水の丘交通公園

鉄道メインの乗り物図鑑です。
※禁無断転載!使用に際してはコメント欄にて
用途を申告してください。

写真ギャラリー:都電8800形電車

2011-03-29 22:00:12 | 写真ギャラリー
震災前日の今のところ最後のショットです。鬼子母神前で撮影しました。
7500形のさよならヘッドマークを撮れたらいいなぁくらいに思って副都心線の
雑司ヶ谷の駅から地上に出ると、7511号が三ノ輪橋方面電停に停車中なのが
見えました。
で、慌てて撮ったのが先週御紹介の写真でございます。
その後はうちの記事用に何枚か形式写真を撮影。

計画停電の影響で副都心線が池袋以北に来ないので、なかなか訪問できずに居ます。
事情が事情ですし、事態ははじめ思ってたよりも深刻なようですので
安心して趣味に打ち込めるのは、まだまだ先ですね。

写真ギャラリー:京王電鉄3000系電車

2011-03-27 20:30:36 | 写真ギャラリー
6000系が引退し、こいつもそろそろ引退ですね。
一昨年の春に撮影したものですが、この頃には、もう1020系が入り、
朝ラッシュ以外、殆ど動いておりませんでした。
そうかと思えば、今年の1月2日の様に白昼堂々急行で運行されるなど、
ファン・サービスも欠かしてないのは、さすが京王といったところでしょうか。
こいつが桜の花びらを散らして井の頭公園駅を発車するところを
もう一度見たかったですねぇ。

写真ギャラリー:阪神電気鉄道5311形電車

2011-03-26 22:00:25 | 写真ギャラリー
今回は昨年の11月に5550形と置き換えで退役した阪神電気鉄道のジェットカー
5311形電車です。
昭和42年に登場した車両で、阪神大震災前に引退が計画されていましたが、
震災が彼らの運命を変えることになりました。
運よく損傷を免れた彼らは、元々増結用で小回りの利く設計を活かし、
相棒を失ったジェットカー8両の穴埋めのため、5261形や5131形と編成を組んで
阪神本線や西大阪線で活躍。
その後の5500系の増備で5311-5312が廃車になりますが、5331形5143-5144と
編成を組んだ5313-5314が残り、沿線の復興と発展を見守りつつ、
各駅停車専用車としての職責を果たしました。

東北・関東大震災で罹災した鉄道車両も多くあり、特に津波で大破した車両は
復帰が難しいと思います。
東北自動車道が全通し、次は東北新幹線、東北本線、そして常磐線が一日も早く
復旧することをお祈りいたします。

写真ギャラリー:長野電鉄2000系電車

2011-03-24 11:53:21 | 写真ギャラリー
JR東日本から譲り受けた251系電車(初代「成田エクスプレス」)改め、2100系電車と
置き換えられた長野電鉄の元祖特急車2000系です。
50年余りに亘り、県都・長野市から志賀高原への足として活躍しました。
A編成~D編成の3両編成4本が活躍していましたが、既に8500系に置き換えられて
B編成とC編成は引退、A編成も3月中に運用を離脱します。
D編成は夏まで残る予定です。
今回は本形式がまとった3色の塗装をご覧下さい。


○既に引退したC編成。冷房化と更新でこの色になった。
 末期は側面に湯田中駅併設の「楓の湯」の広告が入っていた。


○もう少し残るD編成。この色合いから「リンゴ」の愛称で親しまれた。

写真ギャラリー:寝台特急「はやぶさ」

2011-03-22 20:00:00 | 写真ギャラリー
東北新幹線「はやぶさ」が営業開始して僅かに5日で震災が発生し、今もなお
運休している状態が続いています。
東京から那須塩原までは運行を再開し、3月23日には盛岡から新青森までが
運行を再開する予定になっています。
他の区間の再開も望まれるところですが、仙台駅をはじめ損傷箇所が多く、
福島県内では原発の関係もあって進めようにも進められない状況のようです。

さて写真は平成21年の春まで運行されていた九州方面への寝台特急列車、
いわゆるブルートレインだった「はやぶさ」号です。
かつては東京から西鹿児島(←鹿児島中央)まで結んでいましたが、筆者が乗車した時は
既に鹿児島本線熊本までに短縮され、食堂車やロビーカーなども失われていました。
写真の14系客車は、しばらくリバイバル運転が続けられた後、現在は一部が
ライダーハウスとして保存されています。

