( 三 )
飯島が大阪での生活を始めて半年が過ぎた。
その夜も、店が終わるのを待って美沙子をタクシーで自宅まで送っていった。
二か月ほど前から、週に一度はタクシーで送るのが習慣のようになっていたが、アパートの近くで美沙子だけ降ろすのが常だった。美沙子の部屋に入ることはもちろんのこと、アパートの前に行くこともなかった。
しかし、この夜飯島は美沙子と一緒にタクシーを降りた。何も言葉をかけていなかったが、美沙子は特に不審がる様子も見せず、自分のアパートの方向を指さして微笑んだ。
飯島が一人で「あわじ」に来たときは、美沙子がその担当につくようになっていたし、それが当然のようにママだけでなくホステスたちにも認知されていた。
営業関係で来る時は取引先関係者と一緒のことが多かったが、その時はたいてい青山が仕切っていた。その場合も美沙子は席に加わったが、飯島と特別親密な関係を示すこともなく、先輩ホステスの後ろに従っているような状態に見えた。
飯島が一人で来る時は、ごくたまに美沙子を夕食にさそった後同伴の形で店に送ってくることもあるが、大体は接待の後で立ち寄ることが多く、一時間足らず飲み直す感じで、遅い時間の場合は美沙子を自宅まで送った。
飯島は美沙子の顔を見るだけで落ち着くらしく、自分の席につくよう強制することはなかった。他の客がある場合はそちらを優先させたし、顔馴染みとなった他のホステスを席に呼ぶこともあった。
上場会社の役員とはいえ、中年の客とホステスにしては、不思議な関係だった。飯島が美沙子に特別な関係を望んでいる様子はなく、手を握るようなこともなかった。最初の時に踊ったダンスもその後は誘うことはなく、ママなどに勧められても困ったように首を横に振った。
美沙子も飯島に甘えているような仕草は全く見せなかったが、席に着いている時は、他の客にない安心感を感じているらしく、実に穏やかな姿だった。
飯島は南東商事の接待とプライベートとの区別を厳密にしていて、支払いは現金で支払うようにしていたが、あまりに水臭いとママに言われてからは付けにしていたが、ママや青山が気を利かせようとするのをかたくなに拒んでいた。飯島が会社の経費管理に特別細かなわけではなく、交際費の使いぶりはむしろ豪快なところがあると青山などは喜んでいるが、美沙子の件は別だと青山には話していた。
二人の関係について、ホステスの中には無責任な噂をする者もいたが、ママの智子は、二人の関係は親子みたいなものだと感じ取っていた。現に青山からは、飯島が昔大変世話になった人の娘の可能性があると聞かされていた。
智子も最初はホステスを口説く常套手段のように思わなかったわけではないが、飯島の人柄が分かってくると、複雑な問題があるらしく、飯島が美沙子の保護者になろうとしていることは本心だと思うようになっていた。
それ以外にも、智子は飯島から直接相談も受けていた。美沙子の借金のことや、どういう支援をすればいいかなどを真剣に相談されていて、「これで指名料をいただいていいのかしら」と青山に相談したほどである。
若い頃から飯島の酒席の姿を知っている青山は、堂々と請求してくれる方が飯島は喜ぶといって智子を安心させたが、同時に、よほど大事な人の娘らしいのでそれとなく見守って欲しい、と懇願されてもいた。
美沙子のアパートは、表通りから少し奥に入った場所にある質素なものだった。
六畳の日本間と三畳位のダイニングキッチンらしいものがあるだけで、あとは入口の小さなたたきと風呂とトイレのようである。部屋はきれいに片づけられているが、同時にそれは調度品が極端に少ないことにも原因していた。
美沙子は飯島の予想外の訪問に少しばかり戸惑いながらも、別に嫌がる様子も見せず部屋に上げると、
「インスタントしかないんです」
と言いながら、コーヒーを入れた。
二人は、日本間に置かれている食卓兼用でもあるらしい座卓に、コーヒーカップを挟んで向かい合って座った。
飯島はコーヒーを一口飲むと「おいしいよ」と微笑み、鞄から銀行の紙袋を取りだして美沙子の前に置いた。
「これを、使って欲しいんだ」
「お金ですか?」
「そう、五百万円ある。これで、お店の借りを返しなさい」
美沙子は銀行の名前の入った紙袋を、じっと見つめていた。そして、重苦しい沈黙の後、ひとり言のようにつぶやいた。
「お聞きになったのですね・・・」
「詳しくは知らないが、ママに立て替えてもらっている分が四百万円ほどあると教えてもらったんだ。もし、他にも借金があるのなら、それも教えて欲しいんだ」
