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雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

二条の姫君  第九十五回

2015-07-24 09:16:36 | 二条の姫君  第三章
          第三章  ( 二十一 )

御所さまにとっても、法親王は特に親しい間柄でございますから、その御嘆きは一方ならぬものでございましたでしょう。
「それにしても、気持ちは如何か」などと、御手紙をくださいましたが、姫さまには、御所さまのお心づかいが返って心の負担になられたようでございました。

「『 面影も名残もさこそ残るらめ 雲隠れぬる有明の月 』
辛いことの多いのはこの世の習いとはいえ、そなたへの格別の愛情も、そなと別れることのお嘆きも深かったであろうと思うにつけ、名残惜しいことであった」
などとお書きになっている御所さまの御手紙の内容に、姫さまは何とご返事申し上げるべきか、途方に暮れておいででした。
結局姫さまは、
『 数ならぬ身の憂きことも面影も 一方(ヒトカタ)にやは有明の月 』
とだけ、ご返事されたようでございました。

姫さまは、お部屋に籠ることがさらに多くなり、何方ともお会いすることを避けられて、ただ涙に暮れる毎日をお過ごしでございました。
春の訪れが近付いても、ほとんど興味を示されることもなく、いつしか年の暮れを迎えることになりました。
御所さまからは、「なぜ、参らぬのか」という出仕を促す御使いが再三参りましたが、以前のように細々と書き連ね出仕を急がせるような御手紙は届きませんでした。

どういう理由からかこの頃から、特に何かを仰せになられたわけではありませんが、御所さまの愛情が変わって行っているように、姫さまは感じられていたようです。
法親王とのことは、決して姫さまが強く望んだことからではなく、御所さまの御意向もあってのことと姫さまの気持ちの中にはありましたが、度重なる逢瀬や出産となれば、御所さまの御心変りも道理とも思われて、姫さまから進んでご出仕される気持ちにはなれないご様子でした。
あと数日という年の瀬にも、「この年も、わたしの命も間もなく尽きるのでしょうか」などと洩らされることもあり、いよいよ悲しみは深くなっているのでしょう。

姫さまは、以前、法親王を有明の月殿と心に描いた頃に頂いたお手紙を裏返して、御供養のため法華経をお書きになっておられましたが、法親王が五部大乗経の書写を「今生の過ちを悔い来世の極楽往生を祈願する」とは仰せになっていなかったことの罪深さを思い、悲しみ心配されての御供養のようでございました。
そして、姫さまのお心が、ほんの少しばかりも晴れることなく、年が改まりました。

     * * *




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二条の姫君  第九十六回

2015-07-24 09:15:34 | 二条の姫君  第三章
          第三章  ( 二十二 )

新年となりましたが、晴れがましいことなどは何もなく、姫さまはなお御袖を濡らす日々が続いておりました。
正月の十五日には、故法親王の御四十九日に当たりますので、姫さまが特別にお願いしていた聖の所へ参られて、御供養に合わせて、故法親王が姫さまに残しておられた金を少し取り分けて、諷誦文(フジュモン・死者の追善のために施物を供え、僧に誦経を請う文)の御布施にされましたが、その包み紙に、
『 このたびは待つ暁のしるべせよ さても絶えぬる契りなりとも 』
との御歌を書いておられました。(待つ暁=弥勒菩薩が現れて衆生を救う時を指す)

姫さまがお願いされた僧は、説教の上手として評判の聖でございますから、諷誦文は格別に胸に迫るもので、姫さまは涙で袖を濡らし続けておりましたが、それに加えて、故法親王の生前の話が出てきましたので、もう耐えられないほどのご様子でした。

