雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

玄宗皇帝と楊貴妃 ・ 今昔物語 ( 10 - 7 )

2024-05-20 14:44:18 | 今昔物語拾い読み ・ その2

     『 玄宗皇帝と楊貴妃 ・ 今昔物語 ( 10 - 7 ) 』


今は昔、
震旦の唐の御代に玄宗という皇帝がいらっしゃった。性(ヒトトナリ)は、生まれつき色を好み、女を愛し給う心が強かった。

さて、皇帝には、寵愛しておられる后と女御がいた。后を[ 欠字。皇后の名前が入るが、良く分らない。]后宮と言い、女御を武淑妃(ブシュクヒ・伝不詳)と言った。
皇帝は、この人たちを寵愛し大切になさっていたが、その二人の后・女御が続いて亡くなってしまったので、皇帝はたいそう嘆き偲ばれたが、どうすることも出来ない。ただ、その人たちに似た女人を見つけようと、強く願い探し求められたが、人に任せているだけでは心許ないと思われてか、皇帝自ら宮殿を出てあちらこちらへと行き、様々な所を見て回られているうちに、弘農(グノウ)という所に行きあたられた。

その所に、楊の庵(ヤナギノイオリ・楊造りの庵、と思われるが、楊氏の庵が正しいらしい。)があった。その庵に、一人の翁がおり、名を楊玄琰(ヨウゲンエン)と言う。
従者にその庵を訪ねさせて様子を調べさせたところ、楊玄琰には一人の娘がいた。容姿は美しく有様のすばらしいことは世に並ぶ者がないほどである。まるで光を放っているように輝いていた。
従者はその娘を見て、皇帝にその旨を奏上すると、皇帝は喜んで、「すぐに連れて参れ」と仰せになったので、従者がその娘をお連れすると、皇帝はその娘をご覧になると、亡くなった后や女御よりも増さっていて、その美しさは数倍にも及ぶ。

そこで、皇帝は喜びながらその娘を輿に乗せて、宮殿に連れ帰った。
三千人にも及ぶ後宮の中でも、この人の美貌は抜きん出ていた。その名を楊貴妃という。
そのため、皇帝は他の事には目を向けようとせず、夜も昼も楊貴妃を寵愛なさるので、世の中の政もご存じなく、ただ、春は花を共に興じ、夏は泉に並んで涼み、秋は月を共に眺め、冬は雪を二人でご覧になられる。
このように、皇帝は楊貴妃を側から離さず、その他の事に割く時間は全くなく、この女御の御兄の楊国忠(ヨウコクチュウ)という人に、世の政をお任せになっていた。これによって、世間の大変な不満になっていた。そこで、世の人々は世間話で、「世にある人は、男子を儲けるよりは、女子を儲けるべきだ」と取沙汰した。

このように、世の中が騒がしくなっていたが、その時の大臣に、安禄山(アンロクザン・757 年没)という人がいた。賢明で思慮深い人で、皇帝が楊貴妃を余りにも寵愛するあまり、世の中が乱れることを嘆いて、「何とかこの女御の命を奪って、世を立ち直らせよう」と思う心があり、安禄山は密かに軍兵を集めて王宮に押し入ったが、皇帝は大変恐れて、楊貴妃を連れて王宮を脱出した。楊国忠も共に脱出したが、皇帝の護衛に当たっている陳玄礼(チンゲンレイ)という人がいたが、それが楊国忠を殺害した。

それから、陳玄礼は鉾を腰に差して、御輿の前にひざまづいて、皇帝を礼拝して申し上げた。「我が君、楊貴妃を寵愛なさるあまり、世の政に関わろうとなさらない。その為、世はすでに乱れております。国民の嘆きは、これに勝るものがありましょうか。願わくば、その楊貴妃を私に賜って、天下の怒りを鎮めるべきです」と。
しかし、皇帝は楊貴妃を思う心が深く、手放すことはとても出来ず、下賜することはなかった。

そうしている間に、楊貴妃はその場を逃れて、お堂の中に入り、仏の放つ光の中に身を置いて隠れようとしたが、陳玄礼はその姿を見つけて捕らえ、練絹を以て楊貴妃の首を結び、殺害した。
皇帝はその様子をご覧になって、半狂乱のようになり、涙を流すこと雨の如しであった。その様子はとても拝見することが出来ないほどであったが、道理にかなったことなので怒りの心はなかった。

