水の丘交通公園

鉄道メインの乗り物図鑑です。
※禁無断転載!使用に際してはコメント欄にて
用途を申告してください。

尾小屋鉄道 キハ1号気動車

2012-12-02 21:46:50 | 保存車・博物館
石川県の新小松~尾小屋間を結んでいた軽便鉄道の尾小屋鉄道が旅客輸送の合理化のため
導入した気動車である。
昭和12年に1両が製造された。
製造を担当したのは日本車輛で同社が同年代に手がけた地方私鉄向け気動車の一つで
貴重な現存例である。
1両単行ないし、貨車や客車を牽いての運用で決まった編成は組んでいない。

車体は半鋼製で正面は平妻の2枚窓となっている。
屋根は通常の丸屋根であった。
塗装は初期はダークグリーンや茶色だったようであるが、戦後は赤とクリームのツートンであった。
戦後のツートンカラーも時期によって塗り分けが異なっている。
行先表示は無く側面に札(サボ)を吊るす方式である。

車内はオールロングシートで運転席が片隅構造となっているため、最前部まで
座席が設置されている。
窓は全て2段窓でドアは片側2か所、ステップ付の片引き戸でドアエンジンは無く
手動ドアである。
夏場には窓を全開にしつつ、ドアも開けっ放しで走っていた。
窓の配置は走行機器の配置の関係で前後で非対称になっている。

機関はウォーケンシャ6MLガソリンエンジンで変速方式は機械式(いわゆるマニュアル)である。
2つある台車のうち片方が駆動台車でボルスタ(揺れ枕)と心皿の位置を車両内側に寄せて
走行時の粘着性を増大させるように工夫されている。
このため、車体が前後非対称となった。
昭和28年にエンジンをディーゼルエンジンに換装し、昭和30年代に別のディーゼルエンジンに
換装されている。
変速機はディーゼル化後も機械式のままで、液体変速に改装されたのは動態保存後の平成12年であった。
なお、現役時代にも液体変速式に改造される予定があったが、改造直前で廃止が決まり、
実施されることはなかった。
ブレーキは空気自動ブレーキとハンドブレーキである。

運行開始以降、後続のキハ2、キハ3(元遠州鉄道キハ1803)と共に主力車両として運用された。
混雑時には客車を連結して運行されていた。
廃線まで運行され、廃止後は粟津の小松市児童館で保存された。
しかし、露天での保存であったため、車体の損傷が進み、ある年の大雪で天井が損壊し、
解体も止む無しという状態にまで陥った。
しかし、尾小屋鉄道を守る会などの有志の手により、修復され、動態にまで復帰した。
この修復の際に整備しやすいように屋根の両端を切り妻状とし、雰囲気が変わった。
現在は冬季をのぞき水曜日と土曜日に1日2本ほど運行されている。


〇車内。小ぢんまりとした雰囲気。


〇運転台。円形のハンドルがハンドブレーキ。真ん中のレバーがマスコン、右がブレーキ。


〇現役時代のラフスケッチ。管理人が描きました。pixivにも掲載してます。
 写真が無いなら描けばいいのだよ。


国鉄 EF59形電気機関車

2012-10-27 10:13:16 | 保存車・博物館
山陽本線岡山~広島間電化に際し、瀬野~八本松間に存在する大山峠の連続勾配区間で運用されていた
登坂補助用の蒸気機関車を置き換えるために登場したものである。
全車が高崎線や東北本線上野~黒磯間で運用され、両線の電車化で捻出されたEF53形電気機関車及び
EF56形電気機関車からの改造で新造機は無い。
昭和38年~昭和47年にかけて24機が改造された。
新旧の車番対比は以下の通りである。

EF59 1←EF53 8 EF59 2←EF53 9 EF59 3←EF53 3 EF59 4←EF53 11 EF59 5←EF53 12

EF59 6←EF53 5 EF59 7←EF53 6 EF59 8←EF53 7 EF59 9←EF53 4 EF59 10←EF53 1

EF59 11←EF53 2 EF59 12←EF53 10 EF59 13←EF53 19 EF59 14←EF53 16 EF59 15←EF53 18

EF59 16←EF53 17 EF59 17←EF53 14 EF59 18←EF53 15 EF59 19←EF53 13 EF59 20←EF56 1

EF59 21←EF56 2 EF59 22←EF56 3 EF59 23←EF56 5 EF59 24←EF56 12

車体はベースとなった機関車のものをそのまま使用しており、1~19号機までのEF53形ベースのものは
角ばったもの、EF56形ベースのものは半流線型の曲面を多用したものとなっている(但し24号機はベースの
EF56形12号機が同形の後期型のため角ばっている)。
正面は貫通型で前後には大型のデッキを有する形態で古典機特有のスタイルである。
塗装は国鉄標準の「ぶどう7号」と呼ばれる茶色で広島側正面は警戒色としてV字カットの虎縞塗装が
為されている。

主制御装置は電空単位スイッチ式の抵抗制御で特急列車の後押しも行うことから最高運転速度を
95km/hに向上させている。
そのため、ギア回りなどの走行機器の各種強化改造を実施したほか、重連総括制御も可能なように
なっている(原型機では不可)。
ブレーキは空気自動ブレーキである。
本形式では特急列車や高速貨物列車の後押しをするため、走行中解放を実施する関係で東京側のデッキの
連結器を密着自動連結器に換装したほか、各車両に対応したジャンパ栓を取り付けている。
このため、東京側前面デッキ側は厳めしい表情となっている。

