水の丘交通公園

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ドリーム交通モノレール線 大船駅跡(現存せず)

2007-03-31 10:16:59 | 駅舎・鉄道施設
大船駅北口に古ぼけたモノレールの線路があった。
それが、ドリーム交通モノレール大船線大船駅の跡である。

ドリーム交通モノレール・大船線は横浜ドリームランドへの足として
昭和41年に開業した。
大船~ドリームランド間5.3kmを結び、所要時間は10分ほどであった。
沿線が丘陵地で、用地買収に手間取ったこともあり、ひじょうに急峻な
勾配を繰り返す路線であった。
これがこの線の寿命を大幅に縮める要因となる。
列車は通常2本使用の予備車無しで途中の小雀信号所ですれ違うようにダイヤが組まれた。

車両は東芝が開発を行い、奈良のドリームランドで試験運行されていた東芝跨座式を採用。
旅客車は10形という形式で2本あり、それぞれに「ドリーム」、「エンパイア」の
愛称を付けられていた。
勾配に対応するため、設計よりも大出力のモーターを搭載していた。
このほかに小型のディーゼル機関車があり、保線用として使用されていた。

運賃は片道170円で当時の国電(JR線)が1区間20円だったのに対し、
ひじょうに高額であったが、当時、モノレールはまだ珍しく、
ドリームランドの施設の一つとして、休日を中心に、それなりに賑わったという。
それ以外の利用客はあったようで、定期券もあった。

昭和42年に軌道部分に亀裂が発見されたほか、車両の故障(主にタイヤのバースト)が
多発するようになり、運輸省より運行休止勧告を受け、同年9月に運行が休止された。
原因は勾配区間での走行性能向上のため、出力の大きなモーターを採用したところ、
モーター自体が重たくなってしまい、当初の設計重量が30tあまりだったところ、
実際の重さは46tと、軌道の許容容量を遥かに上回るものとなってしまったためである。

以後、路線は休止となった。昭和46年にドリームハイツ(団地)の開発が
行われ、
再開が望まれた。
幾度となく、再開の話は上がり、平成7年には磁気浮上式鉄道(HSST。リニモと同様の方法)での
再開が具体的に検討されたが、諸種の問題から目処が立たず、
平成15年に正式に廃止となった。

車両や車庫、ドリームランド駅駅舎は昭和60年ごろに解体され、
大船駅駅舎はアトリエとして活用されたものの、ホーム部分の老朽化によって、
平成2年ごろ解体された。
また、電線を支えていたパーツの脱落事故が相次いだため、大船駅解体と前後して、
工事用の車両が走行している。
それ以外の軌道とドリームランド駅ホームは沿線の森の中に埋もれていった。
路線の正式な廃止を受けて、全線で軌道の撤去が行われ、平成17年ごろまでに完了している。

福井鉄道 770形電車

2007-03-30 23:17:30 | 電車図鑑・ローカル私鉄&第三セクター
福井鉄道が旧型車両置き換えのために、名古屋鉄道の770形電車を譲り受けたものである。

名古屋鉄道では岐阜市内線と揖斐・谷汲線直通の急行用に使用していた
モ510形電車の一部とモ520形電車の置き換えのために登場した。
名鉄600V線(岐阜から美濃・谷汲・揖斐へと伸びていたローカル線網。
平成17年までに全線廃線になった)で
初めての冷房車となった。
車体は2体連接構造で、基本的に美濃町線用の880形電車(福井鉄道880形を参照)
踏襲しているが、車体の幅が若干狭くなっている。
また、制御装置やモーターが、急行運転に備えて、高速向きになっていたことや
窓が一部を除いて固定式になったこと、ワンマン機器を当初から搭載していたこと、
座席の構造が普通の構造になったことなどが相違点となっている。
車内はロングシートで各ドア付近に補助席がある。

登場時の塗装はスカーレッド一色であったが、平成9年に780形電車登場した際に
同車に準じたアイボリーをベースにステップから下を赤、窓周りをダークグリーン
とした塗り分けに変更されている。

平成17年名鉄600V線廃線とともに全車が引退し、福井鉄道へ譲渡された。
福井鉄道では、ATSの取り付け、マスコンの交換、パンタグラフの一台撤去と
シングルアーム化、塗装変更を行い、平成18年4月より営業を開始している。


