雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

テスバウ共和国 入国体験記 ・ 第十回

2011-08-17 11:14:30 | テスバウ共和国 入国体験記 
     第二章 共和国への道

          ( 1 )

三姉妹が生まれたのは、まだ道州制が施行される前の兵庫県南部の都市明石である。
淡路島が間近に見える海峡に面した小都市は、歴史的に見れば古代から重要な立地にあったといえる。奈良時代や平安時代、さらに大阪が軍事・経済の中心地として発展した時代においても、西国や、さらには唐天竺とも結ぶ陸海の交通の要衝として、山陽道と瀬戸内海の双方を押さえる重要拠点であった。

それは、江戸時代においても変わらず、明石藩は小藩ではあったが明石海峡を見張る城郭を有し、歴代城主に譜代の一族を配置し続けたことでも分かる。
そして、明治維新に断行された廃藩置県においても、当初明石県が設置されたことを見ると、薩長を中心とした維新政府もこの地の重要性を認識していたと言えよう。

時は下って、三姉妹が育った頃の明石は、日本全体の位置付けとしては特色の少ない街になっていた。
わが国の標準時となっている子午線の街であるとか、タイやタコなどの著名度の高い海産物もあるにはあるが、観光面や産業面から見る限り、際立った特徴を見出すほどの力にはならなかった。

しかしながら、万葉の時代から平安王朝華やかな時代にかけて、須磨明石は歌枕として名高く、風光明媚な景勝地として世に知られていた。その恵まれた景観は、千年の時を経てもその輝きを失ってはおらず、白砂青松はその規模を失ったとはいえ、海峡をまたぐ大橋をはじめとした人工物が補っている。海峡を行き来する大小の船やその先に広がる淡路島の優美な姿は、今も、ここに生きる人たちや旅する人たちに優しく語りかけていると思われる。
三人の姉妹に共通している、どこかしら茫洋としておおらかな性格には、幼年期をこの地で育ったことに影響を受けている部分もあるのかもしれない。

     **

三姉妹の両親がこの街に住居を持ったのは、父の勤務の関係からである。
父はもともとは関東の人であるが、なぜか京都の大学にあこがれて進学した。就職は東京に本社を有するエレクトロニクス関係のトップ企業を選んだのだが、半年ほどの研修のあと配属されたのは大阪支社であった。出身大学を考慮した人事らしいが関東にある研究所を希望していただけに気落ちする辞令であったようだ。
さらに、最初に販売部門を経験させるという会社の方針もあって、システムエンジニアとして販売員と同行する部署に配属された。

このように、社会人としてのスタートは父にとってあまり面白いものではなかったようであるが、その部署は単に経験を積ませるためのものであったらしく、半年後には、当時研究関係で協力関係にあった大阪の大学に出向となり、大阪支社の管轄下にある神戸の研究所と大学の研究室を行き来するような仕事が与えられた。
この仕事は、仕事というより研究者のような生活が中心で、関東ではなかったが父の希望していたものに近い環境であった。

そして、この過程で父は一人の女性とめぐり逢い結ばれた。それが、三姉妹の母である。
三姉妹の母となる人は、大手通信会社の受付をしていたが、父は出向している大学での研究テーマの関係でこの会社に再々出入りしていた。そして、全く偶然に、この会社で大学時代の教授と出会い、母となる人を紹介されたのである。

教授は、この会社とは研究分野のことで交流があり、しかも同窓の親しい知人が何人かいることもあって、公私両面で時々訪問していた。さらに、姪にあたる人が勤務していて、その人がすでに顔なじみになっている受付嬢の一人だったのである。
その時、教授はその女性をわざわざ応接室まで呼んで紹介してくれ、それをきっかけに父と母の交際が始まったのである。

その頃父は、阪神間にある会社の寮に住んでいたが、結婚と同時に明石に住まいを移した。
大学への出向が終わり、神戸市の西北部にある研究所勤務となったこともあり、通勤の関係と母の実家とも比較的近いことがその理由であった。
父の仕事は、おそらく本人としてはそれほど希望していたものではなかったと思われるが、研究所に所属しておりながら、営業色の強いものへと移っていった。いわゆるセールスエンジニアといった位置付けで、大阪支社の要請で、研究所の名刺のままで、営業職の社員に同道することが増えていっていた。

母は、長女出産の前に退職し、以後は家庭に入った。次女三女も明石の家で誕生し、長女が中学を卒業する直前までその家で過ごした。三女が小学四年生の頃までのことである。
明石の家は、明石城に近く、二階からは明石海峡を隔てて淡路島が間近に見え、海峡をまたぐ大橋も遠望できた。家屋そのものは新しいものではなく、庭もそれほど広くなかったが、海に向かっての眺望が気にいって借りたものである。
最初は広過ぎた家も、子供が誕生するごとに手狭になっていったが、三姉妹が伸び伸びと育った背景には環境に恵まれたこの家の存在も無視できないかもしれない。

秋沢家が大阪北部の街に移ったのは、やはり父の仕事の関係からである。
父が自分の仕事について娘たちに語ることは殆どなかったが、研究者として過ごしたいというのが父の希望であったようである。しかし、実際は営業の出来る研究者としてトップセールスの場に連れ出されることが多く、研究現場からは年齢とともに遠のいて行った。同時に、父の意志に関係なく、ポストは順調に昇って行き、経営職として大阪支社と東京本社を駆け巡るようになっていった。
大阪の新しい家は、明石の借家の老朽化が激しいことと、自宅を購入するだけの経済的な余裕とにより実現したものであるが、場所の選定は父の通勤を最優先させたものである。





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