昭和38年より瀬野駅に隣接して設置されていた瀬野機関区に配置され、順次、補機として運用されていた
D52形蒸気機関車を置き換えた。
運用区間は列車により異なり、特急など瀬野を通過する列車は広島駅若しくは広島操車場の時点で、
瀬野停車の列車は瀬野で連結された。
この勾配は片勾配で下り列車は通常の車両の装備である程度対応できるため、これらへの連結運転は
行わず、機関車だけで瀬野へ戻って行った。
もっとも、列車の多い幹線であったため、単機で一々戻ることはなく、重連を組んでから
瀬野へ回送されている。
もともと戦前製の機関車であるため、老朽化の進行が速く早期に置き換えが検討されたが、
後継機のEF61形200番台が不具合を多発させたため、EF67形が開発されるまで老体を押して運用された。
昭和57年~昭和61年にかけて本格的に廃車が実施され、民営化前までに全車が運用を離脱した。
10号機は保存機として籍を残し下関車両管理室に保存されていたが、平成18年に除籍・解体され、
ここで全車が廃車となった。
保存機は碓氷峠鉄道文化むらで1号機と11号機(ナンバープレートをEF53形2号機に交換し、デッキも改造前に
復元している)、JR貨物広島車両所で16号機のカットモデルと21号機が存在している。


〇東京側正面。連結器周りの装備が厳めしい。

東武鉄道 ED5010形電気機関車

2012-07-15 00:12:12 | 保存車・博物館
東武鉄道では旅客列車の電車化は一部路線を除いて完了していたが、貨物列車は蒸気機関車の牽引によるものが
主力を占めていた。
このため昭和30年より貨物列車の電化計画が進められ、本形式はその一環として登場したものである。
昭和32年~昭和37年にかけて14両が製造された。
製造を担当したのは日立製作所である。

車体は鋼鉄製の箱型・単行タイプで両端部には乗務員の乗降及び入れ替え作業時の誘導員乗務のための
デッキが設けられている。
正面は3枚窓の貫通型で貫通扉は乗務員室の出入り口となっている。
なお5015号機までと5016号機以降では貫通扉の窓の位置が若干であるが異なっているほか、
側面に設けられた機器冷却用の通風孔が前者が4つなのに対し、後者は2つとなった。
ヘッドライトは貫通扉上部に白熱灯一灯であったが後にシールドビーム2灯に変更された。
塗装は茶色一色でデッキ部分の連結器周りは安全対策のため、
イエローとブラックの「虎縞模様」となっている。

主制御装置は抵抗制御(単位スイッチ式・直並列2段組み合わせ制御)、
ブレーキは空気自動ブレーキである。
台車は軸箱支持をペデスタル式としたコイルばね台車で滑り止め用の
砂箱がつけられているものの当時の高性能電車の台車を髣髴とさせるスタイルで
電気機関車の台車としては少々華奢な印象のあるものが採用されている。
モーターの駆動方式は吊り掛け駆動方式である。

配置は5011号機~5015号機が東上本線の坂戸機関区、5016号機~5024号機が伊勢崎・日光線の杉戸機関区に
それぞれ配置された。
5016号機と5017号機は後に坂戸へ転出している。
東武鉄道の貨物輸送の一端を支え続けたが、国鉄の貨物輸送の衰退や自社の貨物輸送の見直しに伴い、
昭和59年~昭和62年にかけて用途を失い、全車廃車となった。

廃車後、5014号機、5015号機、5020号機の3機が残され、5020号機は杉戸高野台の公園に展示された。
5014号機と5015号機は長く杉戸機関区跡の倉庫に眠らされていたが、5015号は東武鉄道博物館の
開館に伴い、整備の上で同館にて保存されている。
5014号機については残念ながら解体された。

国鉄 EH10形電気機関車

2012-07-01 15:43:23 | 保存車・博物館
東海道本線の大垣~米原間の電化を控え、1200トンの貨物列車を牽引可能で、なおかつ同区間に
存在する大垣~関ヶ原の連続勾配に補助の機関車なしでも対応できる電気機関車として
開発されたものである。
昭和29年~昭和32年にかけて64両(本形式は2車体で1両という扱い)が製造された。
製造を担当したのは川崎車輛(→川崎重工)、日立製作所、東芝、新三菱重工(→三菱重工。なお、
各社ともモーターなどの電装品は三菱製)である。

車体は普通鋼鉄製で従来の国鉄の大型電気機関車とは異なり、電車とほぼ同じような構造の
箱型車体を採用した。
正面形状は縁の部分を曲面とした切り妻式で窓の部分を内側に傾斜させた2枚窓となっており、
同時期に製造されていた72系電車全金属車を高運転台にして80系湘南電車のような2枚窓にした
デザインとなっている。
正面下部には国鉄の電気機関車で初めてスカートが設置された。
塗装は黒に黄色の細帯で試作車の2・4号機は茶色に銀帯、15号機は茶色に黄帯という
塗装で登場しているが、最終的に黒に黄帯で統一されている。
これら車体デザインには国鉄外部の工業デザイナー(後にこのデザイナーは名鉄パノラマカー
7000系を設計し、交友社「鉄道ファン」誌の初代編集長となった)が起用されており、
当時としては珍しい事であった。