名鉄時代の姿。黒野駅にて。

静岡鉄道 クモハ20形電車

2007-03-25 10:57:35 | 電車図鑑・ローカル私鉄&第三セクター
静岡鉄道が戦後、払い下げた、買収国電の生き残りであった車両である。

買収国電とは昭和16年の陸運統制令により、昭和18年から19年にかけて
国に強制買収された私鉄線電車のことである。
主に湾岸の工業地帯を走る貨物輸送主体の路線(鶴見線、南武線、富山港線など)や、
鉱物などが採れる山岳部を走る路線(身延線、五日市線、青梅線など)、
国鉄線と国鉄線の間を結び、かつ他の私鉄が競合する路線(飯田線、阪和線など)などが該当する。
戦後、買い戻される予定であったが、戦後の急なインフレで買収された側にも
それらを買い取る力もなく、また、これらの私鉄は財閥系のものが少なくなく
GHQによる財閥解体で会社そのものがなくなってしまい、
結局、そのまま国鉄の路線として残ることになった。
電車は国鉄の電車と機器や性能が異なり、運転上の不都合が相次いだため、
ほんの一部を除いて、早々に車両不足にあえぐ、地方私鉄に譲られた。

このクモハ20形は現在のJR鶴見線の前身にあたる鶴見臨港鉄道が
電化開業に伴い昭和5年に製造したモハ100形電車を前身とする。
全部で10両が製造された。
車体は半鋼製で運転室は簡単なHポールで仕切っただけの、当時としては
オーソドックスな形状となっている。
正面は切妻で、窓が正面中央に3枚寄って配されているのが外観上の大きな
特徴となっている。
後に110形になり、国鉄への買収後は1500形になった。
鶴見線の1500V化に伴い、同じ買収区間である富山港線、福塩線、可部線に
配置され、最終的に可部線に集められ、昭和32年までに全車廃車(ただし、
事業用電車に改造されたものは昭和58年まで在籍)となった。

静岡鉄道へは昭和27年に3両が譲渡され、モハ18~20として活躍した。
このうち、モハ18と19は、昭和43年に自社工場製の新車体に変えて
350形となった。
モハ20形は昭和39年にクモハ20に形式が変更された後は、ヘッドライトを
2灯化した以外、大した変化もなく、昭和53年頃に実施された
ワンマン化前後には営業に就く機会は減り、昭和57年に車籍を抹消されている。
以降は営業線に出ることなく、長沼工場で入れ換え車として使用されたが、
老朽化が進行し、近年は中古の産業用ディーゼル機関車に取って代わられた。
しかし、ファンからの要望も多く、この役目を譲った後も引き続き、
保管され続けたが、天井の破損が著しく進行したため、平成19年3月で
解体処分された。

なお、同型の電車として銚子電気鉄道に最後の1両(デハ301号)が現存している。

富山地方鉄道 10030系電車

2007-03-13 22:55:47 | 電車図鑑・ローカル私鉄&第三セクター
富山地方鉄道が老朽化した旧型車の置き換えのために、
京阪電鉄3000系電車を譲り受けたものである。

京阪3000系は、昭和46年に登場した特急用電車である。
同社の特急用電車としては5代目で、編成中にテレビを搭載する
車両があった事から「テレビカー」の愛称で親しまれていた。
特別料金不要ながら、冷房付で全席オール転換クロスシート
(登場時期によって一部固定)で、
足が伸ばせるように、座席下のヒーターの形状が工夫されている。
また、終点駅で座席の向きを一斉に転換できる、自動座席転換装置を装備している。
ドア付近は仕切りをかねて、補助席を設置している。
昭和63年に後継車の8000系が登場し、廃車が始まった。

この昭和63年当時、多くの旧型車を抱えていた富山地方鉄道では、
それらを置き換えるための中古車を探しており、
当初、別の会社から車両を譲り受ける予定だったが、改造の手間も、
ほとんどかからず、車内設備の優秀性が、同社首脳陣から高く評価され、
この車両の払い下げを決めた。

富山地方鉄道での導入にあたって、軌道の幅が異なるため、営団3000系の廃車
発生品である台車とモーターに交換している。
その後、連結器交換、スカートの撤去、スノープロウの設置を実施している。
塗装は初期登場の2本だけ、京阪時代の塗装のまま使用されていたが、
現在は全車黄色と緑色のツートンカラーに塗りなおされている。
平成9年にはワンマン化が実施され、運転席後方の座席とテレビが撤去された。
なお、補助席は使用されていない。
一部の編成ではJR485系特急車からの廃車発生品である台車とモーターに交換されたものも存在する。
現在の富山地方鉄道の車両での主力車両であり、特急から各駅停車まで
幅広く活躍している。