写真ギャラリー:さよなら都電7500形電車

2011-03-21 09:59:39 | 写真ギャラリー
震災前日の3月10日のお休みの日にお別れを兼ねて撮影してきました。
震災を受けてさよならイベントはありませんでしたが、最終日は多くの人で
賑わったようですな。

ところで、この7500形、営業からは引退しますが、東京都交通局設立100周年を
記念して花電車に改造されているものがあるようです。
形式は「花100形」。花電車専用車としては6000形の車体上半分を切り取って
花電車にした乙6000形以来約30年ぶり、「花」を形式として使うのは約40年ぶりになると
思います(芝浦工場に「花形」という電車が存在していました)。

しばらく都電沿線も計画停電地域に入るため、満足に走ることが出来なさそうです。

首都圏でも不自由が続きますが、被災地のことを考えれば恵まれた状況であるのは
確かなこと。
ガソリンや食料の買占めなどという人としての品位に欠ける、みっともない
真似はやめましょう。


○阪堺カラーで引退した7511号。

お知らせとご案内:しばらくの間の記事更新につきまして

2011-03-18 21:27:33 | お知らせとご案内
先週の大地震から一週間が経ちました。
我が家では幸い、親戚一同全員無事が確認されましたことをご報告申し上げます。
部屋の片付けは停電や間引き運転で出勤できなかった同僚の代わりに出勤した関係で、
一向に進んでません。
というか我が家の近くのゴミ捨て場が年始の収集初日前日の状態という有様で
進めようにも進められない状況です。

さて、今後の更新につきましては「写真ギャラリー」のみで実施致します。
通常の車両解説などは来月以降、ある程度、世の中が落ち着き始めたあたりで
再開しようと考えております(写真ギャラリーでも簡易説明は実施する予定)。

まだしばらく、混乱が続くようですが、どうか心安らかに、冷静に過ごされますよう
皆様にお見舞い申し上げます。


管理人:水の丘

※今回の写真は阪神電車復興の立役者、阪神9000系。現在は阪神本線の優等列車の他、
 阪神なんば線直通列車を中心に運用中。

お知らせとご案内:ブログ更新停止について

2011-03-12 22:18:16 | お知らせとご案内
東北地方太平洋大震災を受けまして、当ブログは当分の間、更新を自粛いたします。
筆者の勤め先も罹災しまして、周囲の道路で陥没、外壁や建物を接合するジョイントの
剥離(駐車場の天井は小規模にモルタルが崩落)や変型などの被害が出ました。
幸にして負傷者はおりません。
また、筆者自宅の部屋も本棚の本が雪崩になっており、寝床を確保するので
精一杯の状況です。
今後しばらくは片づけが済むまで、更新をお休みします。
岩手、宮城、福島など震源地に近い地方で罹災された方、津波の被害に遭われた方、
原発から避難された方、この震災に遭われた皆様にお見舞い申し上げます。

管理人:水の丘

国鉄 105系電車

2011-03-10 20:47:09 | 電車図鑑・国鉄型一般用車両
戦前・戦後の旧型車が未だに残る末端の電化区間の車両の体質改善のために登場した
車両である。
昭和56年~昭和62年にかけて125両が製造、若しくは改造された。
構成形式と区分は以下の通りである。

○新造車グループ
クモハ105形
:制御電動車。主制御器、電動発電機、エアコンプレッサー、パンタグラフなど
運行に必要な機器をそろえている。0番台は新造車。
クハ104形
:制御車。0番台は新造車。
モハ105形
:中間電動車。クモハ105形から運転台を取り除いた構造を有する。
運転台を取り付けてクモハ105形に編入され既に消滅。
サハ105形
:中間付随車。クハ104から運転台を除いた構造を有する。クハ104形に改造され消滅。

