雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

うつせみ   第九回

2010-08-04 07:58:24 | うつせみ
          ( 九 )

飯島の心の中では密かな葛藤が続いていたが、美沙子にとっては夢のような日が続いていた。
美沙子にも、このような住居での生活を夢見たことはあった。母親との生活、愛されていると思った人との生活・・・、しかし、それらの夢は、あるものは儚く、あるものは悪夢となって、まっしぐらに転落し続ける半生だった。
それが今、次々といとも簡単に実現しようとしていることに戸惑いがあり、行き着く先に恐怖感のようなものがあった。こんなことがいつまでも続くはずがなく、今体験しているものが単なる幻想なのか、あるいは、夢見た分だけしっぺ返しのようなものがあるのではないかという気持ちが常にあった。

美沙子はそうした不安を何度も何度も自分自身に問いかけたが、飯島の申し出を拒絶することも逃げだすことも出来ないままに、事が進んでいっていた。
そして、幻想であるなら、それならそれでいいと考えることに思い至った。このすばらしい幻想を与えてくれている飯島に感謝しようと思った。素直に甘えて、夢を見させてもらおうと思った。たとえしっぺ返しのようなものが用意されていても、今さら自分には傷ついたり失ったりするものなどないのだから、「さあ、夢の生活はここまでだよ」と幕を引かれるその日までは素直に夢を見させてもらおうと思った。

週のうち四日間、子供服の専門店で働くことになった。午後の五時間だけのパート勤務だが、生活のリズムの中心になった。その他に飯島の強い勧めに従ってお茶とお花を習いに行くことになったが、あとは自由な時間だった。
飯島に喜んでもらいたくて料理も習い始めたが、お嫁に行く時に役立つよと喜んでくれたのが、少し寂しかった。

生活費は飯島が十分過ぎるほどのものを渡してくれた。こんなにはいらないと断ったが、給料を半分ずつしているのだと笑い、残れば将来のために貯金をしなさいと、父親の顔になって言った。
さらに、いつの間に作ったのか、美沙子名義の通帳と印鑑を渡して、自分から離れたくなった時は、どんなことがあってもこれだけは持って行くようにと言い、美沙子に約束させた。その通帳には、マンションが買えるほどの金額が記入されていた。

美沙子は、飯島を男性として強く意識することがあまりなかった。年齢はまさに親子ほど違うが、年齢差に抵抗感があるわけではなかった。飯島は本気になって父親役を務めてくれているが、美沙子には飯島を父親として感じるものもあまりなかった。むしろ、飯島と男女の仲になることが出来れば、もっと素直に甘えることが出来るかもしれないという思いもあった。
初対面の時から、美沙子は飯島に対して特別な印象を抱いていた。飯島が特別好意的だったことも関係しているのかもしれないが、横にいるとなぜか安心できるようなものが伝わってくるのだ。

あの夜、飯島に抱かれようとしたのは恋愛感情からでないことは確かだった。飯島が差し向けてくれた救いの手に対して何かをするとすれば、抱かれることしか美沙子には考えが及ばなかったからだが、心のどこかには、それまでの飯島の優しさに魅かれている部分があったことも否定できなかった。少なくともお金を受け取るために体を投げ出したといったものではなかった。

このマンションに移ってきてからは、仕事の関係で無理な時以外は、週の半ばに一度と週末には来るようになっていた。週末は大概泊まっていくが、美沙子の体に触れようとはしなかった。
美沙子の毎日の生活ぶりを楽しそうに聞き、まだ勉強中で見栄えも味も今一つのはずの手料理を、実に嬉しそうに食べた。
泊まっていく時は、ソファーに並んで座り遅くまでテレビを見ることが多かったが、美沙子の方から体を預けることも時々あった。飯島はそれを避けることもなく、美沙子の意思に応えるようにそっと抱きしめたが、それ以上に行動しようとはしなかった。時には、そのまま美沙子が眠ってしまうこともあるが、いつ目覚めても飯島の姿勢は変わらず、優しく包んでくれていた。

一度、偶然に、それも衣服の上からだが、飯島の手が明らかに美沙子の乳房に触れたことがあった。そして、一瞬驚きの表情を見せた後、体全体をしっかりと抱きしめ長い時間じっとしていたことがあったが、やがて少し首を振るような表情でその体を押し放した。その時、飯島の眼は涙に濡れていた。
美沙子には飯島の涙の意味は分からなかったが、自分の胸にも込み上げてくるものがあり、再び体を預けていったが、その時もそれ以上のことにならなかった。

年齢差があった。美沙子には飯島に話していない過去もあった。
しかし、飯島も妻と死別してから何年も経っている。正式に結婚してもらえなくてもいい、このままの状態でいいから飯島と家庭を持ちたいと思う気持ちが、美沙子の中で少しずつ膨らんでいた。
飯島が言ってくれるように、将来別の男性が現れるということもあるかもしれないが、今の生活を越えるような幸せを掴めるなど、とても想像できなかった。飯島を愛しているのかといわれると答えに困るけれど、信頼していることは確かだった。それに何よりも、飯島と一緒にいる時の安心感は、美沙子にとってこれまでの人生で経験することが出来ないものだった。

金銭面で苦しんできた美沙子にとって、経済面で手厚い援助をしてくれることは大きい要因であり、実際にそのことが二人を結びつけたといえるのだが、共に過ごす時間を重ねるにつれて美沙子の心には他の要因が育ってきていた。
それが愛情という言葉で表現できるものなのかどうか分からなかったが、飯島から与えられる優しさの何分の一かでも返したいと真剣に考えるようになっていった。といっても、経済的なことで返すことなど出来る筈もなく、出来るとすれば、飯島の疲れた心を少しでもいやすことではないかと考えていた。

飯島の社会的な立場などがあるかもしれない。そのことに問題があるのならば、自分は表に出ないように心掛けて、何とか今のような生活を続けていくことは可能なのではないだろうか。
美沙子は、飯島の言葉にかかわらず、自分が将来を共にしたいのはこの人以外には考えられないと思うようになっていた。

   **

それは、飯島にとっても新しい生活だった。
美沙子と初めて会った時の驚きは、二十五年の歳月を一気に遡らせるものだった。青春の日の苦い思い出は、激しい後悔と失ったものの大きさをよみがえらせたが、今は落ち着いた気持ちで美沙子に接することが出来るようになっていた。幾つかの疑問や葛藤はあるとしても、今はただ、どうすることが美沙子の幸せにつながるかだけを真剣に考えようとの結論に達していた。

そして、実際に実行に移しつつあり、美沙子の幸せだけを願うことに揺らぎはないつもりだが、やはり、どうしても、真沙子と美沙子の関係を確認したい気持ちを抑えきることが出来なかった。飯島は何度かの逡巡の後、美沙子の過去を調査することにした。それは、二人の新しい生活を更に進めるためでもあると飯島は考えていた。

しかし、飯島が次のステップを踏みだすのを待っていたかのように、美沙子が飯島のもとを去っていったのである。
全く突然のことで、このマンションに移ってくる時に持ってきた古いスーツケースと、わずかな衣服や身の回りの物だけを持って出ていってしまったのである。ここに移ってから揃えた服などは全てそのまま残されていたし、飯島が、自分から去る時には必ず持って行くようにと約束させていた預金通帳も手付かずのまま残されていた。

そして、残された手紙には短くこう書かれていた。
「今度は、わたしの方から去っていきます。ごめんなさい・・・」

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