雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

一日二本のタバコ ・ 小さな小さな物語 ( 1509 )

2022-07-25 14:36:24 | 小さな小さな物語 第二十六部

『 毎朝、まだ誰も目覚めていないうちに起き出して、新聞を取りがてら、庭先でタバコを一本いただく。真夏であれば、すでに日の出の時間を過ぎてしまうこともあるが、今の季節だと、まだ夜明けには時間があり、月がない時はまだ真っ暗。前の道路は地方道としては車の量も少なくないが、この時間はまだまばらで、タバコの火の灯りが嫌に目立つ。しかし、一日の始まりにあたって、この一服は止められない。
夕方、といっても、すでに日が暮れた後、やはり朝と同じように庭に出て、街灯の灯りが嫌に目立つ頃、今日二本目のタバコをいただく。何事もなく一日を終えた時はじっくりと味わい、何か問題を抱えた時は、いささかの苦みを噛みしめながら・・・ 』

一日に、朝夕二本のタバコを楽しんでいる人の話を聞く機会がありました。直接ではなく、ある人から聞いた話です。
その人は、もともとヘビースモーカーだったそうですが、病気をした時に医者から禁煙を勧められたそうですが、とても実行は出来ず、一日一箱以内ということにして、十年ばかりを過ごしていたようです。
ところが、数年前に長年勤めていた会社から転職し、それを機会に新たな住居を購入し、娘さん夫婦と同居することになったそうです。すると、特に娘さんの強い希望もあって、家の中でタバコは吸わないようにして欲しい、ということになったそうです。
その頃今一つ体調が良くなく、医者からの強い勧めもあり、また、幼い孫が同居することもあって、その人は禁煙を試みたそうですが、なかなか実現できず、辿り着いた結論が、喫煙は一日二本、それも家の外で吸う、というところに落ち着いて、数年が過ぎたそうです。

「酒は止めることはできるが、タバコはなかなか止められない」ということを聞いたことがあります。
病気の種類にもよるのでしょうが、男性の場合、入院するような病気をした場合、酒とタバコを止めなさい、と医師から指導されることが多いようです。その場合、多くの人は、酒を止める方が楽だという人が多いそうです。もっとも、その片方であれ両方であれ、止めた人の多くは、健康を回復するに従って、元に戻っていく人が圧倒的に多いようです。
人間の意思は、なかなか思うに任せられないようです。
もっとも、タバコなどは健康に様々な悪影響があることは、科学的に証明されていることで、喫煙人口はずいぶん減少しています。その一方で、メンタル的な意味で、タバコが少なからぬ働きをするのだと主張する人がいますし、実際そうした面もあるのでしょう。
少々命を削っても、手放せないものはあるのかも知れません。

考えてみますと、私たちは、他人が見ると首を傾げるようなものに拘っている面があるような気がします。それが無くなれば、生活基盤が揺らぐというほどのものであれば、拘るどころか死守しなければならないわけですが、そんなもの無くなって何が困るのか、と他人どころか、家族からさえ言われるようなものであっても、ある人にとっては、生活のバランスを保つ上でどうしても必要なものがあるようです。
最初に紹介させていただいた人の場合、私などは、一日に二本程度のタバコなら、いつでも止められるのではないかと思ってしまうのですが、実は、その人にとっては大きな意味を持っているのでしょう。
健康面を考え、家族からの申し出を受け、幼い孫への影響を考え・・・、それでもどうしても手放すことが出来ないタバコを、一日二本、それも戸外に出ての一服という、何とも切ない形で守り抜いたのではないでしょうか。
長く生きていくということは、切ないものを背負っていく覚悟も必要だということなのかもしれません。

( 2022.02.10 )



 

 

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灰色のルールブック ・ 小さな小さな物語 ( 1510 )

2022-07-25 14:35:02 | 小さな小さな物語 第二十六部

目下、北京では、冬期オリンピックの熱戦が繰り広げられています。
日程もほぼ半分が過ぎ、いくつかのドラマが生まれ、感動の場面も数多く見せてもらっています。わが国の選手団も、悲喜こもごもではあるとしても、全体としては期待値に近い成績を上げてくれているようです。