主制御装置は手動進段・単位スイッチ式制御方式の抵抗制御でブレーキは空気自動ブレーキである。
これらは従来からの電気機関車と同じものであり、思い切った見た目に反して中身は
堅実な設計となっている。
台車は電車と同等の構造の2軸ボギー式鋳鋼製金属ばね台車を採用し、モーターの駆動方式は
吊り掛け式となっている。
本形式では単機で高出力を得る必要があったため、2車体で1両とし、全8軸分のモーターから
得られる出力は2530kwと当時の国鉄の電気機関車として最大を誇った。
また、これまでの国鉄の大型電気機関車に取り付けられていた連結器やカーブ通過のための
スタビライザーを兼ねた先輪が無くなり、全軸が駆動軸であることから重量の全てを
レールとの粘着力確保に充てられ、けん引力が従来の機関車よりも向上している。
元々勾配通過を目的に得られたパワーであるが、平坦線ではその余力により高速運転も
ある程度可能であり、高度経済成長期の鉄道貨物輸送の中心を担うこととなった。
一方で車体などの後方の工夫である程度の軽量化は実現しているものの
装備重量が他の機関車よりも重たく東海道本線、山陽本線などの幹線以外では使えないという
弱点もあった。
集電装置はパンタグラフで当初は通常型のものを使用していたが、末期は予備品の不足から
交直両用機などで使われている下枠交差型のものを使用していたものがあった。
なお、パンタグラフの設置位置は試作機(1~4号機)は連結側、量産機(5~64号機)は運転台側に
それぞれ装備されており、この部分で試作機と量産機を外観で区別できる。
変更の理由は試作車では高圧の引き通し線をできるだけ短くするために、敢えてパンタグラフを
近づけたが、あまりに近すぎて架線に対しての圧力が過大となり、それらに悪影響を
与えたためである。

本形式は既述の通り、試作機4機による運行試験後、量産が開始された。
このうち昭和30年12月に製造された15号機は旅客列車牽引用の試験車となった。
これは当時の東海道本線の輸送力のひっ迫から列車の速度向上が急務となっており、
東京~大阪間を6時間半で結ぶ超特急列車の計画が進められていたことに基づくものである。
この運用試験では完成したばかりの10系軽量客車を牽引しての高速試験のほか、特急「つばめ」の
定期列車の牽引に充当された。
結果は良好であり、旅客機使用のEH50形の計画も生まれたが、本形式のような重量級の
機関車が高速運転を行うためには線路の強化が必要であり、そのコストがひじょうに
大きいことから、特急用電車の開発にシフトしている。
15号機は試験終了後、旅客用の装備を外して本来の貨物用に戻っている。
この他14号機と64号機が昭和40年に中央本線で勾配区間での粘着性能試験に臨んだが、
こちらはいつものパワーが生かせずに終わっている。

東海道本線では全線電化後の昭和34年より東京(汐留)~大阪(梅田貨物ターミナル)間の
特急コンテナ貨物列車「たから」号の牽引機として活躍した。
その後、後継である60番台新性能F級(6軸駆動)機が就役すると通常の貨物輸送用に転用されて
いった。
運用区間は東海道線の全線と山陽本線の岡山まで、および宇野線である。
山陽本線では瀬野~八本木間の「セノハチ越え」をサポートする機関車との出力の均衡がとれない
ことから岡山より西には入線できなかった。
昭和50年代に入ると老朽化が進んだことから、運用を離脱していき、昭和55年に定期運用が
消滅。
昭和57年までに全車廃車となった。
廃車後、61号機が唯一解体を免れ、阪急京都線・千里線の淡路駅から徒歩5分ほどのところにある
大阪市東淀川区東淡路公園に保存されている。
なお、機関車の周りにはフェンスが廻らせてあり、立ち入りはできないようになっている。

近江鉄道 LE-10形気動車

2012-05-16 17:47:42 | 保存車・博物館
閑散区間の電力供給コストの削減とワンマン列車による運用の合理化のために登場した車両である。
昭和61年にLE-11~LE-15の5両が製造された。
製造を担当したメーカーは富士重工である。
単行運転を前提としており、決まった編成は組まない。

車体は普通鋼鉄製でメーカーの富士重工が当時開発し、国鉄赤字ローカル線を引き継いだ
第三セクター鉄道などで導入されていた次世代型レールバス「LE-carⅡ」に準拠した仕様と
なっている。
そのため、バスの車体設計や機器を使っており、ひじょうに軽量であることが特徴の一つと
なっている。
正面は貫通型でヘッドライトと尾灯は角形のユニット式のものを左右下部に設けたほか、
正面下部にはスノープロウを設けて冬季の降雪対策も施している。
車体の塗装はオレンジに近いイエローにグレーと赤の帯を巻いたものとなっている。
行先表示は正面の貫通扉下部の窓から他の電車で使っているものと同じ方向板を表示する
方式である。

車内は全座席ロングシートで側面窓はすべて2段式である。
ドアは片側両端に2か所あり、いずれもバスのものと同じステップ付2枚折り戸となっている。
なお、本形式はバス用エアコンを搭載しており、近江鉄道では初めての冷房車となった。

