雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

上に候ふ御猫は

2015-02-21 11:00:19 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第六段  上に候ふ御猫は

上に候ふ御猫は、かうぶりにて、命婦のおとどとて、いみじうをかしければ、かしづかせたまふが・・・
   (以下割愛)


天皇の近くで飼われている御猫は、昇殿可能な五位の位をいただき「命婦のおとど」と呼ばれていました。

大変可愛いので大切にお世話されていましたが、あるとき縁先で横になっているのを見て、お守り役である馬の命婦は「まあ、お行儀の悪い格好。入りなさい」と呼びましたが、日が差し込んでいていい気持ちに寝込んでいて動こうとしませんので、驚かせてやろうと思い「翁まろ、命婦のおとどに噛みつけ」と近くにいた犬に命じました。

すると、本当に命じられたと思った馬鹿正直な翁まろは、本気になって走りかかっていったので、猫は驚いて御簾の内に飛び込みました。
たまたま天皇が朝食の座に着いておられましたが、飛び込んできた猫を見て大変驚かれました。
天皇は猫を懐にお入れになると殿上人たちをお呼びになると、蔵人忠隆らが参上しましたので、「この翁まろを打ち懲らしめて、犬島へ追いやれ。今すぐに」と命じられましたので、何人もが大騒ぎして追いまわしました。

天皇は、馬の命婦もお責めになり、「守り役を替えてしまおう。全く安心ならぬ」と仰せられたので、御前に出られなくなってしまいました。
犬は狩りたてられて、滝口の武士たちによって追放されてしまいました。

「かわいそうなことに。あんなに堂々と歩きまわっていたのに」
「三月の三日には、蔵人の頭(藤原行成)が、柳のかずらを頭に載せさせ、桃の花をかんざしとして挿させ、桜の枝を腰に差させるなど飾り立てて歩かせていましたのに、まさか、このような目にあおうとは思いもしなかったことでしょう」
などと、あわれに思っておりました。

「皇后様 (定子はこの頃には皇后になっていた) がお食事をされる時には、翁まろは必ず御前近くにいたのに姿が見えなくなり、淋しいことですね」などと話していましたが、その三、四日後のお昼頃、犬の激しい啼き声が、聞こえてきましたので、
「いったいどんな犬が、あれほど長い時間啼いているのかしら」と思いながら聞いていると、そのあたりの犬たちも様子を見に行っているのです。
そこへ、下級の女官が走って来て、
「大変なことです。犬を蔵人二人が打ちすえているのです。きっと死んでしまうでしょう。何でも、流罪にした犬が帰って来てしまったものですから、懲らしめているそうです」と言うのです。
何とも心配なことに、翁まろらしいのです。
「忠隆、実房たちが打ちすえている」と言うので止めに行かせると、どうやら啼き止みましたが、「死んでしまったので、陣の外へ引っ張っていって、捨ててしまった」と言うのです。

かわいそうなことをしてしまったと思っていましたが、その夕方、身体全体がひどく腫れあがり汚れきった犬が、苦しげに振るえながら歩いているので、「翁まろではないかしら。それ以外にこんな犬がうろついているはずないわ」と思っていると、「翁まろ」と近くの女房が声をかけましたが、振り向きもしないのです。
「きっと、翁まろだ」という人もあり、「そうではないわ」という人もありましたが、皇后さまは「右近ならよく知っているはずです。呼びなさい」とお命じになりました。
「これは、翁まろか」と右近に見せましたが、
「似てはいますが、これは見るからにひどい様子でございます。それに、『翁まろ』と呼びますと、喜んで寄ってくるはずですのに、この犬は来ません。きっと、違う犬でしょう。それに翁まろは、『打ち殺して捨ててしまった』と報告されています。二人がかりで打ち懲らしめたのですから、生きていることはないでしょう」と申しあげましたので、皇后さまは、大変不憫にお思いになられました。

暗くなってから、餌を与えましたが食べないので、やはり別の犬ではないかということで、そのままにしておいたのですが、その翌朝、皇后様は御調髪や、御手洗いの水などお使いになっていて、私がお持ちしている御鏡をご覧になっていますと、なんと、昨日の犬が目の前の柱の下にうずくまっているのです。
「ああ、かわいそうに、昨日は翁まろを激しく打ち懲らしめてしまった。恐らく死んでしまったのでしょうが、あわれなことをしてしまいました。今はどのような身に生まれ変わっているのでしょうか。どんなに辛かったことでしょう」と、思わず私が申し上げていますと、うずくまっていた犬がぶるぶると震えだし、涙をぽろぽろと流し続けるのです。
何とまあ、驚いたことに、やはり翁まろだったのです。

「昨夜は、自分だと名乗ることもしないで、じっと我慢をしていたのだ」と思いますと、かわいそうでもあり、その心根が何ともいじらしくていじらしくて私はお持ちしていました御鏡を放りだすようにして、「さあ、おいで。翁まろでしょう」と呼びますと、身体をひれ伏して何度も何度も啼くのです。皇后さまも、ことの成り行きに安心されたかのように微笑んでいらっしゃいました。
皇后様は右近内侍をお召しになって、「こうこうであるのよ」などと仰せになられると、他の女房たちが大笑いするものですから、天皇のお耳にも入り、こちらへお出になられました。
「驚いたことに、犬などでもそのような心根を持っているものなのか」と微笑まれました。
天皇にお付きの女房たちも聞きつけて、こちらに集まって来て、翁まろに呼びかけますと、それに応えて起ち上がり動きまわっているのです。

「ともかく、この顔などが腫れているのを、手当てしてあげなくては」と私が言いますと、
「ついに、あなたは翁まろびいきを白状してしまいましたね」と他の女房たちが笑うのです。
すると、このことを聞きつけた忠隆が、台所の方から大きな声で「本当に流罪にした犬なのですか、確認しましょう」と言うので、「まあ、恐ろしい。そんな犬はいませんよ」と言いに行かせましたが、「そうですか。でも見つかるかもしれませんよ。そうそう隠せるものでもないですからね」なんて、言うのですよ。

しかし、間もなく天皇の御許しも出て、元通りになることができました。
やはり、人からかわいそうに思われて、震えて啼きながら出てきた様子などは、何とも言えないほどいじらしく、心動かされることでした。
人間なんかはねぇ、人に情けをかけられて、泣いたりするものですが。


 
この章段は、何とも残酷で哀れな一編の物語を成しています。
命じられたままに行動したばかりに、翁まろは馬鹿呼ばわりされ、散々打たれたうえ追放されるという悲運を背負いました。

そして、それは単に犬に限らず人間にも当てはまることだと、少納言さまは示唆していると思われ、おそらく定子の実家の悲運を意識していたと考えられていますが、そのあたりのことにはまったく触れていません。
そのことを指して少納言さまへの評価が分かれるようですが、仕える主人の不運を材料にお涙を頂戴する気持ちなど少納言さまには全くないのです。
それが少納言さまであり、枕草子であるともいえましょう。
個人的には、大好きな章段です。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« いとうららかなる | トップ | 大進生昌が家に »

コメントを投稿

『枕草子』 清少納言さまからの贈り物」カテゴリの最新記事