その後も姫さまは、特別に何かをされることもなく、お部屋にこもりがちで、二月十五日になりました。
姫さまが、釈迦如来が入滅された昔を忍ぶのは、今年に限ったことではありませんが、やはりいつもとは違う悲しさが姫さまを苦しめるのでした。
この頃は、例の聖の庵室で、法華講讚が彼岸から続いて二十七日間行われていますので、姫さまは、毎日諷誦文を手向けておいででしたが、誰のためという御名前を明らかにするわけにはまいりませんので、「忘れ得ぬ契りある人」とだけお書きになっていることも、実に寂しいことだと思われます。

ただ、講讚も結願となる最後の日には、いつもの諷誦文の最後に次のような御歌を添えられました。
『 月を待つ暁までの遥かさに 今入りし日の影ぞ悲しき 』

東山の住いの方へも、御所さまからの御使いは途絶えていて、やはり自分のことを見捨てられたのだと姫さまは感じられているようで、明日は都の方へ帰ろうかなどと洩らされるようになりました。
すべてが物悲しい有様で、四座の講式(仏教儀式)が次々に行われて、聖たちも夜もすがら寝ることなく明かす夜なので、姫さまも聴聞所で袖を片敷いてうとうとされていました暁時、故法親王が生前と変わらぬ面影で、「憂き世でのそなたとの夢のような契りが業となって、今は、長い闇路をさまよっているよ」と言って、姫さまに抱きついて来られる夢を見られたそうでございます。

このあと姫さまは、ご気分が悪いと言いだされ、少し朦朧とされているような按配でございました。
聖の方からは「今日は、ここで治療を行って様子を見られては如何」と仰ってくださいましたが、車の手配をしていたこともあり、姫さまのご希望も強く予定通り都へ帰ることになりました。
その途中、清水橋の先の西の橋のあたりまで来ました時、姫さまはさらにご気分が悪くなられたようで、気を失ってしまわれました。

傍に付いていた者たちで姫さまを助け起こし、抱きしめるようにして姫さまを励まし、何とか乳母の家に辿り着くことが出来ましたが、お部屋に入った後も水さえも受け付けることが出来ない状態でございました。
後で姫さまの申されますのには、清水の橋を過ぎた辺りで、故法親王が夢に見たままの御姿で車に乗り込んできたので、驚いて気を失ってしまったそうです。

このあと姫さまの体調は、はかばかしくない状態が続きましたが、三月の半ばになって、どうやら懐妊されているご様子が明らかになって参りました。
姫さまには、法親王と最後に別れた暁以来、何らやましいことはなく、目を見交わした男の人さえいないと言うのですから、疑いようもなく法親王との契りゆえとなります。
とても悲しい出来事に包まれた中での契りでしたでしょうに、ご懐妊が明らかになった後は、姫さまの体調は目に見えて快方に向かい、ご自分でも不思議だと申されるほど、生まれてくる子を待ち焦がれるご様子が見えるようになっていったのでございます。

     * * *


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二条の姫君  第九十七回

2015-07-24 09:14:40 | 二条の姫君  第三章
          第三章  ( 二十三 )

四月の中旬頃のことでした。
「格別のことがあるから」と、姫さまに御所さまからのお召がございました。
姫さまは、ご懐妊ということを自覚された後のことであり、とても御所に参られるお気持ちになることができず、水も飲めない状態になっていることをご返事申し上げますと、その御返事に、
「『 面影をさのみもいかが恋ひわたる 憂き世を出でし有明の月 』
一方ならぬ悲しみに、袖の乾く暇もないらしいと思うと、古い恋人となってしまったこの身は、どうすることも出来ない」
などとありました。

最初姫さまは、いつまでも亡き法親王を想い悲しんでいる自分を、御所さまが不愉快に思われていると思っておられたのですが、実はそうではなかったのです。
「亀山院が、まだ帝の位にあられました頃、姫さまの乳母の子である藤原仲頼は六位の蔵人として亀山帝に仕えていましたが、譲位された時に叙爵して、大夫の将監として引き続き亀山院にお仕えしていますが、その者が手引きして、亀山院が二条に夜昼なく御寵愛なので、二条も御所さまとの関係が疎遠になって行くのも当然と思っている」
といった噂が、流されていたようなのです。
もちろん姫さまは、そのような噂があることなど露ほどもご存じありませんでした。