機関は日産ディーゼル(UDトラックス)のPE6HT-03形直噴式水平型ディーゼルエンジン×1基で
出力は230ps/1900rpm。変速方式は液体変速式である。
ブレーキはSLE式三管式直通ブレーキで応荷重装置、保安ブレーキ、手ブレーキを備える。
台車は1軸式で車体とはリンクで繋がったダイレクトマウント式空気ばね台車を採用し、
LEカーとして2軸単車で登場した最後の車両となった。

記述の通り、全線直流1500Vで電化されている近江鉄道各線のうち、特に輸送密度の薄い
八日市~貴生川間で運用を開始した。
近江鉄道では本形式の運用開始に伴い、日野駅に専用の給油スタンドと車庫を建設している。
日中の同区間の送電を止めて電力の車両運用の効率化が進んだかに見えたが、車体が小さすぎて
ラッシュ時の運用に就けないこと、車体があまりにも軽く踏切が正常に作動しないことなどの
トラブルが相次ぎ、結局、電車を運用せざるを得なくなってしまった。
また、踏切を正常作動させなければならない関係で常時重連での運用を余儀なくされ、
帰って運用コストがかかる結果となってしまった。
このため、近江鉄道では西武鉄道から払い下げた701系電車の車体と手持ちの車両の部品を
組み合わせて誕生させたモハ220形電車を自社工場にて製造し、本形式は平成8年までに
営業運転から撤退した。
置き換えの途上ではモハ220形との連結運転も行われた。
その後は沿線各所で車籍を有したまま放置されたが、平成16年に廃車となった。
廃車後、LE-11、-12、-14、-15の4両が解体処分されたがLE-13は彦根車庫に保存され、
近江鉄道ミュージアムにて定期的に公開されている。
平成23年現在、同年3月11に発生した東日本大震災で被災した三陸鉄道を応援するメッセージを
駅舎側車体側面に掲示して留置されている。

国鉄 DD53形ディーゼル機関車

2012-03-05 14:44:34 | 保存車・博物館
日本海側の湿った重たい雪に対応可能なロータリー除雪車として、またシーズン外は客車列車牽引に
使用できる機関車として開発された車両である。
昭和40年に2両、昭和42年に1両が其々汽車会社にて製造された。

線路の周囲にたまった雪を寄せ集めてロータリーで掻き込み、線路の外へ跳ね飛ばす
ロータリー式除雪車としては既にDD14形機関車が導入されていたが、もともとエンジン出力が
大きくないDD13形ディーゼル機関車をベースにしていた関係で、本州での運用には難があった。
そこでより強力な本線向けのDD51形ディーゼル機関車をベースにして開発されている。

車体はロータリーヘッド(ロータリー式除雪装置)と機関車本体で構成され、
いずれも普通鋼鉄製である。
機関車は車体は箱型となっているものの搭載している機関などはDD51形ディーゼル機関車と同じ
ものを2基搭載している。
車体が箱型になった理由はロータリーを駆動させるためのドライブシャフトを機関車本体から
伸ばすためである。
塗装は他のディーゼル機関車と同じ朱色に白帯である。

搭載されているエンジンはDML61Z-R形2基で出力は1100ps×2である。
変速方式は液体変速式で各エンジンは独立したトルクコンバータに接続され、動力は1つに
統合された後、2つの台車を駆動する構造となっている。
また、ロータリーへ動力を振り分けるための切り替え装置もあり、片方のエンジンを走行用、
もう片方のエンジンを除雪用としたり、2基とも除雪用に振り向けて別の機関車に押してもらう
推進運転を行うことも可能である。
なお推進運転を行う際の動力となる機関車はDE10形、DD13形、DD16形で専用の推進用機関車として
DD20形2号機が開発されたがこちらは試作段階で失敗しており、ほとんど併用されずに
終わっている。
ブレーキは空気自動ブレーキで客車との連結運転も可能であるが、冬季は除雪用となる関係で
蒸気暖房発生装置は搭載していない。

元々ロータリー除雪車は沿線へ雪を跳ね飛ばしていくため、電線を切断したり、民家の敷地に
雪を飛び込ませることが多々あったが、本形式は従来のものよりも出力が大幅に大きくなった
ため、
沿線の民家の壁や窓ガラスを破壊したり、家の中にあったピアノすら破壊したという
伝説が残されている。
このため後年まで現役であった2・3号機は投雪方向を確認しやすいように運転席の移設改造を
実施している。

配置は全車新潟地区であったが、1号機が早々に旭川機関区に転属し昭和51年には新庄機関区へ
移動している。
北海道の旭川では雪質の違いから除雪車として運用されるよりも機関車としての運用の方が
多かったという。
新庄に戻ってきてからも稼働率は低く昭和61年で廃車となった。
2号機と3号機は新潟に留まり、昭和62年の民営化後はJR東日本に引き継がれた。
どちらも上越線などで使われたが3号機は平成13年に廃車となった。
2号機はその後もしばらく残され、イベント列車の牽引などでも用いられたが平成22年に廃車と
なった。
廃車後、1号機が碓氷峠鉄道文化むらに保存展示されている。


○機関車側から。

名古屋市交通局 100形電車

2011-11-17 19:05:19 | 保存車・博物館
名古屋市交通局が同市で初めての地下鉄路線となる東山線の開業用に導入した
車両である。
昭和31年~昭和38年までに40両が製造された。
製造を担当したメーカーは日本車輛である。
編成の組み方は藤ヶ丘側(開業時は栄町(現・栄)側)から順に以下の通り。

