主要機器保護のため二重構造となり、万が一浸水し、
2区画以上に水が入っても沈まない防水区画を配置している。
端艇甲板には救命艇を左右5艇ずつ10艇が配置され、最もブリッジ寄りのもののみ
エンジン付き、他は102名乗りの大型のものである。
性能面に関してはダイヤの関係上、洞爺丸型と同程度とされ、青森~函館間を
4時間半で結んだ。

洞爺丸の代船として就航し、美しい外観と最新の救命・消火設備を誇っていたが、
既述の通り、船内の装飾が少なかった上、機関の防音・防振対策が不十分で
あったため、従来の静かな蒸気タービン船と比べると騒音が著しく不評であった。
写真ギャラリーで掲載した時にも述べたが、メモリアルシップ「摩周丸」にて
お話を伺った摩周丸元船長氏の言葉を借りれば「とても苦情が多かった」そうだ。
それでもピンチヒッターとして黙々と役目を果たした。

昭和39年に津軽丸(2代目)型が就航すると予備の船となり、昭和41年に同型の
7番船に名前を譲って引退した。
引退後は函館ドックに入梁して車載貨物船への改造が実施され、
名前も「石狩丸(2代目)」に変更された。
客室設備は船員室に改装された煙突よりも前の部分を残して撤去され、
線路を増やして積載車両数を43両とした。
煙突の後には主機からのびる2つの角ばった煙突が付けられた。
再就航は昭和42年からで性能が同じ「檜山丸(初代)」や「空知丸(初代)」と
共に運行され、昭和52年に引退した。
引退後は売却されて、韓国で解体された。

国鉄 「洞爺丸」型青函連絡船用車載客船

2010-09-26 22:43:00 | 電車以外の乗り物
青函連絡船「洞爺丸」型は戦災で失った車載客船「翔鳳丸」型4隻(翔鳳丸、飛鸞丸、津軽丸、
松前丸)の代船として建造されたものである。
昭和23年に洞爺丸、羊蹄丸、摩周丸、大雪丸の4隻が就航した。

当時の日本は敗戦の為、アメリカに統治されており、鉄道車両や船舶、航空機の製造が
禁じられていたが、当のアメリカが壊滅させた青函連絡船では貨物船だった
第7・第8青函丸や第11・12青函丸、石狩丸に客室を設けたが、第11・12青函丸と石狩丸は
進駐軍に接収されてしまい、深刻な輸送力不足となっていた。
国鉄では青森で空襲に遭い、座礁していた第6青函丸を復旧させたほか、他の国鉄航路から
客船をかき集め対応していたが、焼け石に水であった。

この窮状を打開するため、昭和21年に国鉄がGHQに青函連絡船向けに新造船8隻(客載車両
渡船4隻&貨物車両渡船4隻。これに宇高連絡船の紫雲丸型3隻と補助汽船6隻の計17隻分)の
製造許可を、どうにか取り付け、製造が開始された。
こうして誕生したのが洞爺丸型4隻である。ちなみに貨物船では十勝丸、渡島丸、北見丸、
日高丸が就航している。

製造メーカーは三菱重工業(洞爺丸・羊蹄丸・大雪丸)と浦賀船渠(摩周丸)である。

船体は従来の客載車両渡船よりも8m延長された大柄のもので、船橋から前上部構造にかけて
ゆるやかな曲線を描いている。
側面は開放型の上部遊歩甲板の下に下部遊歩甲板の2段式の角窓がずらりと
並んでおり、船体後部の車両乗船口のところで切り立ったようになっている。
煙突は上部に左右2つずつ4つあり、少し後方に傾けることで優雅さを演出している。
塗装は船名板より上が白、これより下が黒で煙突は黄色と黒でファンネルマークは
黄色の部分に赤で「工」と描かれている。