このような噂が御所さまのお耳に入っているとすれば、その出所は推定できないわけではありませんが、それはともかく、そのような事実とは異なる噂がもとだとすればお気持ちも楽になられたようで、いよいよ憚られるうなお体になってからよりは、むしろ今のうちにと思われたのでしょうか、進んでご出仕なさいました。
それは五月の初めの頃でしたが、どういうわけか、御所さまからは特別な御声掛けもなく、まだこだわりが残っているように感じられました。

とはいえ、特に変わったことがあるとか、姫さまに辛く当たられるようなこともなく、表面的には以前の通りでしたが、姫さまのお心は晴れることはなく、気重な状態でお仕えしておられましたが、六月になってからのことですが、親類にあたる人の不幸があり、その服喪を理由にして退出されました。
その時も、御所さまからは特別なお話もなく、侘しい気持ちを抱いての宿下がりでございました。

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二条の姫君  第九十八回

2015-07-24 09:13:45 | 二条の姫君  第三章
          第三章  ( 二十四 )

この度のご出産は、何としても隠しておきたいことですから、姫さまは、東山あたりの縁ある人の所にお籠りになられました。
特に尋ねてくる人を心配する必要もなく、以前とはすっかり身の上が変わってしまわれたような一抹の寂しさはございますが、姫さまには心穏やかな日々であったと思われます。

そして、八月二十日の頃、ご出産の気配がありました。
これまでのご出産に際しましては、隠しておられましても、お見舞いして下さる方々がありましたが、今回は、「峰の鹿の鳴く声だけを友としての明け暮れだ」と姫さまが寂しく呟かれるような侘しい環境でございましたが、むしろそのことも幸いしてか、無事にご出産なさいました。
お生れなさいましたのは男の子で、姫さまはお疲れの体でただただ感動ひとしおのご様子でございました。

「鴛鴦(オシ・おしどり)という鳥になる夢を見た」と聞かされたことの真意は分からないままに、御子を始めて見た時姫さまは、そのことが思い出されたそうでございます。
姫さま御自身は、二歳の時に御母上と死に別れ、その面影さえも知らないことを悲しんで来られましたが、生まれて参りましたこの御子は、御父上とはお腹の中で先立たれていることを、どのように思うのだろうかと不憫に思われ、姫さまはお手元から離そうとなさいませんでした。

「ちょうどうまい具合に乳を与えてくれる女房がいない」
ということになり、あちらこちらと手を尽くしましたが、その間は姫さまのお側に御子を寝かせておりましたが、いつになくぐずつく御子を姫さまが抱こうとなさいますと、下がおしっこですっかり濡れてしまっていて、姫さまは大急ぎで抱き寄せて、ご自分の寝ておられる所に移されました。
「わたしもこのようにして、御母上さまに慈しまれたのだ」と、しみじみと感じられたそうでございます。

それからは、少しの間とて手放すのを惜しまれるご様子でしたが、四十日余りたった頃、山崎という所から適当な人を呼び寄せることが出来ましたが、その後も御子を横に並べて寝かせておりましたので、いよいよ姫さまは、宮仕えが億劫になってきておられました。
しかし、その頃には居場所が御所までにも伝わっていて、もう冬になるというのに、「なぜいつまでも出仕しないのか」と強くお召しがあり、十月の初め頃、御所に参上いたしました。
そして、やがてこの年も過ぎて行きました。

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二条の姫君  第九十九回

2015-07-24 09:12:40 | 二条の姫君  第三章
          第三章  ( 二十五 )