開業時:100形(奇数)+100形(偶数)

引退時:100形(奇)+500形(奇数)+500形(奇)+700形(奇数)+700形(偶数)+100形(偶)※
※編成によって若干異なる。

全車電動車でユニットは組まない構造となっており、走行に必要な機器は
一揃い搭載している。
路線延伸による増備車として100形と同様の構造の中間電動車で簡易運転台を有した
500形、本形式で特殊な車体構造だった部分(後述)を通常の構造に改良した200形及び
600形をベースに製造された中間電動車の700形が存在した。

車体は普通鋼鉄製で車体側面構体を床下機器まで包むようにしたボディマウント
構造を採用した。
本形式の製造にあたって市電の「無音電車」と呼ばれる電車をベースに開発したため、
車体の大きさが15.5mと小型である。
塗装はウィンザーイエロー一色で名古屋出身の画家・杉本健吉氏により選定された。
この塗装は東山線及び名城線の鋼鉄製電車にも引き続き採用され(名城線はウィンザー
イエロー+パープルの帯)、「黄電」の愛称で親しまれた。
行き先表示は試作車である101号車で方向幕の搭載が検討されたが採用されず、
高畑延伸までは黄色の縦長の方向板、高畑延伸後は正方形で黒色に黄色文字の方向板
(いずれも2つ折)を貫通扉下部に掲示していた。

車内はオールロングシートで車体が小さいことから圧迫感を与えないように連結部の
通路幅を広くとった。
また、網棚についても同様の理由と乗車時間が短いという判断から敢えて設置を
見送っている。
側面窓は上段下降・下段上昇の2段窓でドアは片側3箇所の片引き戸である。
これらの窓やドアの配置も開発ベースとなった路面電車のものに準じている。

主制御装置は抵抗制御でブレーキは発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキである。
台車は軸バネ支持をウイングバネとした下揺れ枕式コイルバネ台車で
モーターの駆動方式は直角カルダン方式である。
車輪には防振ゴムを挟み込んだ弾性車輪を採用し、走行音の低減を図っている。

最初に製造された101号車は市電下之一色線下之一色~中郷間にてテスト走行を
実施し、開業に向けた量産にデータを残した。
開業後は東山線に投入され、昭和35年~昭和37年まではATOの試験走行を
栄町~名古屋間で実施している。
昭和40年代後半から路線の延伸と利用客の増加で東山線は激しく混雑するようになり、
その中でも特に混雑した藤が丘側先頭車(奇数車)の戸袋窓が客の圧力による
破損が相次いだことから、鉄板への張り替えが実施されている(200形も同様)。
昭和50年代に入り、老朽化が進んだことと車両冷房化のため、後継の5000系が
就役し、昭和63年までに全車が引退した。
本形式のグループのうち、中間電動車・700形の両引き戸車については経年が
まだ新しいものが多かったため、一部車両を先頭車250形として改造し、
平成11年まで運用された。
この先頭車化改造は日本の地下鉄で平成23年現在唯一のものである。

廃車後、107号と108号が藤ヶ丘車庫で保管されていたが、平成12年に日進工場に
オープンした「レトロでんしゃ館」に移設され、公開展示されている。
また、市営交通資料センターには本形式の運転台が展示され操作することが
可能である。


○車内。網棚が無く、蛍光灯が屋根の肩部と側面幕板の接合部に設置されている。
 天井にある丸いものはファンデリア。


○運転台。


○台車。駆動方式は直角カルダン方式である。ちなみにこの台車は135号車の
 ものである。


○ボディマウント構造を採用した床下部分。本形式最大の特徴といえる部分。
 機器の点検の際は側面のカバーを開けて点検しなければならず、抵抗器からの
 放熱もこもりやすかったことから200形・600形から通常の吊り下げ方式に
 変更された。


○打ち子式ATS。東山線の他、東京メトロの銀座線や丸ノ内線でも使用されていた
 保安装置。赤信号になるとバーが起き上がり、台車にあるトリップコックに
 当たって緊急ブレーキをかけるもの。原始的だが、物理的に車両を止める
 方式としては最も確実な方法だった。
 ちなみに東山線では現在、保安装置としてCS-ATCを使用している。

東武鉄道 1720系電車

2011-10-18 21:42:15 | 保存車・博物館
国鉄日光線電化と共に投入された当時の特急車並みの内装を持った157系電車の
デラックス準急「日光」に対抗するため、日光・鬼怒川方面に運行されている特急列車の
更なるグレードアップを図るべく登場した車両である。
昭和35年~昭和47年にかけて6両編成×7本=42両が製造され、後に1700系(昭和31年~
昭和32年に2両編成×6本が投入された特急車。東武鉄道で初めての量産型カルダン車)
からの編入(6両編成×2本=12両)があり、最終的に6両編成×9本=54両の陣容となった。
製造を担当したメーカーは日本車輛である。
編成の組み方は浅草側から以下の通り。