船内は5層構造で、最上部から順に端艇甲板、上部遊歩甲板、下部遊歩甲板、車両甲板、
第2甲板で構成される。
上部遊歩甲板には1等と2等の船室があり、1・2等用食堂を挟んで1等が船首側、
2等が船尾側にある。
1等客室は入口ロビーにソファが置かれ、照明と天窓からの自然光が入るもので
広間の壁にはエッチングアートが飾られた。
船室は4人用の寝台室と2人用の特別室がある。
2等船室は1・2等客用の食堂と喫煙室を挟んで船尾側にあり、2等入口ロビーを挟んで
前側が寝台室、後ろ側がじゅうたん敷きの座席室となる。
食堂と喫煙室は煙突の通り道で囲われた区画にあった。
なお食堂は、当時の食糧事情から非営業で、これが好転する昭和25年から営業を
開始している。
3等船室は下部遊歩甲板と第2甲板にあり、下部遊歩甲板は車両格納所を取り巻くように
逆Uの字型で客室が構成され、左舷側に専用の乗船口と3等客用の食堂がある。
また、この区画は青函連絡船で初めて椅子席としている。
第2甲板の客室は機関室を挟んで前2部屋、後1部屋があり、畳敷きの座席で広々とは
していたが、乗船口から部屋まで2フロアも降りなければならず、各種配管がむき出しの
ままであった。

車両甲板はワム形貨車で18両が積載可能で、客車航送のための簡易ホームもある。
これは歴代の鉄道車両を積める青函連絡船の客船で最も少ない数であるが、
乗船定員の増強を優先させたため、仕方ないといえる。

動力はボイラー6缶(乾燃式円缶)で蒸気でタービンを回す、蒸気タービン方式で、
摩周丸がインパル・スタービン、他の3隻がインパルス・リアクション・タービンである。
航行最高速度は17.5ノットで青森~函館間の所要時間は4時間半であった。
なお、洞爺丸から船内の各機器の電源の交流化を図り、ターボ式ディーゼル発電機2基を
装備していた。
係船機械についても交流化が行われている。

戦後の混乱期に登場した船ではあるが、1・2等を中心にそれを感じさせない程、完成度の
高いものであった。
蒸気機関車牽引の鈍足で大混雑の列車を降りた乗客は、この真新しい船に乗り換え、
給湯設備の整った洗面台で顔を洗い、整備された船内でくつろぐことができ、
荒廃した列車よりも先に快適なサービスを提供した。
昭和25年に船体の客室部分が大きく、強風時に舵が利き難くなることがあったことから
舵の面積の拡大と補強板設置を実施した他、貨物船の渡島丸と同時にマリンレーダーを
メインマスト前の船橋上に設置した。
これの前年には朝鮮戦争の勃発で日本海にばら撒かれた浮遊機雷が津軽海峡に
流れ込んできたため、救命艇をいつでも降ろせる状態にしていたほか、救命浮器を
いつでも投下できるよう上部遊歩甲板デッキに配置した。
このほか、車両甲板左右の作業デッキへの覆い設置など、細かい改良が行われている。

昭和29年8月には北海道で開催された国体に参加されるため、天皇陛下が洞爺丸に
乗船され、「海峡の女王」の名に相応しい活躍をした。

・・・が、その翌月、悲劇は起きた。
昭和29年9月26日。発達した台風15号は日本に接近。勢力を強めながら日本海側を
北上していると見られた。
函館は当日、天候が悪く強い雨が降り続き、停電も断続的に発生していた。
11時に青森から函館に到着し、折り返し14時40分発の4便として待機していた洞爺丸は
出港準備をしていた。
しかし、12時40分ごろに津軽海峡を航行中の渡島丸が「風速25メートル、波8、うねり6、
動揺22度。進路南東で難航中」と無線電話が入る。時化で操船が難しくなるのは当たり前だが、
「難航中」というのは、操船の自由がきかないという状況を暗に示しているものである。
この無線を聴いた先行の第6青函丸と第11青函丸(いずれも戦時設計船)は函館に
引き返してくる。
うち、進駐軍を乗せていた第11青函丸の乗客と車両を洞爺丸に移乗させる事になった。
洞爺丸は定時出航して19時少し前には三厩湾に逃げ込む予定でいたが、この作業に手間が
かかった上、車両を積むための可動橋が停電で上がらず、出航できなくなってしまう。
結局、15時10分に「天候警戒運転見合わせ」となり、出航を中止する。
しかし、この停電は僅か2分だけで、ここで出航できていれば洞爺丸は青森に
着けていたという説がある。