年が改まり、姫さまも二十六歳の新年をお迎えになりました。
姫さまは、正月の三日に最初の伺候をなさいましたが、今年は悲しいことばかりが数知れないほどございます。

特に御所さまとの関係は以前のようには戻らず、「何々が悪い」などと仰ることはないのですが、何とはなく御所さまの御心に隔たりを姫さまは感じておりました。
当然のこととして、御所のお勤めは味気なく、世の中の様々なことさえ面白くなくなり、姫さまの心細いお気持ちを励ましてくれるのは、今となっては昔のことと言ってよい人である雪の曙殿だけでございました。

二月には、後嵯峨院の彼岸の法要がございました。後深草院・亀山院の両院の御主催で嵯峨殿の御所で行われましたが、去年の同じ頃に幻に見た法親王の面影が思い浮かんできているご様子に感じられました。
こちらの嵯峨清涼寺の釈尊は生身(ショウジン)と伝えられていて、天竺(印度)・震旦(シンタン・中国)を経て伝えられてきた釈迦如来ということですから、唯我一人の誓願は必ず果たされるという御仏でございますが、おそらく姫さまは、故後嵯峨院の追善ではなく、きっと今も闇路を迷っておいでと思われる故法親王に浄土への道しるべをお示しくださるよう祈っていたのでございましょう。
『 恋ひしのぶ袖の涙や大井川 逢ふ瀬ありせば身をば捨てまし 』
これは、この時の御心境を詠まれた姫さまの御歌でございます。

この頃の姫さまは、何もかもがうとましく感じられるご様子で、本当に大井川の底の水屑になってしまおうかと思われることもあったようなのです。
そのようなことを紛らすためなのでしょうか、古いお手紙などを整理されておられましたが、それらからくる思い出から、まだ幼い双葉ともいえる御子を自分が見捨ててしまえば、誰が愛情を懸けるかと強く思い詰められるようになられました。
そして、自分が世を捨て切ることが出来ない妨げは、これなのだと思い当たられ、御子の面影が恋しく迫ってくるようになっていったのでございます。
『 尋ぬべき人もなぎさに生ひ初めし 松はいかなる契りなるらむ 』

姫さまの思いはしだいに強まり、両院が還御なされた後、僅かな時間を見つけて退出なさいました。そしてしばらくぶりにお会いになられた御子は、たいそう成長していて、おしゃべりをしたり、微笑んだり笑ったりするのを見るにつけ、嬉しさとともにむしろ哀れに思うことの方が多く、苦しげなご様子で逃げるようにして御所にお戻りになられたのです。

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二条の姫君  第百回

2015-07-24 09:11:43 | 二条の姫君  第三章
          第三章  ( 二十六 )

秋の初めの頃でございました。突然祖父にあたる四条兵部卿隆親殿からお手紙が届きました。
「局などを、一時的ということではなく取り片付けて退出せよ。夜になったら、迎えを遣わすから」
という内容だったのです。

姫さまには何の心当たりもなく、あまりに突然なことですので、御所へその手紙を持って参上し、
「兵部卿がこのように申してきております。いったい何事でございましょう」
と、申し上げましたが、何の御返事もございませんでした。
全く事情がつかめないものですから、三位殿、後の玄輝門院となられた御方でございますが、この御方のもとに参り、
「いったいどういうことがございましたのでしょうか。このような指図がございましたのを御所でお伺いいたしましたが、御返事がないのです」
とお尋ねいたしましたが、
「わたしも知らない」
ということでした。

姫さまには納得いかない兵部卿のお指図ではありましたが、「退出いたしません」ということも出来ませんので、退出の準備に取り掛かりました。
姫さまにとりましては、何と申しましても、四歳の九月の頃からお仕えし始めて以来、時々の里住みの間でも気がかりに感じられていた御所の内も、今日が限りなのかと思われているご様子が、ひしひしと伝わってきておりました。
日頃はさして気にもかけていなかった御庭の草木なども、今さらのように姫さまに語りかけてくるようで、気丈に振る舞ってきておられた姫さまも、思わず御袖を目に当てておられました。