その一方で、残念ながら、不愉快な出来事も浮上してきています。
中でも、このコラムを書いている時点ではまだ結論が出ていませんが、十五歳の選手がドーピング問題に巻き込まれているという報道は、この大会だけに止まらず、オリンピック全体の闇の部分に感じられ、もっとオーバーに言えば、プロスポーツ(プロ的なものも含め)全体にどす黒い物が存在しているかに思ってしまいます。
正直なところ、私には、このドーピング問題の正当性・公平性について、よく分かっておりません。健康被害がある薬物の使用を禁止することが必要なことは分かりますが、その種類の選定、代替え薬品の存在の有無等々、かなりの化学水準が求められるでしょうから、とても公平な運用など存在しないような気がします。
今回の問題だけを考えてみましても、ふつうに考えて、十五歳の選手が、自らの意思と力で、ドーピングに関わるような事を成せるとはとても考えられないのです。黒か白かはともかく、疑われるような状態が発生した責任は、十五歳の選手には全くなく、その周囲なりが責任を問われるべきだと思うのです。問題が表面化した時期といい、とても不愉快な事件に思われます。

また、判定などをめぐっても、不明瞭なものが表面化しています。採点競技に完全な公平性を求めるのは無理ですが、スキージャンプ競技のスーツ規定違反などは、果たして正確なルールが明文化されているのか疑問を感じてしまいます。この判定に不満なのがわが国だけではなかったのですから、明らかに公正な競技であったかどうかの疑問は残ることでしょう。
他にも、判定をめぐっての不満が伝えられている競技も幾つかあります。
どうやら、オリンピックの競技に関しては、ルールがすべての国に正しく理解されているのか、そして、そのルールを正しく理解している審判または判定員がそろっているのか、疑問を感じてしまいます。特に、審判や判定員に関しては、国別の公平に配慮する必要があるでしょうから、かなり、レベルの低い人材も入ってしまうような気がします。
それも含めてがオリンピックだということになれば、それはそれでいいのでしょうが。

かつて、わが国のプロ野球には、「私がルールブックだ」と豪語した審判員が居りました。
少々間違った判定があるとしても、すべての選手、すべてのチームに同じ基準で運用するのであれば、それはそれで公平だということになるのでしょう。
私たちは、スポーツ競技の観戦は、比較的冷静に客観的な目で見ることが出来ますから、正確かどうかはともかく、自分の意見を主張することができます。
ところが、私たちの日常にも、数限りないルールが存在しているのですが、私たちは日頃あまり意識をしていません。しかし、いざ事が起こってしまいますと、様々なルールブックが覆い被さってきます。それらのルールブックは、幸いにもわが国においては明文化されていますが、すべてを理解しているわけでもなく、運用のあり方も相当ばらつきがあるようですし、恣意的に運用されることも珍しいことではないようです。
つまり、私たちの日常を包み込んでいる様々なルールは、「灰色のルールブック」に基づいているのだと覚悟しておくべきなのかもしれません。ただ、願わくば、その「灰色のルールブック」の中味の所々が、黒線で塗りつぶされていないことを祈りたいと思うのです。

( 2022.02.13 )

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「パシュート」的な考え方 ・ 小さな小さな物語 ( 1511 )

2022-07-25 13:27:42 | 小さな小さな物語 第二十六部

北京オリンピックは、各種目で熱戦が展開されています。
今日(2月15日)は、スケートの女子パシュートに注目していました。世界一美しいと評される見事な隊列を組んでのスケーティングは、正面から見ると三人が見事に合わさって、一人が滑っているように見えるというのは、決してオーバーな表現ではないようです。
前回オリンピックの金メダルの再現が期待されていましたが、期待通りに準決勝は快勝、決勝戦でもあと一周までは僅差で首位を保っていましたが、最終コーナーで転倒があり、残念ながら銀メダルに終りました。
どのような競技においても、アクシデントはつきもので、それを責めることなど出来るものでもなく、「惜しくも銀」という言葉こそとんでもないことで、見事な銀メダルに大きな拍手を送りたいと思います。 