さて、安禄山は皇帝を追い出して、王宮において政を行ったが、すぐに死んでしまった(我が子に殺された)。
そこで玄宗は、御子に帝位を譲って、自分は太上天皇(日本的な表現)になられたが、なお、楊貴妃のことを忘れることが出来ず嘆き悲しまれて、春は花が散るのも知らず、秋は木の葉の落ちるのも見ようとしない。木の葉は庭に積み上がったが、それを払う人もいない。
日が過ぎるほどに、むしろ嘆きは増すばかりなので、方士(ホウジ・道士とも。神仙の術を極めた者。)というのは蓬莱(中国の東方海上にあるという不老不死の理想郷。)に行くことが出来る者を言うが、その人が参上して、玄宗に申し上げたことは、「私は、皇帝の御使いとしてあの楊貴妃がいらっしゃる所を尋ねて参りましょう」というものであった。
玄宗はそれを聞いて、大いに喜んで仰せになられた。「されば、あの楊貴妃がいる所を尋ねて、その様子を我に聞かせてくれ」と。
方士はこの仰せをうけたまわって、上は虚空(大空)を極めて、下は底根の国まで探し求めたが、遂に尋ねることが出来なかった。

また、ある人が「東の海に蓬莱という島があります。その島の上に大きな宮殿があります。それが、玉妃(楊貴妃を指す)の大真院という所です。そこにあの楊貴妃がいらっしゃいます」と言った。
すると、方士はこれを聞いて、その蓬莱を尋ねて行った。その島に着くと、山の端に日はようやく沈んで行き、海の面は暗くなって行く。花の扉も皆閉じて、人の声もしないので、方士はその戸を叩くと、青い衣(冥界の人の衣の定番。)を着た乙女の髪をみづらに結ったのが出て来て、「あなたは何処からいらっしゃった人ですか」と訊ねた。
方士は、「私は唐の皇帝の使者です。楊貴妃に申すべき事があって、このように遙々と尋ねてきたのです」と答えた。
乙女は、「玉妃は、ただ今、お寝みになっております。しばらくお待ち下さい」と言うので、方士は手を[ 欠字あるも不詳。]て座っていた。

やがて、夜が明けたので、玉妃は方士がやって来ていることを聞くと、方士を召し寄せて、「皇帝は健やかにおいででしょうか。また、天宝十四年(755 年。安禄山の乱が起きた年で、楊貴妃が死んだのはその翌年。)から今日に至るまでの間に、国にどのような事が起ったのですか」と仰せになった。
方士は、その間の出来事をお話し申し上げた。
そして、帰る時になると贈り物を方士に渡して、「これを持ち帰り、皇帝に奉って下さい。『昔のことはこれを見て思い出して下さい』と申し上げて下さい」と言った。
方士は、受け取った簪(カンザシ)を見て、「玉の簪は、世間によくある物です。これを奉りましても、我が君は、真実の事とお思いにならないでしょう。ぜひ、昔、皇帝とあなたとの間でだけでお話になり、人にまったく知られていない事、それをお話し下さい。それをお伝えすれば、真実とお思いでしょう」と言った。

すると、玉妃は、しばらく考えてから仰せになった。「わたしは昔、七月七日に織女(タナハタツメ)に共に相まみえた夕べ、皇帝がわたしに寄り添って申されたことは、『織女と牽星の契りは、しみじみと感じる。我もまた、このようにありたいと思う。もし天にあれば、願わくは翼を並べた鳥となろう。もし地にあれば、願わくは枝を並べた木となろう。天も長く地も久しくあるといえども終りがあるのであれば、その恨みは綿々として絶えることがないだろう』と。その事を皇帝に申し上げて下さい」と。
方士は、これを聞いて帰り、その由を皇帝に奏上すると、皇帝はますますお悲しみになり、遂にその思いに堪えられずして、幾ばくも経たないうちにお亡くなりになった。

あの楊貴妃が殺された所に、思いが募るあまり、皇帝が行かれて御覧になった時、野辺に浅茅が風になびいていて、しみじみとした様子であった。この皇帝の心境はいかばかりであったろうか。されば、哀れなることの例えとして、この事をいうのである。(やや意味不明であるが、例えとなる歌があるらしい。)

但し、安禄山を殺すのも、世を直(タダ)すためであったので、皇帝も惜しまれることはなかった。
昔の人は、皇帝も大臣も、道理というものを知っていてこのようであったのだ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

* 結びの部分が、今一つ解りにくいのですが、作者には、本話を単なる「情愛」の物語としてではなく、「物の道理」といった物を強調する意向があったのかも知れません。

     ☆   ☆   ☆


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