ちょうどその折、姫さまが自分は恨まれていると思い込んでいる雪の曙(西園寺実兼大納言)殿の、
「二条殿は局に下がっておられるのか」
という声が聞こえて参りした。
その声に、姫さまの張りつめていた気持ちが一度に崩れてしまわれたのでしょうか、込み上げてくる嗚咽を押さえきることが出来なくなっておられました。
一目見てただならぬ気配を感じられた雪の曙殿は、
「いったいどうしたのです」
とお尋ねになりましたが、姫さまは胸が詰まりお答えすることもできず、兵部卿からのお手紙を差し出して、
「これが心細くて」
とだけお答えになられました。

雪の曙殿は、兵部卿の手紙を一読し、さらにもう一度読み直されて、
「いったい、どうしたというのだろうか」
と、わけがわからぬご様子で、お付きの方々も何も存じられていない様子でした。

年配の女房方も、姫さまのご様子を心配されて、お見舞いや慰めにお見えになられましたが、どなたも事情は分からないとのことでした。
姫さまは、ただ悲しみに沈んでおられましたが、日も暮れて行くので、「退出せよ」というのには御所さまの御意向があってのことと思われるので、改めて出仕することも畏れ多いことでもあり、今後再びお目にかかることもないかもしれないと思われ、せめて最後に一目だけでもお会いしたいと心を決められました。
それでもなお、心迷いされながら御前に参上されますと、御前には公卿二、三人ばかりだけで、何というほどのこともないお話をされているところでございました。

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二条の姫君  第百一回

2015-07-24 08:40:12 | 二条の姫君  第三章
          第三章  ( 二十七 )

この時の姫さまの御装束は、練り糸の薄物の生絹(スズシ)の衣に、薄(ススキ)に葛(ツヅラ)を青い糸で刺繍したものに、赤色の唐衣という御姿でありました。
御所さまは姫さまの方に視線を向けられますと、
「今宵は、何とご退出になるのか」
と御言葉を掛けられました。

姫さまどのようにお答えすべきが迷われているご様子で、そのまま伺候されておられますと、
「青葛を手繰りながら訪ねてくる山人ではないが、何かのついでに便りをしようというのか。その青葛は嬉しくないなあ」
とだけ口ずさむように仰られると、女院(正室の東二条院)のもとへ参られるのでしょうか、そのままお立ちになられました。
姫さまは、その後ろ姿をじっとお見送りになられましたが、その心中は察するに余りあるものでございました。

たとえどのようなことになろうとも、「そなたに対して隔意を抱くことはない」と、長い年月に渡って何度もお約束して下さったことを思えば、どうしてこのようなことになってしまったのかと、姫さまは今すぐにも死んでしまいたいほどの思いに襲われていましたが、出立の車が待っていると急がせるお付きの人の声に少しばかり冷静さを取り戻されたご様子でした。
姫さまは、なお何れかに身を隠してしまいたいなどと申されたりしておられましたが、このような事態となった事情を知るためにも、とりあえずは二条町の兵部卿の邸に向かうことを承知なさいました。

お邸に着きますと、早速兵部卿自らが姫さまにお会いなさいました。
「私自身が、いつ死ぬか分からない老いの病だと思う。この頃になってからは、特に病気がちで心細くもあるので、そなたのことが気にかかってならないのだ。
故大納言(二条の父)もいないので、そなたがとても気の毒で、善勝寺隆顕のような若い者にまで先立たれ、それでなくともそなたの身を気遣う者がいなくなっているというのに、東二条院がこのように仰られるからは、無理に御所さまにお仕えしているのも憚りがあると思うのだ」
と言われて、一通の手紙を取り出されました。

それには、
「二条は院の御方に御奉公して、この身をないがしろに振る舞うのが面白くない。直ちにそなたの所に呼び戻しなさい。典侍大(スケダイ・二条の母)もいないから、そなたの他には指図すべき人がいないから言うのです」
などと書かれていて、しかも東二条院自らがお書きになったお手紙でした。