「ママにお聞きになったのなら、仕方がありませんわ・・・。ママに肩代わりしていただいた分が四百万円あります。他に借金はありませんが、ママの分は、月々お支払しているものでは利息分にも足らないはずです。ですから、もう少し増えているのだと思います」
「足らない分はすぐ用意するから、ママに相談して返済させてもらいなさい」
「ありがとうございます・・・。でも、わたしは、飯島さんに指名していただく以外に殆ど指名がありませんし、生活していくのがやっとで、利息も滞っています。飯島さんにお金を出していただいても、お返しするあてがありません。ですから、本当にありがたいのですが、このお金をお借りすることは出来ません」
「そうじゃないんだ。返してくれる必要はないよ。あなたに使ってもらいたいんだ」
「飯島さんから、こんな大金を頂くわけにはいきません」
「確かに、私にとっても大金だよ。でも今の私には、それほど無理することなく都合できるお金なんだ。だから、ぜひ使って欲しい。あなたの役に立てれば嬉しいんだ」
美沙子は言葉に詰まり、じっと飯島の顔を見つめた。その目が、見る見るうちに赤くなっていった。
「どうして、そんなに優しくしてくれるのですか・・・」
ようやく言葉を出した美沙子の目から、涙があふれた。それを拭おうともしないで、じっと飯島の顔を見つめていた。
この人を守りたい、と飯島は心の中で叫んでいた。それは、青春の日の、消し去ることの出来ない後悔の思いへの叫びだった。
「私はあなたを守りたいんだ。決して他意はない。守りたいだけだよ。だから、このお金は私の方からお願いしているんだよ。あなたの役に立ててくれるよう、お願いしているんだよ」
美沙子は席を立った。嗚咽を噛みしめるようにして姿を隠し、やがて、シャワーのような音が聞こえてきた。きっと、泣き声を隠すためのシャワーなのだと、飯島は思った。
「あわじ」のママである智子の話では、高利の借金に苦しんでいるのを人を通じて知り、「あわじ」に移ることを条件に借金を肩代わりしたということだった。月々の収入から少しずつ返済しているが、前より低い金利になったとはいえ利息の返済さえ遅れがちになっていた。
訳ありの借金らしいですよ、と智子は言っていたが、先程の美沙子の様子からも苦しい過去があったらしいことが窺われた。
シャワーの音が止み、ややあって、美沙子が戻ってきた。白いガウン姿だった。そして、飯島の前まで来て、そのガウンを脱いだ。全裸だった。
これまでの人生はあまり幸せなものではなく厳しいものだったと思われるが、その体は、淡紅色に輝いていた。
「どうしたんだ・・・」
驚きの声を上げる飯島の前に、美沙子は、全裸のまま正座した。
「飯島さん、ありがとうございます。お金をお借りいたします。このお金で、わたしは地獄の思いから抜けられます。ただ、今のわたしには、お借りしてもお返しするあてがありません。何年かかっても、必ずお返しいたしますが、正直なところ、自信もありません・・・。
飯島さん、わたしを抱いてください。今のわたしには、他には何もありません・・・」
「馬鹿なことを言ってはいけない。そんなつもりではないんだ。そんなことをしなくてもいいんだよ・・・。さあ、早く服を着なさい」
「いいえ…、お願いします。汚れてしまっている体ですが、わたしに今出来ることは・・・、飯島さん、わたしを抱いてください・・・」
美沙子は全裸の体を投げ出すようにして、飯島にすがりついた。
思わず抱きしめたその体は、あの時の、あの人の、あの体そのもののように感じられた。強く抱きしめた体の弾力が、二十数年の時空を超えて飯島に迫った。
どのくらいの時間が流れたのか、あるいは一瞬のことだったのか、飯島は現実に戻った。
飯島は、自分の上着を美沙子に羽織らせた。スーツの間から見える乳房と、剥き出しの下半身が、哀れだった。
飯島は、もう一度強く抱きしめて、その耳元に囁いた。
「もう、これで十分なんだよ」
「それでは、わたしもお金をお借りすることが出来ません。お願いします。わたしを今の生活から抜け出させて下さい・・・。そのために、抱いてください・・・」
「今の生活から抜け出したいのなら、力になるよ。それは、わたしがそうしてやりたいからなんだよ。あなたの力になりたいからなんだよ。あなたの体は、やがて現れる大切な人のために、大事にしなくてはいけないよ・・・」
飯島は、美沙子に語りかけながら、同時に、自分自身に言い聞かせているような気持になっていた。
その夜、飯島は美沙子の強い申し出に負けてその部屋に泊まった。
二人は、一つの布団で抱き合うようにして寝たが、結ばれることはなかった。
飯島が大阪での生活を始めて半年が過ぎた。