ところで、この競技には、なかなか複雑な戦略や戦術が展開されています。
もちろん、どのようなスポーツでも同様ですし、大勢の選手が入り混じるアメリカンフットボールの一流チームなどは、軍事作戦並だという話を聞いたことがあります。
パシュートという競技は、オリンピックに登場したのが 2006 年のトリノ大会だそうですから、比較的新しい競技です。 
この競技は、三人の選手がチームとなって、1周400mのリンクを女子は6周の2400m、男子は8周の3200mの距離を争います。二チームでの対抗で、勝敗は三人の内の最後の選手がゴールした時点のタイムで競います。
極端なことを言いますと、ずば抜けて早い三人がチームを組めば、がむしゃらに滑るだけで勝つということかもしれませんが、例えば、1500mの個人レースの上位選手のタイム差はごく僅かです。それに、あのスピードで進む時に受ける風圧は大変なものだそうです。
マラソンなどでも見られるように、前の選手を風よけに使うと疲労度は全く違うようです。スケートはあのスピードですから、空気圧の影響はマラソンの比ではないでしょう。
当然、先頭選手が苦しいわけですから、三人の選手の力を勘案しながら、並び順を適宜変更するわけですが、日本の女子チームは、その交代の仕方、並んで滑る一体性に優れていて、世界で一番美しいスケーティングと言われるゆえんです。

ところが、この戦術に疑問を抱いたのがアメリカの男子チームで、並び順を一度も変更せず、先頭選手が疲れてくると、後ろから押してやるという「プッシュ作戦」を編み出しました。国際大会では、二年前に初めて登場したそうですが、この大会の男子チームでは、準決勝に残った四チームの内、三チームがこの「プッシュ作戦」を行っていました。元祖のアメリカチームは見事三位に入りました。

日本女子チームは、見事な隊列と交代ですばらしいチームを作り上げました。アメリカ男子チームは、個々の得意の場所に固定させて、プッシュという方法で弱点を補おうとしています。
この異なる二つの戦術は、今後どのような展開を見せるのか興味深く感じています。
そして、私たちの日常においても、日本女子チームのような戦術とアメリカ男子チームのような戦術との選択、あるいは、隊列の順や交代時期なども、さまざまな場面で参考になるような気がしました。
もちろん、そうしたことは、多くの組織や現場において実施されていることですが、「『パシュート』的な考え方」という観点に立てば、少し違う物が見えてくるかもしれません。

( 2022.02.16 )

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虚々実々 ・ 小さな小さな物語 ( 1512 )

2022-07-25 13:26:26 | 小さな小さな物語 第二十六部

何かと話題が尽きない北京五輪ですが、残り少なくなりました。
わが国の選手団は、一人一人の成績はともかく、全体として期待に十分な成績を挙げてくれているのではないでしょうか。
それぞれの競技には、それぞれの作戦があり、それぞれの戦略・戦術が繰り広げられているのでしょうが、わが国の選手がメダルを獲得した競技や国民の関心が高い競技については、テレビ各局が微に入り細をうがって、ルールばかりでなく、競技経験者などの解説、さらには選手の心理状況や生い立ちに至るまで、競い合うように伝えています。テレビを見ているだけの私などでも、何だか競技の専門家のような気がすることがあります。

個人的に好きな競技の一つであるカーリングにしても、最初の一投目から、その回のゲーム戦略に則って投じられているわけですから、次々と投じられるストーンには、まさに虚々実々の戦術が込められているわけです。
スポーツにおける虚々実々の戦いは、競技当事者ばかりでなく、見ている者の心にも感動を伝えてくれますが、同じオリンピックの場であっても、これが競技の場以外で繰り広げられているのは、何とも悲しいことです。報道されているだけでも、微妙な判定や判断の陰に虚々実々の陰謀がうごめいていないのかと疑ってしまいます。
特に今回は、ドーピング問題が大きく浮上してしまい、その対応がまことに稚拙なように感じられ、この大会全体の汚点になりそうな気がします。
一人の少女を、あのような状態に追い込んでしまっては、このオリンピックを成功と評する人はごく限られた人になるのではないでしょうか。
この問題の最終結論が示されるまでにはかなりの時間を要するようですが、その判断の基準が、ドーピング問題は選手を守るためのものであることを示すものであって欲しいと願っています。

