枕草子 第八十八段 無明という琵琶
「『無明』といふ琵琶の御琴を、主上の持てわたらせたまへるに、見などして、掻き鳴らしなどす」
といへば、弾くにはあらで、緒などを手まさぐりにして、
「これが名よ、いかにとか」
ときこえさするに、
「ただいとはかなく、名も無し」
とのたまはせたるは、「なほ、いとめでたし」とこそ、おぼえしか。
(以下割愛)
「『無明』という名の琵琶の御琴(オンコト・当時「琴」とは弦楽器の総称であった)を、主上がお持ちになられたので、女房たちが手にとって見たり、爪弾いたりなどしている」
とある女房が言うのですが、弾いているのというほどではなく、弦をいじくっている程度なのですが、
「この琵琶の名前ですが、何と言いましたかしら」
と申し上げますと、中宮様は
「ほんのごくつまらないものなので、名前さえないのですよ」
と仰せになられましたのは、「なんとまあ、みごとな御返答だ」と思ったものですよ。
淑景舎(シゲイサ・中宮定子の妹原子。東宮妃で淑景舎の女御と呼ばれた)などがこちらにおいでになって、中宮様とお話をされているなかで、淑景舎は、
「私の手元にとても風情のある笙の笛(「笛」は管楽器の総称)があります。亡くなった殿(父道隆)が私にくださったものです」とおっしゃると、僧都の君(隆円、二十歳位。定子の弟で原子の兄)が、
「それを隆円にお与え下さい。私の手元にすばらしい琴(キン・中国伝来の七絃の琴)がございます。それとお取りかえください」 と申し上げられるのを、淑景舎は耳も貸そうとなさらないで他の話をなさいますので、隆円は、「返事をしていただこう」と思って、何度もそのことを申し上げられるが、やはり何もおっしゃらないので、中宮様が、
「『いな替へじ』と思っていらっしゃるのですよ」と仰せられたご様子が、実に風雅であることは、この上もありません。
この「いな替へじ」という御笛の名前を、僧都の君は御存じなかったのですから、中宮様の洒落が通じず、姉までが交換に反対なのが、ただもう恨めしく思われたようでした。
この話は、中宮様が職の御曹司においでになられていた頃のことなのでしょう、天皇のお手許に「いな替へじ」という名の御笛がございまして、その名前をお使いになったのです。
天皇のお手許の品は、御琴も御笛も、みな、珍しい名がついているのです。
琵琶は玄上、牧馬、井手、渭橋、無名など。
また、和琴なども、朽目、塩釜、二貫などという名前があるそうです。
水竜、小水竜、宇多の法師、釘打、葉二つ、その他いろいろと。
たくさん耳にしたのですが、忘れてしまいました。
「宣陽殿の一の棚に置くべき名器だ」という決まり文句は、かの頭の中将が口癖になさっていることですよ。
琴や笙などの天皇御物を紹介しています。
また、父道隆が没したあとのこととはいえ、三人のきょうだいが集まられた時の様子を、少納言さまは懐かしげに思い出されておられます。
「『無明』といふ琵琶の御琴を、主上の持てわたらせたまへるに、見などして、掻き鳴らしなどす」
といへば、弾くにはあらで、緒などを手まさぐりにして、
「これが名よ、いかにとか」
ときこえさするに、
「ただいとはかなく、名も無し」
とのたまはせたるは、「なほ、いとめでたし」とこそ、おぼえしか。
(以下割愛)
「『無明』という名の琵琶の御琴(オンコト・当時「琴」とは弦楽器の総称であった)を、主上がお持ちになられたので、女房たちが手にとって見たり、爪弾いたりなどしている」
とある女房が言うのですが、弾いているのというほどではなく、弦をいじくっている程度なのですが、
「この琵琶の名前ですが、何と言いましたかしら」
と申し上げますと、中宮様は
「ほんのごくつまらないものなので、名前さえないのですよ」
と仰せになられましたのは、「なんとまあ、みごとな御返答だ」と思ったものですよ。
淑景舎(シゲイサ・中宮定子の妹原子。東宮妃で淑景舎の女御と呼ばれた)などがこちらにおいでになって、中宮様とお話をされているなかで、淑景舎は、
「私の手元にとても風情のある笙の笛(「笛」は管楽器の総称)があります。亡くなった殿(父道隆)が私にくださったものです」とおっしゃると、僧都の君(隆円、二十歳位。定子の弟で原子の兄)が、
「それを隆円にお与え下さい。私の手元にすばらしい琴(キン・中国伝来の七絃の琴)がございます。それとお取りかえください」 と申し上げられるのを、淑景舎は耳も貸そうとなさらないで他の話をなさいますので、隆円は、「返事をしていただこう」と思って、何度もそのことを申し上げられるが、やはり何もおっしゃらないので、中宮様が、
「『いな替へじ』と思っていらっしゃるのですよ」と仰せられたご様子が、実に風雅であることは、この上もありません。
この「いな替へじ」という御笛の名前を、僧都の君は御存じなかったのですから、中宮様の洒落が通じず、姉までが交換に反対なのが、ただもう恨めしく思われたようでした。
この話は、中宮様が職の御曹司においでになられていた頃のことなのでしょう、天皇のお手許に「いな替へじ」という名の御笛がございまして、その名前をお使いになったのです。
天皇のお手許の品は、御琴も御笛も、みな、珍しい名がついているのです。
琵琶は玄上、牧馬、井手、渭橋、無名など。
また、和琴なども、朽目、塩釜、二貫などという名前があるそうです。
水竜、小水竜、宇多の法師、釘打、葉二つ、その他いろいろと。
たくさん耳にしたのですが、忘れてしまいました。
「宣陽殿の一の棚に置くべき名器だ」という決まり文句は、かの頭の中将が口癖になさっていることですよ。
琴や笙などの天皇御物を紹介しています。
また、父道隆が没したあとのこととはいえ、三人のきょうだいが集まられた時の様子を、少納言さまは懐かしげに思い出されておられます。
ただ、この章段の冒頭部分、原文でも紹介させていただいている部分ですが、どうも分かりにくいのです。
一応現代訳は上記のようにしましたが、例えば、天皇御物である『無明』を女房が勝手に手に取ったり弾いたり出来たのか、ということです。
また、「この名前は何と言うのか」と女房(または少納言)が中宮に尋ねているのですが、とても主従関係の会話のように思われないなど、納得できないままの現代訳になってしまいました。
果たして、少納言さまの真意を伝えられているのでしょうか。
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