『 三河の入道伝 (1) ・ 今昔物語 ( 19 - 2 ) 』
今は昔、
円融天皇の御代に、三河守大江定基(オオエノサダモト・1034没)という人がいた。参議左大弁式部大輔済光(ナリミツ)という博士の子である。慈悲深く学識は人より優れていた。蔵人を勤め上げて三河守に任じられた。
ところで、定基には長年連れ添っている本妻の他に、若くて美しい女を愛するようになり、とても離れられない思いを抱いていたが、それを本妻が激しく嫉妬して、即座に夫婦の縁が切れてしまい別れてしまった。そこで、定基は若い女を妻として過ごしていたので、その女を伴って任国に下っていった。
さて、三河国で過ごしているうちに、この新しい妻は重い病にかかり、長らく病床で苦しむようになったので、定基は心底から嘆き悲しんで、様々な祈祷を行ったが、その病はどうしても治らず、日が過ぎるに従って、女の美しかった容姿も衰えていった。定基はその様子を見て例えようがないほど悲しんだ。
しかし、病はさらに重くなり、遂に女は死んでしまった。死んだ後も、定基の悲しむ心は治まることなく、すぐに葬ることもせずに、女を抱いて共寝をしていたが、数日経ち、女の口を吸ったところ女の口から何ともいえぬくさい臭いが出てきたので、にわかにうとましい気持ちになり、泣く泣く葬ることにした。
その後、定基は「この世は憂きものだ」と思い至り、たちまち道心が生じたのである。
さらに、その国では、土地の者たちが風祭りという事をしていて、猪を捕らえ、生きたまま切り裂くのを見て、ますます道心が高まり、「速やかにこの国を去ろう」と思うようになった。
さらに、雉を生きながら捕らえて持ってきた人がいたので、定基は、「どうだ、この鳥を生きながら料理して食おうではないか。一段と味が良いかもしれぬから試してみよう」と言った。
すると、守(定基)のご機嫌を取ろうと思っている思慮のない郎等どもは、これを聞くと、「結構なことでございます。きっと、さらに味が良くなるでしょう」と調子に乗ると、少しはものの哀れを知る者は、「あきれたことをするものだ」と思った。
そして、雉を生きたまま持ってきて羽をむしると、しばらくはバタバタとしていたが、さらにむしり取ると、鳥は目から血の涙を流して、目をしばたたいて周囲の者の顔を見ているので、堪えきれずに立ち去る者もいたが、「鳥が泣いているぞ」と笑いながら、情け容赦なくむしる者もいた。
むしり終ると、切り裂いた。その刀に血がたらたらと流れるのを、刀を拭い拭いして切り裂いていくと、鳥は何とも苦しげな声を挙げて息絶えた。
そこで、裂き終えた物を、煮たり焼いたりして郎等たちに食べさせると、「事の他に美味でございます。死んだ物を料理したのとは比べものになりません」などと言うのを、守(定基)はつくづくと見聞きして、目から大粒の涙を落とし、声を挙げて泣いたので、「良い味だ」などと言っていた者はしゅんとしてしまった。
守は、その日のうちに国府を出て、京に上った。そして、道心が堅く定まったので、髻(モトドリ)を切って法師となった。名を寂照(ジャクショウ)という。世に三河の入道というのは、この人のことである。
「よくよく心を堅めよう」と思って、このような驚くようなことをしてみたのである。
その後、寂照は京において、喜捨を請うて歩いていたが、とある家の門前に立ったところ、家の人が中に呼び入れ、畳に座らせて、ご馳走を備えて食べさせようとした。巻き上げた簾の内には、立派な着物を着た女が座っている。
よく見れば、自分が昔離縁した女であった。女は、「何と、乞食だとはね。このように乞食するのを見ることになると思っていましたよ」と言って、顔をしげしげと見たが、寂照は恥ずかしいと思う様子も見せず、「ああ、有り難いことです」と言って、出されたご馳走をすっかり食べて帰っていった。
まことに、まれに見る立派な心ばえではある。道心が堅く生じていたので、このような外道(仏道を信じない者)に出会っても、騒ぐことなく対応したのは尊いことである。
( 以下 ( 2 ) に続く )
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