本当かどうかはよく分からないのですが、母国語以外を学ぶ場合、たくさんある言語の中で日本語は、難しい方の部類に入るということを聞いたことがあります。
残念ながら、私は日本語以外は殆ど分かりませんし、その日本語もかなりあやふやなところが多いわけですから、こうした意見が正しいのかどうか判断のしようがありません。
ただ、欧米諸国などがそうだと思うのですが、発祥源が同じだといった場合や、隣接している国家の場合などは人の交流も多くなり、互いの言語も馴染み深くなるといったことはあるのでしょう。
私たちが日常ふつうに使っている日本語でも、地方によって差があります。いわゆる方言です。
ラジオやテレビが普及してからは、標準語(何をもって標準語かはともかく)をほとんどの人は聞き取ることが出来るようになっています。しかし、話せるかとなりますと、そうそう簡単なことではないようです。長年テレビで活躍していても、かなりなまりが残っている人もいますし、日本語だけではうまく表現することが出来ず、やたらカタカナ語を使う人も少なくありませんし、やたら造語に頼っている人も目立ちます。
つまり、外国の人が日本語を学ぶ時ばかりでなく、私たち自身も自由自在というわけには行かない言語なのかもしれません。その理由の中には、幾つもの意味を持っている言葉が多いことも含まれているように思います。
表題の「おかげさまで」という言葉も、その一つのように思われます。
「おかげさまで、うまくいきました」といった場合を考えてみますと、「あなたのお力添えで、うまくいきました」と謝意を込めて使われることも少なくありませんが、同時に、「便利な接頭語」のように使われたり、「お愛想」「敬語的な意味合い」「丁寧語」といった意味合いとして使われている場合も多いようです。つまり、「おかげさまで」という言葉は、その発言全体、あるいはその対話全体さえも、和やかにする力を持っているような気さえするのです。この一言は、たいていの言葉を「まろやか」にする魔法のような力を持っているように思うのです。
この「おかげ=お陰」というのは、本来は「神仏」のような存在を指していると考えられます。ただ、現在私たちが使う場合は、「相手や特定の人」を指す場合の他は、「神仏」というよりは、「多くの人々」とか「社会」といった意味合いのような気がします。無意識のうちでしょうが。
私たちの言葉の中には、人を和やかにするようなものを、先人たちが生み出し育ててきてくれています。
この「おかげさまで」は、まさしくそうした言葉の一つだと思うのです。特別格式張ることなどなく、ごく自然にこの言葉を交わし合うことが出来れば、二人の関係や、数人の関係であれば、きっと「まろやかさ」を発揮し、和やかな関係の醸成に役立つはずです。
ただ、大きな社会に対してならばどうなのか。なかなか難しいところですが、即効性はなくともそれなりの働きを見せてくれると思うのですが、国家間となれば、どうなのでしょうか。
残念ながら、現在起きている惨事を考えてみますと、言語ばかりでなく、良心さえも交信し合うことが出来ないような気がしてしまうのです。
人間は、これほど愚かだったのでしょうか。
( 2022.03.03 )
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