その夜も、店が終わるのを待って美沙子をタクシーで自宅まで送っていった。
二か月ほど前から、週に一度はタクシーで送るのが習慣のようになっていたが、アパートの近くで美沙子だけ降ろすのが常だった。美沙子の部屋に入ることはもちろんのこと、アパートの前に行くこともなかった。
しかし、この夜飯島は美沙子と一緒にタクシーを降りた。何も言葉をかけていなかったが、美沙子は特に不審がる様子も見せず、自分のアパートの方向を指さして微笑んだ。
飯島が一人で「あわじ」に来たときは、美沙子がその担当につくようになっていたし、それが当然のようにママだけでなくホステスたちにも認知されていた。
営業関係で来る時は取引先関係者と一緒のことが多かったが、その時はたいてい青山が仕切っていた。その場合も美沙子は席に加わったが、飯島と特別親密な関係を示すこともなく、先輩ホステスの後ろに従っているような状態に見えた。
飯島が一人で来る時は、ごくたまに美沙子を夕食にさそった後同伴の形で店に送ってくることもあるが、大体は接待の後で立ち寄ることが多く、一時間足らず飲み直す感じで、遅い時間の場合は美沙子を自宅まで送った。
飯島は美沙子の顔を見るだけで落ち着くらしく、自分の席につくよう強制することはなかった。他の客がある場合はそちらを優先させたし、顔馴染みとなった他のホステスを席に呼ぶこともあった。
上場会社の役員とはいえ、中年の客とホステスにしては、不思議な関係だった。飯島が美沙子に特別な関係を望んでいる様子はなく、手を握るようなこともなかった。最初の時に踊ったダンスもその後は誘うことはなく、ママなどに勧められても困ったように首を横に振った。
美沙子も飯島に甘えているような仕草は全く見せなかったが、席に着いている時は、他の客にない安心感を感じているらしく、実に穏やかな姿だった。
飯島は南東商事の接待とプライベートとの区別を厳密にしていて、支払いは現金で支払うようにしていたが、あまりに水臭いとママに言われてからは付けにしていたが、ママや青山が気を利かせようとするのをかたくなに拒んでいた。飯島が会社の経費管理に特別細かなわけではなく、交際費の使いぶりはむしろ豪快なところがあると青山などは喜んでいるが、美沙子の件は別だと青山には話していた。
二人の関係について、ホステスの中には無責任な噂をする者もいたが、ママの智子は、二人の関係は親子みたいなものだと感じ取っていた。現に青山からは、飯島が昔大変世話になった人の娘の可能性があると聞かされていた。
智子も最初はホステスを口説く常套手段のように思わなかったわけではないが、飯島の人柄が分かってくると、複雑な問題があるらしく、飯島が美沙子の保護者になろうとしていることは本心だと思うようになっていた。
それ以外にも、智子は飯島から直接相談も受けていた。美沙子の借金のことや、どういう支援をすればいいかなどを真剣に相談されていて、「これで指名料をいただいていいのかしら」と青山に相談したほどである。
若い頃から飯島の酒席の姿を知っている青山は、堂々と請求してくれる方が飯島は喜ぶといって智子を安心させたが、同時に、よほど大事な人の娘らしいのでそれとなく見守って欲しい、と懇願されてもいた。
美沙子のアパートは、表通りから少し奥に入った場所にある質素なものだった。
六畳の日本間と三畳位のダイニングキッチンらしいものがあるだけで、あとは入口の小さなたたきと風呂とトイレのようである。部屋はきれいに片づけられているが、同時にそれは調度品が極端に少ないことにも原因していた。
美沙子は飯島の予想外の訪問に少しばかり戸惑いながらも、別に嫌がる様子も見せず部屋に上げると、
「インスタントしかないんです」
と言いながら、コーヒーを入れた。
二人は、日本間に置かれている食卓兼用でもあるらしい座卓に、コーヒーカップを挟んで向かい合って座った。
飯島はコーヒーを一口飲むと「おいしいよ」と微笑み、鞄から銀行の紙袋を取りだして美沙子の前に置いた。
「これを、使って欲しいんだ」
「お金ですか?」
「そう、五百万円ある。これで、お店の借りを返しなさい」
美沙子は銀行の名前の入った紙袋を、じっと見つめていた。そして、重苦しい沈黙の後、ひとり言のようにつぶやいた。
「お聞きになったのですね・・・」
「詳しくは知らないが、ママに立て替えてもらっている分が四百万円ほどあると教えてもらったんだ。もし、他にも借金があるのなら、それも教えて欲しいんだ」
「ママにお聞きになったのなら、仕方がありませんわ・・・。ママに肩代わりしていただいた分が四百万円あります。他に借金はありませんが、ママの分は、月々お支払しているものでは利息分にも足らないはずです。ですから、もう少し増えているのだと思います」