○改造派生車
クモハ105-550
:制御電動車。203系に置き換えられた千代田線直通用の103系1000番台の中間車の
モハ103・モハ102-1000番台に運転台を設けて制御電動車化したものである。
クハ105-0
:制御車。上記の550番台と同じく千代田線直通用の103系1000番台のうち、
制御車のクハ103-1000番台を改造したものである。既設の運転台を生かしているが、
正面貫通扉を常時使用するため、幌枠の設置などの改装を受けている。
運転台の向きは全て偶数向きに揃えられた。
クハ105-100
:制御車。103系のクハ103-0番台を改造したものである。既設の運転台を
そのまま生かしたので103系そのままの非貫通正面であった。既に消滅。
クハ104-500
:制御車。モハ102-1000から改造したものである。電装を解除した他、台車を
101系の付随台車を流用している。運転台は新造した。
車体側面に電動機冷却のための通風口は残されたまま。
クハ104-550
:制御車。踏切事故で車体側面に大きく損傷を負ったクハ105-7の廃車代替車として
明石電車区のモハ102-385を改造したもの。運転台は上記のクハ105-7から
切り接いだ。
クハ104-600
:制御車。103系サハ103形を改造したもの。
クモハ105-100
:制御電動車。103系クモハ103-0から改造された。既設運転台そのままで見た目は
103系と変わらない。消滅。
クハ105-100
:制御車。クハ103-500から改造された。やはり既設運転台はそのまま生かされている。
105系化のため、クモハ105-100が冷房用の発電機を失ってしまったため、本形式に
搭載した。消滅。
クモハ105-600
:制御電動車。モハ102形から改造され、100番台相当の運転台と機器を取り付けた。
消滅。
クハ105-600
:制御車。サハ103形から改造された。これにも冷房用の発電機を搭載している。
消滅。

車体は普通鋼鉄製で新造車と改造車でドアの位置などが大きく異なる。
正面は貫通型で運転台の窓周りはブラック処理がなされている。
この正面デザインは飯田線向けの119系や筑肥線103系1500番台に引き継がれた。
行き先表示機は正面と側面にあり、いずれも字幕式である。
塗装は配置された線区によって異なる。
国鉄の分割民営化後はクモハ105-100、クハ105-100、クモハ105-600、クハ105-600が
JR東日本、それ以外は全てJR西日本が引き継いだ。

車内はロングシートであるが、新造車では長時間の乗車でも疲れにくいように
座面をゆったりと深くしたものとした。
内装のカラースキームは当時新鋭の201系のものをベースとしている。
ドアは新造車が3ドア、改造車が4ドアで全て両引き戸である。
一部の車両では半自動ドア扱いとすることも可能である。
冷房装置については、当初搭載されていなかった。

主制御装置は抵抗制御で従来の国鉄新性能電車で基本となっていた電動車ユニット
構造を廃し、単独走行可能なものを新規に開発した。
これ以外については経済性と汎用性を重視して、既存の機器を取り付けている。
ブレーキは発電ブレーキ併用電磁直通式ブレーキである。
台車は軸箱支持をウイングバネ式とした金属バネ台車で103系のものをそのまま
使用している。
駆動装置は中空軸平行カルダンである。
これらの機器は非常時に冗長性を持たせる構造となっているほか、勾配抑速ブレーキや
耐雪・耐寒構造を簡単に取り入れられるように拡張性も備える。

最初に新造車グループが福塩線、宇部線、小野田線に投入され、同線に残っていた
旧型車を置き換えた。
その後は国鉄の財政上、新造車を導入するのが難しくなってしまったため、
和歌山や奈良、仙台に配置されたものは全て103系からの改造車となった。
平成10年にJR東日本に引き継がれた仙台のクモハ105-100、クハ105-100、
クモハ105-600、クハ105-600が廃車され、訓練用機材となり、新秋津と八王子にある
研修センターで使用されたが、平成20年に京浜東北線から引退した209系電車改造の
訓練機材に置き換えられて解体された。
JR西日本のものは平成元年までにワンマン化、平成4年までに冷房化改造を
ほぼ全車で実施している。
また新造車を中心に腐食しやすい窓周りや屋根周りのステンレス化、窓の交換、
内装張り替えなどのリニューアル改造とクハ車へのトイレ設置を追加設置している。
なお、紀勢本線向けのものは沿線自治体から改造に当たって補助金が出たため、
車椅子対応のものとされたが、岡山・広島地区のものはJR独自の改造のため、
車椅子対応とならなかった。
JR西日本では平成17年まで廃車が発生しなかったが、現在は103系改造のグループで
状態の悪いものから順に廃車が始まっている。


○クハ105-0番台。103系1000番台そのままの表情を残す。
 オリジナルの103系1000番台が引退した今となっては貴重な存在。


○車内。103系からの改造車のもの。オリジナルの面影を残す。


○広島地区で運用される新造車。ドアが3ドアであることが特徴。
 JR西日本では地域別の塗装単色化を行っており、岡山・広島地区では黄色一色に
 塗装される。本形式でも既に黄色一色となった車両が存在する。


帝国鉄道庁 比羅夫丸型客船(模型)