この頃、函館ドックのブイに繋留されていたイタリア船籍の貨物船「アーネスト」が
高波で繋留が外れ漂流し始め、港内は俄かに混乱した。
また、15時過ぎから強風とバケツをひっくり返したような大雨が函館で降り注いだ。

この雨は突然、17時ごろに上がり、吹き付けていた風も弱くなり、夕日さえ見ることが
出来た。
「台風の目か・・・」
船長も誰もがそう思った。吹き返しを見定めて1時間、あとは台風に逆行するのだから
風も波も弱くなるだろうと判断し、洞爺丸は「遅れ4便」として18時半に出航することを
決意する。
そして18時39分、汽笛一声、洞爺丸は函館港を出航していった。

ところが港の外に出た直後、40mを越える強風と高波に煽られ、洞爺丸の船体を激しく
揺らす。誰が見てもこの状況で津軽海峡に出るのは無謀であった。

実は16時の段階で台風は来ておらず、先の大雨は台風によって刺激された前線が発達した
状態になっていたのだ。
これにより低気圧同士の間に出来ることがある閉塞前線が形成され、一時的な晴れ間を
見せていたに過ぎない。
それが丁度17時ごろ。そして1時間後、台風はやってきた。

洞爺丸はその場で錨を下ろし、停泊することになる。しかし、あまりの風と波で錨が
利かずに流され始める。機関を動かし、船の姿勢を保とうとするが、船尾にある
車両搬入口から海水が入り始め、機関室に海水が入ってくるようになった。
車両甲板では甲板員が貨客車の緊締器具の締め直しを行っていたが、彼らにも船尾からの
海水が襲い掛かり、徐々に船内に滞留し始めた。
洞爺丸型に限らず青函連絡船の船には鉄道車両を搬出入するための口が船尾にあり、
港にある可動橋と連結するためのエプロンという張り出しがある。
ここが波頭に突っ込むと海水を拾い上げ、船首側に水を送る。船首側が上がると水は
船尾から出て行くはずだが、エプロンが水の中だと、新たに水を拾い上げるだけとなり、
滞留してしまうのだ(獅子嚇しを思い出してもらうとわかりやすい)。
機関室の火手が総出でボイラーの火を守ったが、浸水は如何ともしがたく、
21時半ごろ左舷の機関が停止する。
22時ごろには右舷も停止して動力を失い、右舷に船体を傾けながら漂流し始める。

レーダーは1200m先に七重浜を捉え、洞爺丸がこれに向かって流されていることを
示していた。七重浜は函館郊外の遠浅の海岸で夏は海水浴客で賑わう。
ここに乗り上げれば転覆・沈没は免れるはずだ。
洞爺丸は座礁を決意する。機関が止まったこの船には他に手段はなかった。

22時23分、船底に軽い衝撃が走り、洞爺丸は座礁したかに見られた。
しばらく、そのまま右に傾きながら静止していたが、徐々に傾きを強めていった。

22時39分、洞爺丸はSOSを発信し、救援を求めるが、補助汽船も波が高く出航できない。
その約2分後、船内が停電した後、大きな波が洞爺丸を揺らし、船内に積んでいた
貨車の緊縛が解け、轟音と共に倒れだし、22時43分、左舷船腹を上にして転覆・沈没した。

この時、他に大雪丸、第6青函丸、第11青函丸、第12青函丸、石狩丸、北見丸、十勝丸、
日高丸が函館にいたが、どの船も荒れ狂う海で難航していた。
このうち、第11青函丸、北見丸、十勝丸、日高丸が沈没し、他の船も少なからず
損傷を負った。
この事故で洞爺丸だけで1155名、他の船を合わせて1430名の死者・行方不明者を出した。