モハ1721+モハ1722+モハ1723+モハ1724+モハ1725+モハ1726

第2編成は1731号から始まり1736号車で終わるように十の位が編成を表し、一の位で
浅草側からの連結位置を示す。
旅客案内上は逆に日光側のモハ1726号車が1号車となる。
奇数車と偶数車でユニットを組んでおり、基本的に一の位が奇数となる車両に
集電装置と主制御装置、同じく偶数車に補助電源装置やエアコンプレッサーなどを
搭載する(但し、モハ1725号とモハ1726号のユニットは機器配置が真逆となる)。
「デラックスロマンスカー(DRC)」の車両愛称で親しまれた。

車体は普通鋼鉄製で設計時に国鉄側の新車が151系特急用電車「こだま型」か、
それに近いものと想定されたため、これを意識したものとした。
正面はボンネット状とされ、左右に縦長のライトケースが配され、正面中央部分には
ヘッドマークステーとエンブレムマークが設置された。
塗装は淡いココアクリーム色に窓周りと車体裾部分にチョコレート色の帯が入る
ものである。
白帯が無いなど、塗り分け方が違うが基本的には戦後の特急復活以来の東武特急色を
引き継いでいる(当時の東武の特急車は上半分がココアクリーム、下半分が
チョコレート色で塗り分けの間に白線を巻いていた。これが青帯になると急行用を
示した)。
行き先表示は側面にサボで表示され、正面は列車愛称を表示している。

車内は回転式リクライニングシートでシート間隔は今の目で見ても十分広い
1100mm間隔(JRのグリーン車が概ね1160mm)、回転式フットレスト、多段ストッパー
付きという当時の国鉄の1等車に匹敵する客室設備を誇った。
デッキと客室の仕切り戸には重さを感知して開閉する自動ドア(当時は「魔法の様に
勝手に開閉する扉」であることから「マジックドア」と呼んだ)を設置した。
これは日本の鉄道車両で初めての搭載である。
4号車の日光側には1人用回転椅子を8脚備えたサロンルームがあり、電話室や
ジュークボックスが置かれていた。
また、2号車と5号車の各デッキ側にはビュッフェがあり、座席への飲み物や軽食の
販売サービス、女性客室乗務員(「スチュワーデス」と呼ばれた)による車内放送や
観光案内なども行われていた。
トイレは両先頭車車端部及び3号車デッキ連結側にあり、通常の和式便器の他、
外国人観光客への対応から洋式便器を採用した他、洗面所にはエアタオルを
鉄道車両で初めて設置した。
汚物処理は当初、垂れ流し式であったが、後に汚物タンク設置と循環式へ
改造されている。
窓は全て固定式でドアは各車両1箇所ずつ、内折れ式となっている。
冷房は製造時より搭載しており、屋根上にキノコ型の分散クーラーを設置している。

主制御装置は抵抗制御で多段式電動カム軸式制御器を採用した。
ブレーキは勾配抑速ブレーキ・発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキである。
台車は当初、軸箱支持をアルストム(ツインリンク)式とした空気バネ台車を
採用していたが、乗り心地向上のため途中より軸箱支持をミンデンドイツ式とした
空気バネ台車に履き替えた(昭和42年~昭和44年。不要となった台車の一部は同じ
台車を使用する日比谷線直通用の2000系電車に流用された)。
モーターの駆動方式は中空軸平行カルダンである。
性能面では1700系よりも中速~高速域での加速性能を向上させ、平坦線釣合速度
165km/h(運転最高速度110km/h)、起動加速度2.3km/h/s、減速度3.7km/h/s(常用)
という高性能を得た。

本形式の投入により国鉄との日光への観光客争奪戦は客室設備の良さと所要時間で
東武鉄道の圧勝という形でピリオドが打たれた。
本形式の登場する僅か5年ほど前に登場した特急車である1700系も設備面でも
性能面でも劣ってしまい、冷房化などの改造を実施し、日光・鬼怒川方面に
編成を分割できる機能を生かした運用に就いたもののその差を埋める事が出来ず、
昭和42年には特急料金で差別化され、昭和46年には引退となった。
引退後、翌年にかけて足回りを流用して本形式と同等の車体を新造し、再起している。
新旧の車番対比は以下の通りとなる。

1701編成:1701+1702+1703+1704+1705+1706←1701+1702-1703+1704-1705+1706
1711編成:1711+1712+1713+1714+1715+1716←1707+1708-1711+1712-1713+1714

以降は乗務員室への冷房装置設置、保安装置追加、便所への循環式汚物処理装置と
汚物タンク設置、1700系のモーター及び台車の交換による性能の共通化、
客室内装の張り替え、サロンルームの一般座席化などの改造を受けながら、
30年以上の長きに亘り東武鉄道の代表車両として君臨し続けた。
しかし、80年代後半になると流石に陳腐化が進んだことから、平成3年に新しい
特急車である100系「スペーシア」のデビューに伴い定期運用を離脱した。
引退後、1721編成の一部を除いて車体は解体されたが、座席や足回りは
急行「りょうもう」(今は特急に格上げ)用の200系電車へ流用され、車両としての籍も
引き継がれている。
200系各編成との番号の対比は以下の通りとなる。

201編成←1741編成 202編成←1731編成 203編成←1751編成 
204編成←1711編成 205編成←1701編成 206編成←1761編成 
207編成←1781編成 208編成←1721編成 209編成←1771編成

本形式の第1編成となる1721編成は6両中5両が保存車となり、うち4両が今も
現存している。
モハ1721号車:車体を先頭部分から1/3程度にカットされて東武博物館に展示。
モハ1726号車:岩槻市岩槻城址公園に展示。
モハ1724号車:わたらせ渓谷鉄道神戸駅にて食堂として利用。
モハ1725号車:同上
モハ1723号車:宮城県内某所にある工場売却。平成10年解体。


