『 空白の時代 ( 12 ) 』
誉田別皇子、皇太子に
神功摂政三年春正月の三日、誉田別皇子(ホムタワケノミコ・後の応神天皇)を皇太子(ヒツギノミコ)に立てた。
そして、磐余(イワレ・奈良県内)に都を造られた。若桜宮(ワカサクラノミヤ)である。
同五年の春三月の七日、新羅王は、ウレシホツ・モマリシチ・ホラモチらを派遣して朝貢した。そこには、先に人質とされている、ミシコチホツカンを取り戻そうという新羅王の狙いがあった。
そのため、ミシコチホツカンに相談していて、「使者のウレシホツらが私に告げて、『我が王が、私が永らく帰らないため、私の妻子ことごとくを没収して官奴としてしまった』と言うのです。願わくば、しばらく祖国に帰り、真実かどうか見とどけてきたいのです」と偽りを言わせた。
皇太后(神功皇后)は、それを聞いて許された。
そこで、葛城襲津彦(カツラギノソツヒコ)を添えて、祖国へ向かわせた。
一行は一緒に対馬に到着し、鉏海の水門(サヒノウミのミナト)に宿泊した。その時、新羅の使者モマリシチらは、ひそかに船と水手(カコ)とを分けて、ミシコチホツカンを船に乗せて新羅に逃れさせた。そして、茅で人形を作り、ミシコチホツカンの寝床において、偽って病気のように見せかけて、葛城襲津彦に告げた。「ミシコチホツカンは、突然の病で、死にそうです」と。
襲津彦は、従者に病気の様子を見に行かせた。そして、欺かれたことを知り、新羅の使者三人を捕えて、檻の中に入れ、火をつけて焼き殺してしまった。それから、新羅に至って、タタラの津に宿営し、草羅城(サワラノサシ)を撃ち破って帰還した。
この時の捕虜たちは、今の桑原・佐糜(サビ)・高宮・忍海(オシヌミ)ら四つの邑(ムラ)の漢人(アヤヒト)らの始祖である。
☆ ☆ ☆
祝い歌
十三年春二月の八日、皇太后は武内宿禰に命じて、皇太子に付き従って角鹿(ツヌガ・越前国敦賀)の笥飯大神(ケヒノオオカミ・敦賀の氣比神宮の祭神)に参拝させられた。
十七日に皇太子は角鹿より帰られた。この日に、皇太后は皇太子のために大殿で饗宴を催された。皇太后は、盃を挙げて皇太子の長寿を祝賀されて、歌を詠まれた。
『 此の御酒(ミキ)は 吾が御酒ならず 神酒の司(クシのカミ) 常世(トコヨ)に坐(イマ)す いはたたす 少御神(スクナカミ)の
豊寿き(トヨホキ) 寿き廻(モト)ほし 神寿き 寿き狂ほし 献(マツ)り来(コ)し 御酒そ あさず飲(オ)せ ささ 』
( この御酒は 私が作った御酒ではない 御酒の長官である 常世の国においでになる 石の上にお立ちになっている 少御神(大国主神と共に国作りをし、天孫に国土を譲った後、常世国に去った)が 大いに寿ぎ 踊り回り 神々しく 踊り狂って 醸造し献上してきた 御酒ですぞ 大いにお飲みなさい さあさあ )
と。 武内宿禰は、皇太子に代わって返歌(カエシウタ)を詠まれた。
『 此の御酒を 醸(カ)みけむ人は その鼓 臼に立てて 歌ひつつ 醸みけめかも 此の御酒の あやに うた楽しさ 』
( この酒を 醸した人は その鼓を 臼のそばに立てて 歌いながら 醸したからでしょうか この酒の まことに 美味しいことですね )
この後『日本書紀』は、「魏志」倭人伝を引用している。
三十九年(神功摂政)。魏志に曰く、「明帝の景初三年(西暦239年に当たる)六月に、倭の女王は、大夫(タイフ)ナントマイ等を派遣して、郡(帯方郡)に至り、天子に詣でて朝献することを求めた。郡の太守トウカは、役人を帯同させて、京都(ケイト・魏の都である洛陽)に至らしめた」という。
四十年。魏志に曰く、「正始元年(西暦240年に当たる)に、建忠校尉(ケンチュウコウイ・武官名)テイケイ等を派遣して、詔書・印綬を奉って、倭国に至らしめた」という。
四十三年。魏志に曰く、「正始四年に、倭王は、また使者の大夫イセイシャ・ヤヤヤク等八人を派遣して上献した」という。
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誉田別皇子、皇太子に