ところで、この「虚々実々」という言葉ですが、その語源は兵法書にあるようです。
中国の兵法書として名高い、「孫子」の虚実篇に、「兵の形は実を避けて虚を撃つ」とされていることから生まれているようです。つまり、「虚々実々」という言葉は、「虚実」を強調することから生まれており、「孫子の虚実篇」では、「虚」は兵力の薄い地点を指し、「実」は兵力が充実している地点を指しています。

ただ、私たちがに日常の言葉として「虚々実々」という言葉を使う時には、「虚」はいつわり、「実」はほんとう、といった意味としているように思われます。もちろん、「虚々実々の戦い」といった言葉にもお目にかかりますが、この場合は、スポーツ観戦など、感想的な場合が多いような気がするのです。
私たちは、日常生活において、意識的に、あるいは無意識のうちに、「虚」と「実」を使い分けているものです。そのほとんどは、生活の潤滑油のようなもののはずで、意識して、「虚と実」を使い分けているとすれば、かなり疲れる日々になるのではないでしょうか。
願わくば、私たちにとって、この「虚々実々」が生活の潤滑油的なものであって欲しいと思うのです。この言葉が、孫子が教えるような意味で使われることは勘弁して欲しいと思うのですが、残念ながら、世界中には、脈々と孫子の教えが受け継がれているようなのです。
そして、当面の問題としては、ウクライナにおいて、この言葉が活躍するようなことがないことを祈るばかりです。

( 2022.02.19 )


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価値観の共有 ・ 小さな小さな物語 ( 1513 )

2022-07-25 13:25:29 | 小さな小さな物語 第二十六部

遠い昔のことですが、こんな経験をしたことがあります。
ある友人の家に三日ばかり泊めていただいたことがありました。「スキーを楽しむため」と言えば格好が良すぎるのですが、雪をほとんど見ることのない地域で育った私は、その前年まで、全くスキーの経験がありませんでした。ところが、ある機会から二、三度ばかり経験したことから興味を持ち、雪国育ちの友人の実家に泊めて貰うことになったわけです。
スキーの腕の方は言わぬが花なのですが、今でも覚えているのは、そのスキー場は初心者向きなのですが、二日目にすごく吹雪いて、上にも下にも行けなくなって、スキーを担いでゲレンデを下った貴重な経験をしたことです。

まあ、そのことは、当時は屈辱的でしたが、今となれば、スキーの映像を見る度に思い出す、掛け替えのない思いでの一頁になっています。
実は、その時、もう一つ貴重な経験に出合ったのです。
お世話になった三日間、朝夕の食事も家族同様にご馳走になったのですが、最初の夕食の時の経験が、いつまでも忘れられないのです。
夕食時となり、若い時でもあり空腹を抱えていたのですが、まず食卓の出されているのは、大きな皿に山盛りにされた漬物類でした。中味は良く覚えていませんが、ダイコンやニンジン、ゴボウもあったような気がするのですが、根菜類が中心でした。
食卓を一緒にしている家族の人たちは、その漬物を小皿に取って、お茶を飲みながらしきりにおしゃべりするのです。私の育った家庭は、お世辞にも上品とは言えない環境でしたが、それでも、食事の前に漬物などをつまみ食いするのは良くないと教えられておりました。
ところが、ひとしきりそうした時間が続き、ご飯やその他のおかずが出されたときには、目が回りそうになっていました。

そのような夕食が、このあたりのふつうの形だと友人から教えられて、次の夜からは美味しく漬物類を頂戴しましたが、風習の違いってあるものだと、つくづく教えられました。
折から、閉会したばかりの冬のオリンピックにおいても、あちらこちらで風習の違いのようなものが感じられました。
自国においては、おそらく雪など見ることもない人たちが、ボブスレーなどに参加していることには拍手を送りますが、違和感を感じることも隠せません。それほどの大きなハンディーのあるスポーツでメダルを争うことが公平なのかと考えてしまうのです。もちろん、夏の競技にも、そのようなものが数多くありますが。