○ややサイド側から。このすぐ後には日光軌道線200形が展示されている。


○運転台。かなり高い場所にある。東武博物館では立ち入りできない。


○車内。コロナドオレンジ色のモケットを採用した回転リクライニングシートが
 並ぶ。テーブルは壁に折りたたみ式のものが取り付けられている。
 今この座席と本形式の走行機器は特急「りょうもう」に引き継がれている。
 ちなみに現存する保存車の台車は当初使用していたアルストム台車に
 戻されている(本形式引退と同時期に2000系の置き換えが進んでいたため)。

青函連絡船 津軽丸型車載客船 「羊蹄丸(Ⅱ)」

2011-09-29 18:03:38 | 保存車・博物館
青森と函館を結んでいた青函連絡船で運用されていた蒸気タービン船の置き換えの
ため登場した車載客船である。
姉妹船として「津軽丸」、「八甲田丸」、「松前丸」、「大雪丸」、「摩周丸」、「十和田丸」が
存在し、本船は「摩周丸」と「十和田丸」の間に建造された。
製造年は昭和40年で建造を担当したメーカーは日立造船の大阪桜島工場である。
「羊蹄丸」を名乗る船は本船が2代目で初代は洞爺丸型車載客船の第4船で昭和23年~
昭和40年まで運航されていた。

船体はブロック溶接を用いた普通鋼鉄製で甲板は上から順にブリッジのある航海甲板、
グリーン船室や上級船員室のある遊歩甲板、普通船室や食堂のある船楼甲板、
スプリングウィンチや甲板長倉庫のある中甲板、鉄道車両を搬入するための車両甲板、
総括制御室や下級船員室のある第2甲板で構成される。
なお、本船は鉄道車両を搬入する関係で電気溶接後に発生する「縮み」が許されず、
十分な対策が採られた上で製造されている。
車両の積載数は48両(ワム型貨車換算)で車両甲板の配線は4線(12:14:10:12)となる。
塗装はアイボリーにエンジのツートンカラーでエンジの部分は国鉄在来線特急色と
同じものとしている。
煙突のファンネルマークは当初が「JNR」マーク、民営化後は「JR」マークを
取り付けていた。

船室は1等指定席、1等自由椅子席、1等自由席、2等椅子席、2等座席、2等寝台室に
分けられる。
1等指定席は特急「こだま」のパーラーカーに使われたものと同等の1人掛けの読書灯・
レッグレスト付きリクライニングシート、1等自由椅子席は2人掛けのフットレスト付
リクライニングシート(特急用電車と同等品)、2等椅子席は2人掛けの固定クロスシート
(特急用電車と同等品)をそれぞれ採用していた。
それ以外はいわゆるじゅうたん敷きの「升席」である。
寝台室は2段式のものが1等船室の先端側に設けられていた。
船内にはこの他に食堂、軽食堂(喫茶「サロン海峡」)、遊戯室(ゲームコーナー)、
シャワー室が設けられた他、電報や乗車券を扱う案内所が設けられていた。
なお後の等級改正で1等はグリーン船室、2等は普通船室と名称が改められている。
乗客への安全対策として各船室の荷棚や座席の下に救命胴衣を定員分収納した他、
定員以上が乗れる膨張式ゴムボートと膨張式滑り台(世界で初めて採用)、
火災報知機、スプリンクラー消火設備などを設置している。

主機関はディーゼルエンジン8基でスクリューは可変ピッチプロペラが船尾に
2基設置(舵も2つ)された。
この機関はマルチ・プル機関とされ、エンジン2基で1基のスクリューを駆動する
構造となっており、もしどれかのエンジンが停止しても別のエンジンで通常通り
航行が可能である。
また、スクリューに可変ピッチプロペラを採用し、船首側にもバウスラスターが
設けられ、運動性が大幅に向上したことから、出航時のタグボートによる牽引が不要と
なった(接岸時は必要)。
これらはブリッジからの遠隔操作が可能であり、船員の数を大きく減らしている。
また、機関の点検も航海中に可能となり、ドッグ入りの回数を減らせた。
安全対策としては船尾からの浸水を防ぐための水密扉をはじめ、船底を2重にし、
更に13区画に分けて浸水を最低限に防ぐようにしている。
車両甲板では車止めにエアブレーキを設けてブレーキをかけやすくしたほか、
車体を止める緊縛金具、転倒防止のため柱を多くするなどの対策が撮られている。

就航後、遊歩甲板を用いた自動車航送の開始やエンブレムマークを取り付けた以外、
大きな改造もなく運航された。
昭和63年3月13日の青函航路終航時は上り22便として運航されている。
同年6月より開催された青函トンネル開通記念博覧会で十和田丸と共に特別運航された
他、夜間は船上ホテルとして開放された。
この特別運航終了後、船の科学館に展示するため、日本海事科学振興財団に買い
取られた。
しかし、東京都市博覧会の中止に伴うお台場周辺の開発計画の白紙化に伴い、
展示が大幅に遅れ、三井造船にて繋留された。
当初、現役時代のまま展示する予定であったが、イタリアのジェノバで開かれた
博覧会に日本館として参加するため、船内外の大幅な改修を受けた。
イタリアでの展示を終えた後、東京の船の科学館での展示がようやく決定し、
平成8年より「フローティングパビリオン羊蹄丸」として公開された。