「足らない分はすぐ用意するから、ママに相談して返済させてもらいなさい」
「ありがとうございます・・・。でも、わたしは、飯島さんに指名していただく以外に殆ど指名がありませんし、生活していくのがやっとで、利息も滞っています。飯島さんにお金を出していただいても、お返しするあてがありません。ですから、本当にありがたいのですが、このお金をお借りすることは出来ません」
「そうじゃないんだ。返してくれる必要はないよ。あなたに使ってもらいたいんだ」
「飯島さんから、こんな大金を頂くわけにはいきません」
「確かに、私にとっても大金だよ。でも今の私には、それほど無理することなく都合できるお金なんだ。だから、ぜひ使って欲しい。あなたの役に立てれば嬉しいんだ」
美沙子は言葉に詰まり、じっと飯島の顔を見つめた。その目が、見る見るうちに赤くなっていった。
「どうして、そんなに優しくしてくれるのですか・・・」
ようやく言葉を出した美沙子の目から、涙があふれた。それを拭おうともしないで、じっと飯島の顔を見つめていた。
この人を守りたい、と飯島は心の中で叫んでいた。それは、青春の日の、消し去ることの出来ない後悔の思いへの叫びだった。
「私はあなたを守りたいんだ。決して他意はない。守りたいだけだよ。だから、このお金は私の方からお願いしているんだよ。あなたの役に立ててくれるよう、お願いしているんだよ」
美沙子は席を立った。嗚咽を噛みしめるようにして姿を隠し、やがて、シャワーのような音が聞こえてきた。きっと、泣き声を隠すためのシャワーなのだと、飯島は思った。
「あわじ」のママである智子の話では、高利の借金に苦しんでいるのを人を通じて知り、「あわじ」に移ることを条件に借金を肩代わりしたということだった。月々の収入から少しずつ返済しているが、前より低い金利になったとはいえ利息の返済さえ遅れがちになっていた。
訳ありの借金らしいですよ、と智子は言っていたが、先程の美沙子の様子からも苦しい過去があったらしいことが窺われた。
シャワーの音が止み、ややあって、美沙子が戻ってきた。白いガウン姿だった。そして、飯島の前まで来て、そのガウンを脱いだ。全裸だった。
これまでの人生はあまり幸せなものではなく厳しいものだったと思われるが、その体は、淡紅色に輝いていた。
「どうしたんだ・・・」
驚きの声を上げる飯島の前に、美沙子は、全裸のまま正座した。
「飯島さん、ありがとうございます。お金をお借りいたします。このお金で、わたしは地獄の思いから抜けられます。ただ、今のわたしには、お借りしてもお返しするあてがありません。何年かかっても、必ずお返しいたしますが、正直なところ、自信もありません・・・。
飯島さん、わたしを抱いてください。今のわたしには、他には何もありません・・・」
「馬鹿なことを言ってはいけない。そんなつもりではないんだ。そんなことをしなくてもいいんだよ・・・。さあ、早く服を着なさい」
「いいえ…、お願いします。汚れてしまっている体ですが、わたしに今出来ることは・・・、飯島さん、わたしを抱いてください・・・」
美沙子は全裸の体を投げ出すようにして、飯島にすがりついた。
思わず抱きしめたその体は、あの時の、あの人の、あの体そのもののように感じられた。強く抱きしめた体の弾力が、二十数年の時空を超えて飯島に迫った。
どのくらいの時間が流れたのか、あるいは一瞬のことだったのか、飯島は現実に戻った。
飯島は、自分の上着を美沙子に羽織らせた。スーツの間から見える乳房と、剥き出しの下半身が、哀れだった。
飯島は、もう一度強く抱きしめて、その耳元に囁いた。
「もう、これで十分なんだよ」
「それでは、わたしもお金をお借りすることが出来ません。お願いします。わたしを今の生活から抜け出させて下さい・・・。そのために、抱いてください・・・」
「今の生活から抜け出したいのなら、力になるよ。それは、わたしがそうしてやりたいからなんだよ。あなたの力になりたいからなんだよ。あなたの体は、やがて現れる大切な人のために、大事にしなくてはいけないよ・・・」
飯島は、美沙子に語りかけながら、同時に、自分自身に言い聞かせているような気持になっていた。
その夜、飯島は美沙子の強い申し出に負けてその部屋に泊まった。
二人は、一つの布団で抱き合うようにして寝たが、結ばれることはなかった。
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