昭和29年9月26日の台風15号襲来で沈没し、修復不能となった車載客船「洞爺丸」の
代船として就航したものである。
昭和32年に1隻が製造された。
製造を担当したメーカーは新三菱重工神戸造船所である。
船体は普通鋼鉄製で船首は緩やかな曲線を描いて突き出し、青函連絡船の船で
初めてアンカーリセス(錨を収納する部分の凹み)を設けた。
船尾には鉄道車両用の搬入口があり、貨物船の「空知丸(初代)」、「檜山丸(初代)」で
試験を行った水密扉(空知丸)と急速排水ポンプ(檜山丸)の運用実績を基に、
搬入口には青函連絡船の車載客船で初めて水密扉を設けた。
車両の積載数は18両(ワム貨車で)である。
塗装はアイボリーに浅い緑色のツートンカラーで煙突は従来どおりに黄褐色に
上部が黒で「工」のエンブレムが赤である。
このエンブレムを採用した船はこの船が最後である。
客室は端艇甲板室後部の2等寝台室と特別室、一層下の遊歩甲板には2等座席(いわゆる
座敷)、同甲板室中央の機関室囲壁の前部から左舷にかけて2等椅子席と2等食堂、
右舷側は2等座席となる。
2等座席はじゅうたん敷きで椅子席は大型のソファが置かれていた。
3等は軽食堂と椅子席を除いて全て畳敷きの座席である。
なお、この船から1等船室が無くなっているが、すぐに国鉄の等級改正の実施が
迫っていたためで、2等がそのまま1等に、3等が2等になっている。
また、洞爺丸型まで存在した車両甲板よりも下の客室は安全性を向上させるため、
廃止された。
これにより一応の居住性の向上は図られたが、事故後に急いで建造された船であったため、
船内装飾がほとんど無く殺風景な船室であった。
主機関はディーゼルエンジン2基(2600馬力×2)で、青函連絡船の車載客船で初めての
ディーゼル船になった。
船尾舵は2つとなり、時化の中でも船位を保てるようにした他、復元性の向上を
図っている。
また、船底はエンジンなどの主要機器保護のため二重構造となり、万が一浸水し、
2区画以上に水が入っても沈まない防水区画を配置している。
端艇甲板には救命艇を左右5艇ずつ10艇が配置され、最もブリッジ寄りのもののみ
エンジン付き、他は102名乗りの大型のものである。
性能面に関してはダイヤの関係上、洞爺丸型と同程度とされ、青森~函館間を
4時間半で結んだ。
洞爺丸の代船として就航し、美しい外観と最新の救命・消火設備を誇っていたが、
既述の通り、船内の装飾が少なかった上、機関の防音・防振対策が不十分で
あったため、従来の静かな蒸気タービン船と比べると騒音が著しく不評であった。
写真ギャラリーで掲載した時にも述べたが、メモリアルシップ「摩周丸」にて
お話を伺った摩周丸元船長氏の言葉を借りれば「とても苦情が多かった」そうだ。
それでもピンチヒッターとして黙々と役目を果たした。
昭和39年に津軽丸(2代目)型が就航すると予備の船となり、昭和41年に同型の
7番船に名前を譲って引退した。
引退後は函館ドックに入梁して車載貨物船への改造が実施され、
名前も「石狩丸(2代目)」に変更された。
客室設備は船員室に改装された煙突よりも前の部分を残して撤去され、
線路を増やして積載車両数を43両とした。
煙突の後には主機からのびる2つの角ばった煙突が付けられた。
再就航は昭和42年からで性能が同じ「檜山丸(初代)」や「空知丸(初代)」と
共に運行され、昭和52年に引退した。
引退後は売却されて、韓国で解体された。
代船として就航したものである。
昭和32年に1隻が製造された。
製造を担当したメーカーは新三菱重工神戸造船所である。
船体は普通鋼鉄製で船首は緩やかな曲線を描いて突き出し、青函連絡船の船で
初めてアンカーリセス(錨を収納する部分の凹み)を設けた。
船尾には鉄道車両用の搬入口があり、貨物船の「空知丸(初代)」、「檜山丸(初代)」で
試験を行った水密扉(空知丸)と急速排水ポンプ(檜山丸)の運用実績を基に、
搬入口には青函連絡船の車載客船で初めて水密扉を設けた。
車両の積載数は18両(ワム貨車で)である。
塗装はアイボリーに浅い緑色のツートンカラーで煙突は従来どおりに黄褐色に
上部が黒で「工」のエンブレムが赤である。
このエンブレムを採用した船はこの船が最後である。
客室は端艇甲板室後部の2等寝台室と特別室、一層下の遊歩甲板には2等座席(いわゆる
座敷)、同甲板室中央の機関室囲壁の前部から左舷にかけて2等椅子席と2等食堂、
右舷側は2等座席となる。
2等座席はじゅうたん敷きで椅子席は大型のソファが置かれていた。
3等は軽食堂と椅子席を除いて全て畳敷きの座席である。
なお、この船から1等船室が無くなっているが、すぐに国鉄の等級改正の実施が
迫っていたためで、2等がそのまま1等に、3等が2等になっている。
また、洞爺丸型まで存在した車両甲板よりも下の客室は安全性を向上させるため、
廃止された。
これにより一応の居住性の向上は図られたが、事故後に急いで建造された船であったため、
船内装飾がほとんど無く殺風景な船室であった。
主機関はディーゼルエンジン2基(2600馬力×2)で、青函連絡船の車載客船で初めての
ディーゼル船になった。
船尾舵は2つとなり、時化の中でも船位を保てるようにした他、復元性の向上を
図っている。
また、船底はエンジンなどの主要機器保護のため二重構造となり、万が一浸水し、
2区画以上に水が入っても沈まない防水区画を配置している。
端艇甲板には救命艇を左右5艇ずつ10艇が配置され、最もブリッジ寄りのもののみ
エンジン付き、他は102名乗りの大型のものである。
性能面に関してはダイヤの関係上、洞爺丸型と同程度とされ、青森~函館間を
4時間半で結んだ。
洞爺丸の代船として就航し、美しい外観と最新の救命・消火設備を誇っていたが、
既述の通り、船内の装飾が少なかった上、機関の防音・防振対策が不十分で
あったため、従来の静かな蒸気タービン船と比べると騒音が著しく不評であった。
写真ギャラリーで掲載した時にも述べたが、メモリアルシップ「摩周丸」にて
お話を伺った摩周丸元船長氏の言葉を借りれば「とても苦情が多かった」そうだ。
それでもピンチヒッターとして黙々と役目を果たした。
昭和39年に津軽丸(2代目)型が就航すると予備の船となり、昭和41年に同型の
7番船に名前を譲って引退した。
引退後は函館ドックに入梁して車載貨物船への改造が実施され、
名前も「石狩丸(2代目)」に変更された。
客室設備は船員室に改装された煙突よりも前の部分を残して撤去され、
線路を増やして積載車両数を43両とした。
煙突の後には主機からのびる2つの角ばった煙突が付けられた。
再就航は昭和42年からで性能が同じ「檜山丸(初代)」や「空知丸(初代)」と
共に運行され、昭和52年に引退した。
引退後は売却されて、韓国で解体された。