船内は既述の通り大改装され、船楼甲板から車両甲板にかけて吹き抜けが開けられ、
エスカレーターが設けられた。
旧車両甲板には昭和30年頃の青森駅周辺を再現した「青函ワールド」となっており、
青森駅を模したコーナーにはDE10形機関車とスハフ44形客車が置かれている。
船楼甲板は受付とプロムナードや日本の海に関する展示、遊歩甲板もラウンジや
ホールに改造され、往時を思い出させるのはブリッジ周りのみとなっている。
外観についても白に青というカラーリングにされてしまったが、こちらは平成15年に
青函航路時代のものに戻された。
平成20年に青函連絡船就航100周年記念行事が函館の摩周丸、青森の八甲田丸と共に
行われた。
その後、大きな変化はなかったが、平成23年9月30日をもって船の科学館と共に
公開展示を終了することが発表された。
公開終了にあたって、無償譲渡されることが発表され、譲渡先が無い場合は
解体されることも併せて発表されている。
明日(平成23年9月30日)で公開は終了するが、今後の予定は未定である。



○青函ワールド内の「青森駅」に展示されたDE10形機関車とスハフ44形客車。


○ブリッジ。


○船首側から。

国鉄 EF30形電気機関車

2011-08-18 21:09:33 | 保存車・博物館
直流1500Vで電化された関門トンネルを通過して交流電化60Hz/20kVの門司駅に
直通するため、どちらの電化区間にも乗り入れられ、且つ関門トンネルの連続勾配にて
重連で1200t貨物列車が牽引が可能な電気機関車として開発されたものである。
昭和35年に試作機である1号機が投入され、翌昭和36年~昭和42年にかけて2~22号機の
21機が投入されて計22両が製造された。
製造を担当したメーカーは三菱重工、新三菱電機、東芝、日立製作所である。

車体は箱型で関門トンネル内の海水による塩害を防止するため、外板をステンレス製
としたスキンステンレス車体とした。
1号機では側面のコルゲートが無いが2号機以降は外板の肉厚を薄くしたため、
強度保持のため、コルゲート処理が為されている。
屋根上の機器類に関しても黄銅を使うなどして塩害に強い材質を極力使用した。
正面は貫通型で全体のスタイルは同時期に製造されたED60形とよく似たスタイルと
なっている。
側面窓やフィルターの位置は製造時期によって機器配置が見直されているため、
それによって異なる。
塗装はされず、ステンレス地肌のままであるが、試作機である1号機は登場時から
しばらくは赤帯を配していた時期がある。

主制御装置はバーニア制御付き抵抗制御(直並列制御方式)で電磁空気単位スイッチ
制御を基本としつつ、海水が常時滴下している関門トンネルの特殊かつ劣悪な
環境で列車が停止した場合でも、再起動・列車牽き出し時に重要となる再粘着特性を
得やすいよう、カム接触器によるバーニアを付与したものとなっている。
交流変圧器は自重軽減のため、極力小型のものとされ、主整流器にはシリコン整流器を
採用した。
なお交流区間では直流電化区間でのパワーの1/4程度しか出せない構造であった。
これは本形式が走行する交流区間が門司駅構内にほぼ限定されており、客車や貨車の
入換程度で済んだためである。
台車はB-B-B配置で勾配での再粘着特性で有利な1モーター2軸駆動の特殊な台車を
採用した。
モーターは枕木方向に台車の中心である心皿の真下に置かれ、駆動方式は
WN継ぎ手によって車軸に動力を伝える電気機関車としてはかなり珍しい
WN駆動方式となっている。
このため、車体への牽引力伝達は各台車を連結器を繋いで伝達される方式と
なった。
ブレーキは当時標準の空気自動ブレーキである。

運用区間は関門トンネルを挟んで門司~下関間で同区間を走る客車列車、貨物列車の
全てで使用された。
一時期は151系電車で運行された特急「はと」、「つばめ」の牽引の任に就いた事もある。
2~8号機が専任機となりサヤ420形との連結対応と151系への引き通し線設置などの
改造が行われ、ナンバープレートを赤いものに交換したが、昭和40年に481系電車が
登場するとこの特殊運用がなくなったため、原型に復している。
試作機である1号機は登場の段階で九州の電化工事が完成していなかったため、
同じ商用電圧だった北陸本線で試運転を行った。
機構が特殊である為、関門トンネル以外では幡生操車場、若しくは東小倉まで
入線しているが、これ以上先の区間に入ることは無かった。
昭和53年に1号機が廃車となった後、田端機関区に転属していたEF81形電気機関車
300番台2機と同形式0番台を改造した400番台が投入されると置き換えが進められ、
昭和59年~昭和62年にかけて全機が運用を離脱した。
引退後、3号機がJR九州で車籍を残して大分車両センターで動態保存されていたが、
平成7年に除籍となり、平成18年に先頭部分を残して解体された。
この他1号機が北九州市の小倉北区の勝山公園を経て門司区の和布刈公園で、
20号機が高崎機関区を経て碓氷峠鉄道文化村で保存されている。
この他に21号機が吹田機関区に保管されていたが、こちらは既に解体されている。