台風15号はこの後、北海道の天然木を次々に凪ぎ倒し、岩内町に大火を誘発させて
オホーツク海に去っていった。

洞爺丸の船体は引き上げの遅れや遭難者を救出するため各部を切開した関係で損傷が酷く、
慰霊碑に流用された船名板を残して解体処分されている。
この事故の後、青函連絡船の船の構造が徹底的に見直され、残った洞爺丸型では
安全対策工事が施された。
主な内容は側面の特徴であった、下部遊歩甲板の窓を角窓から水密式の丸窓への変更、
船尾車両搬入口への水密扉設置、ボイラー燃料を石炭から重油対応に変更、
外部塗装の変更(黒白のツートン→淡い緑色とクリームのツートン)などである。

この後は大きな事故もなく、昭和39年~40年にかけて津軽丸型に置き換えられて引退した。
引退後、大雪丸はディーゼル船に大改造の上でギリシャに売却。
その後、中東でカーフェリーとして使用されていたが、平成3年に爆撃に遭い、
沈没している。


○船尾側から見た洞爺丸。

○洞爺丸の船尾拡大。この部分から海水が浸入し、滞留することになった。
 上の小屋は接岸時に可動橋に接岸する時と貨車の積み込みの際に船の傾斜を
 コントロールするサブブリッジ。
 ここまでの写真はメモリアルシップ八甲田丸で撮影。

○初代摩周丸。対策工事のうち、窓の水密窓化実施後の姿である。
 函館市青函連絡船記念館摩周丸にて撮影。




○タビノワでも紹介した洞爺丸の慰霊碑。真ん中が北見丸の船底。
 一番下が第11青函丸の船名板。
 この事故において沈没した船の状況は以下の通り。
 ・洞爺丸:22時43分。七重浜にて座礁。その後転覆・沈没。
 ・第11青函丸:19時58分ごろ。船体破断により沈没。
 ・北見丸:22時20分頃。ヒーリング装置による姿勢制御に失敗して転覆・沈没。
 ・十勝丸:23時43分頃。転覆沈没。昭和31年復帰。昭和45年最後のタービン船として引退。
 ・日高丸:23時40分頃。SOS打電中に転覆沈没。昭和31年復帰。昭和44年引退。

当ブログは、この記事を事故で犠牲になられた皆様に奉げようと思います。
どうか、安らかにお休みください。

管理人:水の丘

瀬戸内海汽船・石崎汽船 「スーパージェット」

2009-05-05 21:00:00 | 電車以外の乗り物
広島から呉を経由して松山を結ぶ水中翼船の老朽置き換えのため、
平成5年に登場した高速双胴水中翼船である。
瀬戸内海汽船と石崎汽船に其々2隻ずつ、計4隻が就航している。
船名は瀬戸内海汽船が「道後」と「宮島」、石崎汽船が「祥光」と「瑞光」である。
このうち石崎汽船の「祥光」はこのタイプの船の1番船である。

ウォータージェット推進で最高37.4ノットの高速航行を可能としている。
船体はウォータージェットや舵などの一部を除いてアルミ製で軽量化を図っている。
また、スタビライザーの装備により、横揺れの防止を図っている。

キャビンは2階建てで、上部がスーパーシート、下部が普通船室となっている。
座席はリクライニングシートで全ての座席が船首側に向いている。
また全ての座席にシートベルトを装備している。
テーブルは座席の背部に付いており、普通船室の最前部の座席にはテーブルが無い。
スーパーシートの座席はハイバックのリクライニングシートでフットレストが付く。
テーブルは肘掛の中に入っている。

後部に乗降デッキを備え、ソファや飲み物の自動販売機、トイレが設置されている。
この部分は平成20年4月までは喫煙コーナーであったが、現在は全室禁煙である。

売店は普通船室後方にあり、軽食や飲み物、お土産などのほか、携帯電話の
充電サービスなども行っている。
また、スーパーシート券の発行も行っており、途中でクラスチェンジすることが
可能である。
ただし、着岸前後は販売員が改札業務に行っているため、営業していないので
注意が必要。

