『 円融帝の譲位 ・ 望月の宴 ( 19 ) 』
右大臣(ミギノオトド・藤原兼家)は、冷泉院の今は亡き女御(超子・兼家の娘)の御法事(少し早いが、一周忌か?)を今月に予定されていて、それに御袴着の儀式をお済ませになられたので、今はこの二十余日に、その法要をお営みになられた。
しみじみと故人を偲び追善法要を終えられた。哀しみの思い出は尽きることなくお嘆きになる。
このような哀しみはともかく、梅壺女御(詮子・円融天皇女御。同じく兼家の娘。)の立后については、遅くともここ一、二年のことであろうと、気丈に思われていた。
やがて、永観元年 ( 983 ) となりました。
正月から様々な行事は例年通り行われ、平穏な日々に見受けられました。ただ、帝(円融天皇)は、ご自分のご意向とは違って、若宮(懐仁親王)が梅壺女御と共に東三条邸にいらっしゃることがご不満でございました。これも、兼家殿の意向を無視した遵子(頼忠の娘)立后以来、帝と兼家殿の不仲が形になって現れているのでございましょう。
帝は、今となっては何としても早く譲位したいとお考えになられるようでございます。さらに、御身に物の怪の発作が恐ろしくしばしば起こり、冷泉院はなお正気であられることはまれになり、嘆かわしいことを憂いながらお過ごしでございました。
永観二年になりますと、帝はいよいよ今年は譲位を実現すべく御心を固められていらっしゃるようです。
兼家殿がなかなか参内なさらないのも、帝はお気に召さないことでございましょう。梅壺女御の御もとでも若宮の立太子の御祈祷が熱心に行われていて、これに携わる方々には、然るべき位など存分な賜り物が与えられるとのことでございます。
( 上皇、諸王、親王、三后、東宮、公卿等に与えられた優遇措置で、所定の官職への申請・任命できる権利や、従五位下に叙す権利があった。いずれも申任・叙任料を取り、収入源の一つであった。)
折々の諸行事は滞りなく行われ、七月には相撲節会が行われるということで、「ぜひ、若宮にお見せしよう」と帝は仰せになられましたが、兼家殿は乗り気でないご様子で、そのままお過ごしになっていらっしゃる。
「大臣、参内なさるように」と、たびたび帝からお召しがありましたが、体調が優れないなどを理由に渋られているうちに、いよいよ相撲節会となり、内裏からの執拗なお召しに遂に兼家殿は参内なさいました。
帝は兼家殿と親しくお話しを交わされた後、御決意を伝えられました。
帝は、自分が皇位に就いてすでに十六年が過ぎたこと。今月は相撲節会で何かと落ち着かないので、来月にも譲位するつもりだということ。東宮(師貞親王。冷泉天皇皇子。母は、兼家の長兄伊尹の娘懐子。)が即位されると、若宮を東宮に据えたいと思っていること。若宮を誰よりも大切に思っている自分の心中を理解しないで、あれこれ画策するのは不本意であること。いくら候補者がいても、やはり我が子が可愛いのは当然のことである。まして、一人子の若宮をおろそかにすることなどない。
等々、ご心境を吐露されたそうでございます。
兼家殿は、帝の御決意を承って、恐懼退出なさいました。
梅壺女御(兼家の娘詮子)に帝の御決意を密かに伝えられて、暦をご覧になり、諸所に若宮の立太子に向けてのご祈祷の使者を出立させられました。
帝の御決意はまだ内密のことではありましたが、兼家殿の御家中の方々はそのことを察してのご様子は、喜びに満ちあふれておりました。
このご一家の君達(公達)は、すでに喜びを隠すことが出来ないご様子でございました。そして、我が殿道長さまも、この君達のお一人でございます。
かくて八月になったので、二十七日に御譲位とて大騒ぎになる。
その日になると、帝は退位なされた。代わって東宮が皇位にお就きになった。花山天皇の誕生である。
東宮には梅壺女房御腹の若宮がお立ちになった。いうまでもなく、めでたいことである。世の中は、こうあるべきであると見られ、思われもした。
退位された帝は、堀河院(もと兼通邸であったが、里内裏としても使われた。)にお住まいになられた。
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