「たしかに、この上は無理を押してお仕えすべきでない」
と、姫さまも思われたようで、退出した直後は、事の事情がはっきりして、気持ちの整理がついたようなお言葉も漏らされておりました。
しかし、古詩にも詠われているように、まことに長き秋の夜にふと目を覚まされた時などには、千声万声の砧の音も独り寝の姫さまに話しかけているかのように哀れに聞こえ、空を渡って行く雁の涙も、思い悩まれる姫さまの宿の萩の上葉を尋ねてきて露になってしまったのだろうかなどと、心細げなご様子が見え隠れするようになりました。

そのような日を送られているうちに、はや年の瀬となりましたが、旧き年を送り新しき年を迎える様々な準備も、姫さまには何の張合いもないように見受けられておりましたが、かねてからの宿願である祇園の社に千日籠るべきなのを果たそうとお考えになられたのです。
これまでもいろいろとお考えのようでしたが、何かとさし障ることも多かったのですが、十一月の二日、初めての卯の日で石清水八幡宮の御神楽が催される時にまず参籠されました。
その時には、「神に心をかけぬ間ぞなき」と詠んだ人のことを思われながら、このような御歌を詠まれました。
『 いつもただ神に頼みをゆふだすき かくるかひなき身をぞ恨むる 』

     * * *

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二条の姫君  第百二回

2015-07-24 08:38:59 | 二条の姫君  第三章
          第三章  ( 二十八 )

石清水八幡宮での七日間の参籠(サンロウ)を終えますと、姫さまはそのまま祇園の社に参られました。
「今となっては、この世に残る思いもないので、三界の家を出でて解脱の門にお入れください」
と、姫さまが願われたお気持ちは本心からでございましたが、今年は故法親王の三年忌にあたっているので、東山の聖のもとで、七日法華講讚を五種の行(ギョウ)にて行っていただきました。
姫さま御自身も、昼はその聴聞に入り、夜は祇園に参りなどして、結願の日は法親王が露と消えられた日でございますから、打ち添えられる鐘の音に格別の思いに迫られ涙されておられました。
『 折々の鐘の響きに音を添えて 何と憂き世になほ残るらむ 』
この御歌は、この時の姫さまの正直なお気持ちだったのではないでしょうか。

この前生まれました御子は、世間の目を恐れて隠し育てていることも憚られますが、鬱々としたお気持ちの安らぎを求められて、姫さまはお会いに参られたりしておりました。
御子はすくすくとお育ちになっていて、走りまわったり、片言を言ったりして、何の憂さもつらさもないように見受けられるのが、姫さまには、かえって辛い思いにさせられるご様子でございしました。

そして、この年の秋には兵部卿までが露と消えられてしまったのでございます。(原作者の思い違いか故意か分からないが、死去の年は史実とは違う)
姫さまに辛く当たられることが多かった兵部卿四条隆親殿は、そうは申しましても今は姫さまに最も身近な血縁の御方でございましたから、その悲しみが小さいはずなどございません。
ただ、姫さまは、御所を退去なされるなど姫さま御自身の悲しみに追われ、大切な御方をお見送りしてしまうことの重大さを、今一つ感じられていないご様子にも見えました。

少し時間が過ぎ、様々な煩わしいことが少し落ち着き、春の長い日をひたすら勤行に没頭されている時などには、亡き母の縁に繋がる人としてはただ一人兵部卿が生きながらえていたのに、今さらのように哀れに思いだされると姫さまが漏らされたことがございました。
姫さまがようやく平常心を取り戻してきたのだと嬉しく思いますとともに、大切な後見者を失った姫さまのお気持ちを思いますと、その切なさが痛いほどに伝わって参るのです。

あちらこちらの神社の桜が、ようやく盛りを迎える頃ともなりますと、
「牛頭天王(ゴズテンオウ・インド祇園精舎の守護神)の御歌として
『 神垣に千本(チモト)の桜花咲かば 植ゑ置く人の身も栄えなむ 』
という示現(ジゲン・神のお告げ)があった」
ということで、文永の頃(十数年前を指す)、祇園社にたくさんの桜の木を植えることがあったなどと、姫さまがお付きの人たちにお話されました。