平成20年のダイヤ改正より、現在は、凡そ1時間間隔で14往復が運行されている。
うち、半数の7往復は呉港に寄らない直行便である。
運賃は特急料金込みで松山観光港~広島間6900円、松山観光港~呉間5040円、
呉~広島間2050円である。
往復、学生、障害者、高齢者、団体などの割引制度があるほか、回数券も
発売されている。
スーパーシートは全区間500円均一である。
着席定員制であり、座席数以上の切符の販売は行っていない。
乗船予約は3ヶ月前より受け付けており、電話、又はインターネットでの予約が
可能である。


スーパーシート。この奥にブリッジがある。

普通船室。右手が売店。

後部デッキ。飲み物の自販機がある。トイレは左手前にある。

石崎汽船の「祥光」(手前)と「瑞光」(奥)

広島港に進入する瀬戸内海汽船の「宮島」。船体を浮かせている様子がわかる。

瀬戸内海汽船「道後」。


JR西日本 宮島連絡船

2008-08-08 21:43:19 | 電車以外の乗り物
宮島連絡船は、JR山陽本線宮島口駅から宮島までの間を結ぶ鉄道連絡船である。
昭和63年に青函連絡船と宇高連絡船が廃止された後、JRが運営する唯一の
鉄道連絡船となっている。

鉄道連絡船とは、トンネルや橋を建設するのが困難な川や湖、湾、海峡などを
挟んだ対岸の鉄道と鉄道を結ぶ役割をする連絡船のことである。
日本では対岸の片方に鉄道駅が無くても、鉄道会社運営の航路、
特に旧国鉄系航路について、指す場合もある。

宮島連絡船は後者の例で、当初は山陽本線を開業させた山陽鉄道が厳島神社参拝の
お客のため、明治36年に地元の有志で経営していた宮島渡航会社を買収したのが
始まりである。
この時、就航していた船は、「宮島丸」という船で、明治38年に新造の「厳島丸」に
置き換えられている。
明治39年に山陽鉄道が国に買収されて、国鉄のものになった。

大正9年には関門連絡船から、大瀬戸丸と下関丸が特別席設置などの
改造を経て転属して、「弥山(みせん)丸(初代)」と「七浦(ななうら)丸(初代)」となった。
この当時、「厳島丸」と、大正3年に三菱重工の通船を転用した「松風丸」が
就航していたが、この2隻と置き換わる形で宇高連絡船に転属した。

戦時中の昭和17年に本土側の「宮島桟橋」が「宮島口桟橋」に、厳島側の「厳島桟橋」が
「宮島桟橋」に改称されたほか、宮島桟橋が改築されて、社殿風の屋根が取り付けられた。

昭和21年になり、「七浦丸」が大島連絡船開設に伴い、転属したが、
昭和23年~25年まで、再び、宮島航路に復帰している。
その間、「弥山丸」が運行を続けたが、老朽化が進んだため、
昭和29年に50年ぶりの新造船となる「みやじま丸(初代)」が就航。
さらに小型自動艇「かざし」、「みゆき」、「みさき」の3隻が入り、一日22往復の
フリークエントサービスを実施している。

昭和39年から国鉄広島局担当の関門(下関~門司港。昭和39年廃止)、
仁堀(仁方~堀江。昭和57年廃止)、大島(大畠~周防大島。昭和51年廃止)、
宮島の4航路の合理化が始まり、関門連絡船が同年で廃止となった。
残った3航路では船を融通するようになった。
昭和40年に「山陽丸」、「みせん丸(2代目)」、「みやじま丸(2代目)」の
3隻が就航し、自動艇と、昭和36年に仁堀連絡船から転属してきた「五十鈴丸」、
昭和39年に関門連絡船から転属した「玉川丸」を置き換えた。
この3隻は、小型自動車の運搬が可能で、宮島連絡船での初の自動車輸送船となった。
また、共通設計(山陽丸は一回り大きい)なので、旅客サービスの均一化と
合理化、スピードアップに大きく貢献した。