神功摂政三年春正月の三日、誉田別皇子(ホムタワケノミコ・後の応神天皇)を皇太子(ヒツギノミコ)に立てた。
そして、磐余(イワレ・奈良県内)に都を造られた。若桜宮(ワカサクラノミヤ)である。
同五年の春三月の七日、新羅王は、ウレシホツ・モマリシチ・ホラモチらを派遣して朝貢した。そこには、先に人質とされている、ミシコチホツカンを取り戻そうという新羅王の狙いがあった。
そのため、ミシコチホツカンに相談していて、「使者のウレシホツらが私に告げて、『我が王が、私が永らく帰らないため、私の妻子ことごとくを没収して官奴としてしまった』と言うのです。願わくば、しばらく祖国に帰り、真実かどうか見とどけてきたいのです」と偽りを言わせた。
皇太后(神功皇后)は、それを聞いて許された。
そこで、葛城襲津彦(カツラギノソツヒコ)を添えて、祖国へ向かわせた。
一行は一緒に対馬に到着し、鉏海の水門(サヒノウミのミナト)に宿泊した。その時、新羅の使者モマリシチらは、ひそかに船と水手(カコ)とを分けて、ミシコチホツカンを船に乗せて新羅に逃れさせた。そして、茅で人形を作り、ミシコチホツカンの寝床において、偽って病気のように見せかけて、葛城襲津彦に告げた。「ミシコチホツカンは、突然の病で、死にそうです」と。
襲津彦は、従者に病気の様子を見に行かせた。そして、欺かれたことを知り、新羅の使者三人を捕えて、檻の中に入れ、火をつけて焼き殺してしまった。それから、新羅に至って、タタラの津に宿営し、草羅城(サワラノサシ)を撃ち破って帰還した。
この時の捕虜たちは、今の桑原・佐糜(サビ)・高宮・忍海(オシヌミ)ら四つの邑(ムラ)の漢人(アヤヒト)らの始祖である。
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祝い歌
十三年春二月の八日、皇太后は武内宿禰に命じて、皇太子に付き従って角鹿(ツヌガ・越前国敦賀)の笥飯大神(ケヒノオオカミ・敦賀の氣比神宮の祭神)に参拝させられた。
十七日に皇太子は角鹿より帰られた。この日に、皇太后は皇太子のために大殿で饗宴を催された。皇太后は、盃を挙げて皇太子の長寿を祝賀されて、歌を詠まれた。
『 此の御酒(ミキ)は 吾が御酒ならず 神酒の司(クシのカミ) 常世(トコヨ)に坐(イマ)す いはたたす 少御神(スクナカミ)の
豊寿き(トヨホキ) 寿き廻(モト)ほし 神寿き 寿き狂ほし 献(マツ)り来(コ)し 御酒そ あさず飲(オ)せ ささ 』
( この御酒は 私が作った御酒ではない 御酒の長官である 常世の国においでになる 石の上にお立ちになっている 少御神(大国主神と共に国作りをし、天孫に国土を譲った後、常世国に去った)が 大いに寿ぎ 踊り回り 神々しく 踊り狂って 醸造し献上してきた 御酒ですぞ 大いにお飲みなさい さあさあ )
と。 武内宿禰は、皇太子に代わって返歌(カエシウタ)を詠まれた。
『 此の御酒を 醸(カ)みけむ人は その鼓 臼に立てて 歌ひつつ 醸みけめかも 此の御酒の あやに うた楽しさ 』
( この酒を 醸した人は その鼓を 臼のそばに立てて 歌いながら 醸したからでしょうか この酒の まことに 美味しいことですね )
この後『日本書紀』は、「魏志」倭人伝を引用している。
三十九年(神功摂政)。魏志に曰く、「明帝の景初三年(西暦239年に当たる)六月に、倭の女王は、大夫(タイフ)ナントマイ等を派遣して、郡(帯方郡)に至り、天子に詣でて朝献することを求めた。郡の太守トウカは、役人を帯同させて、京都(ケイト・魏の都である洛陽)に至らしめた」という。
四十年。魏志に曰く、「正始元年(西暦240年に当たる)に、建忠校尉(ケンチュウコウイ・武官名)テイケイ等を派遣して、詔書・印綬を奉って、倭国に至らしめた」という。
四十三年。魏志に曰く、「正始四年に、倭王は、また使者の大夫イセイシャ・ヤヤヤク等八人を派遣して上献した」という。
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