姫さまは、まことに神の託宣されたことなので、わたしもその御恩をこうむるべき身なので、枝や根だといって区別があるはずがないのでと思い立たれました。
檀那院の公誉僧正が阿弥陀院の別当でいらっしゃったので、そこにおられる親源法印は姫さまとご縁戚で音信を交わされておられましたので、その御堂の桜の枝を一枝請うて、二月の初午の日に、執行権の法印に紅梅色の単衣文・薄衣を御布施として、祝詞(ノリト)を唱えていただき東の経所の前に捧げられましたが、その時、縹色の薄様の短冊に次の様な御歌を詠まれ、桜の枝に付けられました。
『 根なくとも色には出でよ桜花 契る心は神ぞ知るらむ 』

この枝が根付いて花が咲くのを見るのは、神の御恩を願う心がいつまでも虚しくないだろうとお考えになられたことでございました。
その後も姫さまは、千部経を初めてお読みになるなどされておりましたが、いつも自室に籠ってのことでは何かと憚られることもあり、祇園の社に近い宝塔院の後ろに二つある庵の東の方をお選びになって、この年は此処で年の瀬をお迎えになられました。

     * * *




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二条の姫君  第百三回

2015-07-24 08:37:56 | 二条の姫君  第三章
          第三章  ( 二十九 )

次の年の正月末に、姫さまに大宮院(後深草院・亀山院の生母)から御手紙が届きました。
「北山の准后様の九十の御賀を、この春行おうと思い準備を急いでいる。そなたの里住みも長くなってしまったが、何の不都合なことがあろうか。打出での人数(ウチイデノヒトカズ・女房が衣の裾や袖口を御簾の下から出して美しく見せるが、その要員のこと)に加えようと考えている。准后の御方に伺候しなさい」
との御申し付けでありました。

しかし、姫さまは、
「当然伺候させていただくべきでございますが、御所さまがご不快なご様子なので里住みをいたしておりますのに、今さら厚かましく、打出で衣に加わることが出来ましょうか」
とご返事なさいましたが、
「万事差し障りなどありますまい。准后様の御事は、特に幼い時から故大納言典侍(ダイナゴンノスケ・二条の生母)といい、そなたといい、わが子同然だったのだから、このような一世一代の御祝賀にそなたがお世話申し上げるのに、何の不都合なことなどありますか」
などと、女院自らがいろいろと仰ってくださいましたので、ようやく姫さまも参上されるようご返事申し上げられました。

祇園の社への参籠の日数は四百日を超えているので、帰ってくるまでの間は代人を籠らせておくことになりました。
西園寺実兼大納言殿が、大宮院の御指図を受けて車などの手配をして下さいました。
このところはすっかり山賤(ヤマガツ)となってしまって、などと姫さまはお笑いになり、久々の晴々しい装いに戸惑われておられましたが、紅梅色の三つ衣に桜萌黄色の薄衣を重ねられたお姿は、変わらぬ艶やかさでございました。

北山邸に参上なさいますと、やはり思っていた通りの絢爛の晴れの御席でございました。
御所さま、亀山院、東二条院、それにまだ姫宮であられた遊義門院(後深草院と東二条院の娘)方は、すでにおいでになっているようでした。
新陽明門院(亀山院女御)は、忍びやかに御幸されました。
御賀は二月の末に行われるということで、二十九日に後宇多天皇の行幸、春宮煕仁親王の行啓がございました。

