『モラル』という言葉は、さまざまな場面で耳にすることがありますし、ごく日常的に使っている人も少なくないと思われます。
しかし、多くの言葉がそうであるように、この言葉も使われる場面場面でその軽重が大きく変わりますし、発信する側と受け取る側で意味合いがずれることが少なくない言葉のように思われるのです。
そこで、『モラル』という言葉を広辞苑で調べてみますと、「①道徳。倫理。習俗。 ②道徳を単に一般的な規律としてではなく、自己の生き方と密着させて具象化したところに生まれる思想や態度。」と、ありました。
私たちは、日常生活でごく気軽にこの言葉を使う時には辞書の説明の②のうちから「道徳を単に一般的な規律」として用いているのではないでしょうか。実に絶妙の解釈だと思うのです。
それでも、仲間内や、職場関係においても、同じ意味であっても、「道徳を守りましょう」「規律を守りましょう」と言うより、「モラルを守りましょう」と言う方が、何か柔らかな感じがするような気がするのです。個人的な感覚かもしれませんが。
もしそうだとすれば、これはこれで『モラル』という言葉が、私たちの日常生活において潤滑油的な役割を担っていることになり、結構なことだと思うのです。
ただ、昨今の様々な事件や不祥事などを見てみますと、この柔らかな、耳ざわりの良い言葉を隠れ蓑にしているわけではないのでしょうが、どうも、先輩や世間の忠告を「自分の都合の良いモラル」で対処している感があり、しかも、それで安々と世間の目をあざむくことが出来ると考えているみたいなのです。さらに困ったことに、現実にそうした輩や企業がそれにより暴利を得ているみたいなのです。
最近問題になっているマンションなどのくい打ち工事の偽装問題ですが、改ざんだとか手抜きだとか、様々な表現がなされていますが、何のことはない、悪意を持った確信犯だと思われるのです。それも、現場の一責任者がどうこう出来るような問題でないことは、建築の素人であっても分かるはずです。同じような問題の、耐震ゴムの問題なども全く同様で、畑は違うとしても、政治にまつわる不愉快な事件のほとんどは同類に見えてしまいます。
そして、おそらくそれらの現場や、事務所においては、上位者から下位者に対して、あるいは下位者から上位者に対して、「モラルを守れ」「モラルを守ります」という言葉が氾濫しているのではないでしょうか。
私たちは国家の一員として生活しています。同時に一市民であり、人格を有する個人でもあります。人格が全くと言っていいほど無視されてしまう国家もある中で、私たちは、ごく特殊な例を除けば、ありがたい環境にあるといえましょう。
しかし、それでも、法律があり、さまざまな決め事があり束縛があります。とはいえ、通常はそのようなことはほとんど意識することなく、一つの流れとして生活を送っています。職務についても同様で、法律や倫理などに若干の差があるとしても、それなりの束縛があるはずですが、普段はあまり意識することなく職務をこなしていると思うのです。
そして、そのような無意識のように過ごす日常や職務を支えているものは、その人の持つ『モラル』ではないでしょうか。
家庭環境や教育や社会環境、あるいは職務を通じて培われる常識的な判断こそが『モラル』の根底を成すものではないでしょうか。そうだとすれば、今その『モラル』が危機に瀕しているかに見えるのです。つまり、『モラルの限界』が垣間見えているような気がするのです。
もし、『モラル』がその限界を超えて下方にぶれてしまった時には、おそらく、『モラル』を取り締まるべき束縛の時代が来るのではないでしょうか。恐怖政治の到来は、何も軍事力や精神コントロールからだけ生まれるものではなく、『モラルの限界』を底抜けした時にも芽生えるような気がするのです。
( 2015.11.05 )
しかし、多くの言葉がそうであるように、この言葉も使われる場面場面でその軽重が大きく変わりますし、発信する側と受け取る側で意味合いがずれることが少なくない言葉のように思われるのです。
そこで、『モラル』という言葉を広辞苑で調べてみますと、「①道徳。倫理。習俗。 ②道徳を単に一般的な規律としてではなく、自己の生き方と密着させて具象化したところに生まれる思想や態度。」と、ありました。
私たちは、日常生活でごく気軽にこの言葉を使う時には辞書の説明の②のうちから「道徳を単に一般的な規律」として用いているのではないでしょうか。実に絶妙の解釈だと思うのです。
それでも、仲間内や、職場関係においても、同じ意味であっても、「道徳を守りましょう」「規律を守りましょう」と言うより、「モラルを守りましょう」と言う方が、何か柔らかな感じがするような気がするのです。個人的な感覚かもしれませんが。
もしそうだとすれば、これはこれで『モラル』という言葉が、私たちの日常生活において潤滑油的な役割を担っていることになり、結構なことだと思うのです。
ただ、昨今の様々な事件や不祥事などを見てみますと、この柔らかな、耳ざわりの良い言葉を隠れ蓑にしているわけではないのでしょうが、どうも、先輩や世間の忠告を「自分の都合の良いモラル」で対処している感があり、しかも、それで安々と世間の目をあざむくことが出来ると考えているみたいなのです。さらに困ったことに、現実にそうした輩や企業がそれにより暴利を得ているみたいなのです。
最近問題になっているマンションなどのくい打ち工事の偽装問題ですが、改ざんだとか手抜きだとか、様々な表現がなされていますが、何のことはない、悪意を持った確信犯だと思われるのです。それも、現場の一責任者がどうこう出来るような問題でないことは、建築の素人であっても分かるはずです。同じような問題の、耐震ゴムの問題なども全く同様で、畑は違うとしても、政治にまつわる不愉快な事件のほとんどは同類に見えてしまいます。
そして、おそらくそれらの現場や、事務所においては、上位者から下位者に対して、あるいは下位者から上位者に対して、「モラルを守れ」「モラルを守ります」という言葉が氾濫しているのではないでしょうか。
私たちは国家の一員として生活しています。同時に一市民であり、人格を有する個人でもあります。人格が全くと言っていいほど無視されてしまう国家もある中で、私たちは、ごく特殊な例を除けば、ありがたい環境にあるといえましょう。
しかし、それでも、法律があり、さまざまな決め事があり束縛があります。とはいえ、通常はそのようなことはほとんど意識することなく、一つの流れとして生活を送っています。職務についても同様で、法律や倫理などに若干の差があるとしても、それなりの束縛があるはずですが、普段はあまり意識することなく職務をこなしていると思うのです。
そして、そのような無意識のように過ごす日常や職務を支えているものは、その人の持つ『モラル』ではないでしょうか。
家庭環境や教育や社会環境、あるいは職務を通じて培われる常識的な判断こそが『モラル』の根底を成すものではないでしょうか。そうだとすれば、今その『モラル』が危機に瀕しているかに見えるのです。つまり、『モラルの限界』が垣間見えているような気がするのです。
もし、『モラル』がその限界を超えて下方にぶれてしまった時には、おそらく、『モラル』を取り締まるべき束縛の時代が来るのではないでしょうか。恐怖政治の到来は、何も軍事力や精神コントロールからだけ生まれるものではなく、『モラルの限界』を底抜けした時にも芽生えるような気がするのです。
( 2015.11.05 )
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