昭和48年から宮島桟橋の改築が始まり、昭和51年に現在のものが完成している。

昭和51年には廃止になった大島連絡船から転属した「大島丸」と
交替で「みせん丸(2代目)」が引退。
その後、昭和53年に「山陽丸」と「みやじま丸(2代目)」が、
新造船の「みせん丸(3代目)」、「みやじま丸(3代目)」に置き換えられた。
「大島丸」と、この新造船2隻は、宮島連絡船で初めて、客室への冷暖房を完備した。
「大島丸」は国鉄民営化直前の昭和62年に「ななうら丸(2代目)」と置き換えられた。

平成16年と平成18年に「みせん丸」と「みやじま丸」の4代目が就航し、現在の陣容になった。
「みやじま丸」は日本で初めての電気推進式客船フェリーで、
平成18年度「シップ・オブ・ザ・イヤー」を受賞している。

現状は日中は15分おきに運航され、日に凡そ50往復が運行されている。
片道170円で、広島共通パスカード、青春18きっぷも使用できる(ICOCAは未対応)。
日中運航の便の大半は厳島神社の大鳥居の正面の沖を通過するサービスを行っている。


みせん丸(4代目)。この船から双胴・両頭フェリーとなった。


みやじま丸(4代目)。日本最初の電気推進式フェリー。宮島桟橋にて。

砕氷艦「しらせ」

2007-11-14 22:03:34 | 電車以外の乗り物
2代目の南極観測船「ふじ」の老朽化のため、昭和57年に就航した
海上自衛隊の砕氷艦である。
一般には「南極観測船」で呼ばれることが多い。
所属は横須賀地方隊で母港は横須賀港である。

3ノットで厚さ1.5mの氷を連続して砕ける性能を持ち、砕氷艦特有の
ワイドボディが特徴となっている。
煙突は一本で、氷海上での監視ポストがマストに設置されている。
荷物搬送用のクレーンが前甲板に2基、後部に2基設置されている。
また、艦体後部にはヘリコプターの格納庫とヘリポートがあり、
海賊対策として機銃が装備されている。

動力はディーゼル機関で、出力は30000馬力である。
船体全長は134m、幅28mである。

乗組員居住区と観測員居住区は艦内中央部分にある厨房を挟んで
分かれている。
観測隊員の部屋は2人部屋で、同隊長&副隊長室は個室になっている。
この他、4人用オブザーバールーム、研究室、ラジオゾンデ放球室がある。
乗員は170名+南極観測隊員60名の230名である。

艦名の「しらせ」は一般公募で決められたもので、南極にある白瀬氷河から
とったものとされているが、一般には日本で初めて南極探検をした
白瀬帝国陸軍中尉からともいわれる(白瀬氷河の名前が中尉の名前から
とったため)。

ちなみに、一般公募でトップだったのは「やまと」である。
当時、アニメ「宇宙戦艦ヤマト」がブームであったためによるものであるが、
残念ながら、選外となった。

進水してから20年以上が経過し、老朽化が進行していることから、
船体の改修、若しくは新造船の就航が多方面から訴えられてきたが、
日本政府の財政難から、見送られ続け、日本の局地観測の歴史の終焉が
危惧される状況が続いた。
しかし、平成18年に後続艦の新造が決まり、
平成19年に起工、翌20年には完成する予定である。
名前も引き継がれる。

現行の「しらせ」は平成19年11月14日出発の第49次観測隊輸送が
最後の航海となる。

現在のところ、引退後の処遇は決まっていないが、
船体が巨大であり(「ましゅう」級補給艦が、
就航するまでは海上自衛隊最大の艦船であった)、
展示維持のための費用が莫大であることが予想されることから、
解体処分される可能性が高いといわれている。


艦尾側。出航前夜に撮影。バックはレインボーブリッジ。
東京・晴海客船ターミナルにて。