まず、行幸は、丑三つ(午前二時頃)の頃でございました。門の前に御輿を据えて、神司が幣(ヌサ)を差し上げ、雅楽司(ウタノツカサ)は雅楽を演奏されます。
大宮院に仕える左衛門督西園寺公衡(西園寺実兼の子)殿が参って、帝の御到着を申し上げた後、御輿を中門に寄せました。三位中将二条兼基殿が、中門の内から剣璽の役(ケンジノヤク・三種の神器のうちの宝剣と神璽を捧持する役)を勤められました。
そして、春宮(トウグウ)の行啓となりました。まず、門の下まで筵道(エンドウ・裾が汚れないように敷かれる貴人用のむしろ)が敷かれました。臨時に設けられる御所には、奉行四条顕家殿、関白鷹司兼平殿、左大将鷹司兼忠殿、三位中将二条兼基殿らが参られました。
春宮傅である左大臣二条師忠が御車に同車されました。

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二条の姫君  第百四回

2015-07-24 08:36:45 | 二条の姫君  第三章
          第三章  ( 三十 )

御賀の当日の二月三十日になりますと、御所の設備は、南面の母屋三間を中央にして、北側の御簾に沿って仏台を立てて、釈迦如来の像一幅が掛けられています。その前に、香華を供える机が置かれています。
左右に灯台が立てられていて、その前に導師が説教をなされる高座が置かれ、その南に導師が礼拝なされる礼盤(ライバン)が見えます。
同じ間の南の簀子(スノコ)に机が置かれ、その上に御経箱が二つ置かれ、寿命経・法華経が入れられております。
御願文の起草は、式部大輔藤原茂範殿、清書は関白殿ということでございました。

母屋の柱ごとに、幡(ハタ・法会の時などに本堂に飾る荘厳具)・華鬘(ケマン・仏堂内陣などに掛ける荘厳具)が掛けられています。
母屋の西の一間に、御簾の中に繧繝(ウンゲン・畳の縁の種類)の畳二畳の上に唐錦の茵(シトネ・綿入りの敷物)を敷いて、帝の御座となっています。
同じ御座の北に、大紋の畳二畳を敷いて一院(後深草院)の御座、二の間に同じ畳を敷いて新院(亀山院)の御座、その東の間に屏風を立てて大宮院の御座、南面の御簾に几帳の帷子(カタビラ)を出して、一院の女房方が伺候されている姿が見えますが、姫さまの感慨はいかがなものだったのでしょうか。

同じ西の廂に屏風を立てて、繧繝の畳二畳を敷いて、その上に東京(トウギョウ・トンキン、現在のベトナムの北部)の錦の茵が敷かれていて、ここが准后の御座でございます。
この准后と申される御方は、西園寺の太政大臣実氏公の後室で、大宮院と東二条院の御母、後深草院と亀山院の御祖母、天皇と春宮の御曾祖母であられますから、世の人々こぞってお祝い申し上げられますのももっとものことでございます。
俗姓は、鷲尾大納言隆房殿の孫にあたり、隆衡卿(父は隆房、母は平清盛の娘。四条と号し、二条の曽祖父にあたる)の御息女でありますから、姫さまの母方として切っても切れない御親類であり、姫さまの御母上は幼い頃からこちらで育ち、姫さま御自身も何かとお世話いただいた御方なのでございます。

そのようなご関係から、身を隠しておられました姫さまがこのような晴れの席に迎えられたのでございますが、「普段着でよろしいですか」というお尋ねに対して大宮院は、「紫の匂いの衣装で、准后の女房として伺候されるのがよいであろう」との御指示だったのですが、やはり、それはどうだろうということになり、「大宮院の女房として伺候すべきだ」ということに変更になりました。
大宮院の女房方は、紅梅色の匂いのまさった単衣に、紅の打衣、赤色の唐衣で出仕されておりましたが、姫さまは、西園寺実兼大納言殿のお世話で、上紅梅の梅襲八つ、濃い単衣、裏山吹の上着、青色の唐衣、紅の袿、彩物(ダミモノ・彩色画)を配した物など、格別念入りに仕立てられた物をいただいて伺候されていましたので、まさか大宮院の女房方と一緒に伺候するなど考えていなかったことで、姫さまは内心ご不満だったようです。

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