『 若宮の袴着 ・ 望月の宴 ( 18 ) 』
こうして時は過ぎて、天元五年 ( 982 ・年代わりが重複している。 ) となった。
三月十一日に中宮(遵子)がお立ちになるということで、太政大臣(頼忠。遵子の父。)は準備に懸命でいらっしゃる。
これにつけても右大臣(兼家)は何もかも驚きあきれたこととお聞きになっているうちに、后がお立ちになってしまった。言うまでもなく、おめでたいことである。太政大臣のなさりようももっともなことである。
ただ、帝の御はからいを、世間の人の目には不都合で嘆かわしいことと取り沙汰されている。
第一の皇子がいらっしゃる女御を差し置いて、このように皇子も皇女もいらっしゃらない女御が后にお立ちになったことは、穏やかならぬことと世の人は非難して、素腹の后とあだ名をおつけしたりする。
とはいえ、こうして后に立たれたことだけでも結構なことである。
東三条の大臣(兼家)は、もし命ながらえることが出来れば、そのときこそはと思いながらも、この立后についてはご不満で嘆かわしいことと思っていらっしゃる。
冷泉院の女御(兼家の娘・超子)が亡くなられたことを嘆いているところに、重ねてこの事で世間はどう取り沙汰するのかと、世の中の何もかもが思いに叶わず、あの堀河の大臣(兼通。兼家は兄の兼通に冷遇された。)の仕打ちなどはどれほどのことでもなかったと、この度の帝の御取りはからいは、たいそう情けないことと思われる気持ちは並大抵のものではない。これほどまでも世間の人の笑い者になってしまった上は、とても生きてはいられないという気持ちになりながらも、このまま終ってなるまいかという気持ちもあり、この世間の有様を自分の目で見届けてやろうと、気を強くされて、冷泉院の女御のご逝去ののちは、いっそう御門を閉じがちにして、男君達もすべて出仕を差し止めされる。
帝の御使者は、女御殿(詮子)のもとに毎日参上されるが、二、三度のうち御返事は一度だけといった状態である。一品宮(イッポンノミヤ・資子内親王。帝の同母の妹で、詮子との中を取り持っていたらしい。)も、この度の御取りはからいをたいそう不快に思われていて、申し上げてもいらっしゃった。
若宮(懐仁親王)は、さぞ可愛らしくなられたことでしょうが、今年は三歳におなりなので、御袴着(ハカマギ・着袴とも。男女の別なく、三、四歳から六、七歳の頃に行われる、初めて袴を着ける儀式。袴の腰を結ぶ役は重視され、皇子皇女の場合は天皇自らその任に当たることが多い。)の儀式を行うべく、帝は造物所(ツクモドコロ)に御調度類などの準備を命じられ、その行事のお支度も用意されておいででございました。
冷泉院の女御の御法事もすべて済まされまして、お気持ちに空白が生じられる中、兼家殿はもっぱらこの女御の残された皇子方のお世話に没頭なされておりました。
この殿の北の方であられた時姫殿は天元三年の正月にお亡くなりになっております。
そのこともありまして、冷泉院の女御殿にお仕えしていた大輔(ダイフ)という女房を召し使われておりました。たいそう信頼されて親しく遇せられていますので、まるで北の方並の立場としてお仕えでした。
冷泉院の第二、第三、第四の宮方(居貞親王、為尊親王、敦道親王)の御乳母たち、大弐の乳母、少輔の乳母、民部の乳母、衛門の乳母、その他にも多くの女房がお仕えしていますが、その人たちにはまったく目もくれず、ただこの大輔のことを大切にされておりました。
帝は、梅壺の女御(詮子)のご機嫌をとても気にされていて、若宮(懐仁親王)の御袴着のことを立派に準備したいと考えていらっしゃいました。
と申しますのは、立后のことは、決して梅壺の女御を粗略に扱ったということではなく、太政大臣のご威勢を恐れてのことだったのでございます。
兼家殿は、この冬に若宮の御袴着を殿の御邸である東三条殿で行うとのご意向でございました。
帝はそれをお聞きになって、「どうして里邸で行うというのか。宮中で行うことにせよ」と仰せになられ、十二月にということでお支度を急がされました。母女御(詮子)も参上なさって、三日の間帝のおそばにいらっしゃったそうでございます。
ご準備をたいそうお急ぎになり、当日になって若宮を参内させられました。その間の儀式の盛大な有様は、とてもお伝えできるものではございません。
帝は、この皇子にお会いになり、たいそう可愛らしいことに感動なさって、「この母女御のためにも、この若宮の扱いが粗略だと見えるようなことがあれば、神仏の罰を受けることになるだろう。わが後継ぎになるに違いない皇子なのだから」とお考えになって、できる限りのもてなしをなさり、母女御にもあれこれとなだめられましたが、母女御の御心は解けないご様子なのが、帝には不本意でございました。
御袴を着けられた若宮のお姿は、それはそれは可愛らしゅうございました。帝にお付きの女房方の中の年配の方々は、「主上のご幼少の頃が、まるでこのようでございました」などと申されておりました。
帝は、若宮を抱き上げて一品宮の御もとにお連れすると、一品宮はたいそう楽しげにあやされて、「この若宮の御為にも、母女御を粗略にお扱いなさるのはもってのほかでございます」などと申されますと、「どうして粗略なことなどあろうか。立后のことは、あのようにするしか仕方がなかったのだ」と帝は仰せになっていらっしゃいました。
さまざまな見事な御贈物などがあり、行事は終りました。
上達部(カンダチメ・上級の貴族)、殿上人、女房方などの禄も行き届いて申し分なくなさって、四日目の暁に母女御も若宮も宮中を退出なさいました。帝は強くお引き留めになりましたが、「今しばらくしてから、ゆっくりと参上いたします」と申し上げてお帰りになられるので、帝は名残惜しく思われ、立后にまつわる隙間風を寒々と感じられていたのでございましょうか。
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