2011-03-09 23:37:49 | 保存車・博物館
日本鉄道が(現在の東北本線・青い森鉄道・IGRいわて銀河鉄道を開通させた
日本最初の民鉄。明治41年国営化)青函航路で直営の航路を開通させるのに伴い、
建造されたものである。
明治41年に比羅夫丸、田村丸の2隻が就航した。
船名の由来は比羅夫丸が阿部比羅夫(飛鳥時代に蝦夷を討ち、樺太を平定した武将)、
田村丸は坂上田村麻呂(平安時代に蝦夷と陸奥の戦争を収めた武将。晩年には薬子の
変も鎮圧し、8世紀末期~9世紀初期にかけての日本を代表する武将の一人)から
取られている。
製造を担当したメーカーはイギリスのデニー・アンド・ブラザーズ社である。

船体は鋼鉄製で船首は直立型、船尾は丸型の当時の大型客船としてはオーソドックスな
スタイルをしている。
中央部に煙突、甲板前後にマストを持ち、どれも後に後退させたことから、
後年の連絡船と比べると全体に軽快なスタイルとなっている。
塗装は船体甲板までが黒、上部船体が白、煙突が象げ色で先端が黒、
そこに帝国鉄道庁を担当していた工部省の頭文字から「工」の字をエンジ色で
表記している。
なお、比羅夫丸と田村丸の区別をつけるため、比羅夫丸は白、田村丸は赤のラインを
船体側面に入れている。

客室は1等室、2等室、3等室に分けられている。
3等船室は船底部にある機関室の後方側にあり、定員を確保するため、上下2段式の
雑居室となっていた。
この上下間隔の狭い中に沢山の客を押し込む(定員254名)様から「蚕棚」と揶揄された。
後年、他の客船が就航すると上段の客室を除去している。
2等船室は上部船体の煙突より後ろ側で寝台室と座敷の雑居室で構成され、各室に
扇風機が設けられた他、蓄音機によるBGM演奏もあった。
1等船室は上部船体の煙突より前で全て区分室となったほか、更に上部に特別室を
設けていた。
特に1等は天窓採光で明るく、食堂やロビーを設けており、好評を博した。

主機関は蒸気タービンエンジンで、日本の貨客船としては初めての採用となった。
ボイラーは2基(燃料は石炭)、スクリューはタービン直結式で低速用2基と
高速用の1基の3基を備える。
最大出力3767ph、最高速度18ノットで青森と函館の間を4時間で結んだ。
しかし、高速用タービンと低速用タービンの切替が難しく、操船には苦労が
伴ったという。
また、就航当初、ブリッジは製造元のイギリスの客船では標準的だった
キャンパス張りのオープン構造であり、津軽海峡の冬には到底対応できず、
明治42年にガラス張りの密閉型のブリッジに改造されている。

新型で速度も速く、運賃も今までの民間の船より安いとあって、好評をもって
迎えられた。
当時の函館や青森では新語である「タービン」を冠した飲食店や商店が現れたほどで
あったという。
しかし、港湾施設の建設の遅れから、青森駅、函館駅に直接接岸できず、
1等・2等客は専用の汽船か艀、3等客は荷物と一緒に艀で「運ばれた」。
これは函館が明治43年、青森が大正13年の桟橋完成まで行われた。
大正2年に田村丸が座礁事故を起こしたが、死傷者は出ず、船体の損傷も少なかった
ことから、すぐに復航している。

両船が就航して大幅な輸送力の改善が図れるかに見えたが、民間の船が撤退すると
その貨客が青函連絡船に押し寄せ、到底2隻の船だけでは輸送しきれなくなっていった。
このため、義勇船(戦争になると軍艦に改装して徴用されるための船)や民間からの
傭船を集めた他、関釜航路の「壱岐丸」、舞鶴~境港間の航路で使われた
「第二阪鶴丸」など他の航路からも船をかき集めて両船のサポートにあたらせた。
大正7年に既に建造が検討されていた鉄道車両をそのまま搭載できる船までの
つなぎとして木造貨物船(青函連絡船で唯一)「竜飛丸」、「白神丸」が就航し、
本船の貨物室の一部が客室化され定員が増加した。

大正13年に車両航送が可能な「翔鳳丸」型が就航し、「翔鳳丸」と入れ替わりで
「比羅夫丸」が、「津軽丸」、「松前丸」と入れ替わりで「田村丸」がそれぞれ引退した。
引退後、「比羅夫丸」は大阪商船に売却され、大阪と徳島・小松島港を結ぶ航路で
運用された。
「田村丸」は稚内に回航されて稚泊連絡船で夏季限定で運用され、昭和4年に
函館で係船された後、「比羅夫丸」がいる大阪商船に売却されている。
その後昭和9年に2隻とも廃船となり、解体された。