「価値観の共有」という言葉を聞くことがよくあります。国際紛争の場や、国家間の同盟に関してなどにおいて、「価値観の共有」ということが大切なことはよく分かります。
二国間の交渉においても、何が大切なのか、正義とは何なのか、人権の持つ意味とは、等々、紛争の裏にはそうしたものが複雑に入り組んでいるのでしょう。
しかし、一言に「正義」といっても、万国同一のものではないように思われるのです。私が友人の実家の夕食で経験したことは、すでに現在では行われていないかもしれませんが、食事の形態一つとってみても、わが国内だけでも差があるのです。国家が違えば、食事の形態など大きく違うでしょうし、「価値観」にも大きな差があるはずです。
大切なことは、許される差がどの程度かということだと思うのです。近隣トラブルであれ、国家間の紛争であれ、その差をどのように埋めるのか考え出すことが、知恵というものではないでしょうか。

( 2022.02.22 )

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ボタンの掛け違い ・ 小さな小さな物語 ( 1514 )

2022-07-25 13:22:57 | 小さな小さな物語 第二十六部

ウクライナをめぐる情勢が厳しさを増しています。
外交努力によって問題が解決すると思っていたわけではありませんが、米ロ間の会談が日程に上がってきたことで、爆発しそうな状況が少しは冷やされて、しばらくは条件闘争になるのではないかと期待していたのですが、どうやら、甘すぎる判断だったようです。
ウクライナの一部地域はすでにロシアの影響下にあるとは言われていましたが、その地域を国家として承認するや否や、どうやら、実質的な侵攻が始まったようです。それも、親ロシア系の国民が実効支配している地域だけでなく、ウクライナ全土がターゲットだとすれば、背筋が寒くなるような気がします。

一部民族間の争いや、内戦が隣国まで影響を及ぼしてしまうような戦乱は、残念ながら頻発しているのが現実ですが、大国が堂々と侵略を開始するとなれば、軍事的に弱い国は、対処の方法などあるのでしょうか。
少なくとも、しっかりとした国家体制を持っている国同士の紛争は、ぎりぎりまでは外交努力、つまり、話し合いや第三国や国連などの仲介による解決努力がなされ、軍事衝突は、それらの努力ではどうにもならなくなった後のことだと思っていました。
しかし、テレビで報道されている程度の情報からの判断ですが、ウクライナとロシアの衝突は、完全に軍事力による決着に至るような気配が感じられます。
わが国も、この問題を、対岸の火事のように見ていて良いはずがありません。いくつかの領土問題を抱えていますし、政府間あるいは国民間の感情が良くない国家もありますし、具体的な火種を抱えている面もあります。さらに、軍事力となれば、わが国にどの程度の対抗力があるのでしょうか。
外交努力、つまりは話し合いで多くのことが解決できると私たちには考えている風があるのですが、そうした努力は、決して錦の御旗になり得ないことも認識しておく必要があるような気がしてしまいました。

これは、極端すぎる考え方かもしれませんが、この度のウクライナをめぐる衝突は、かつての、東西冷戦時代に似た国際情勢を生み出すのではないかと懸念してしまうのです。
「ボタンの掛け違い」という言葉があります。何とも古い言葉ですが、国際関係が大国を中心とした対立関係に戻るとすれば、これも、かなり古めかしい国際情勢ということになります。
それだけに、厳しい国家や地域の対立や紛争も、「ボタンの掛け違い」的な問題を含んでいる部分がありそうな気がするのです。

私たちの国家も、他国との関係において、国内の諸問題においても、「ボタンの掛け違い」的な問題に起因している事項が少なくないように思うのです。
ただ、こうした問題の難しいところは、掛け違ったボタンを直すためには、どこまで遡ればよいのか、と言うことです。「ボタンの掛け違い」は、多くの場合は最初からずれている場合が多いのですが、国家間の紛争となれば、最初に戻すためには、数百年前にまで遡るという場合も少なくありませんから、解決は簡単なことではありません。
「ボタン」など使っているから食い違いが発生するのであって、「ファスナー」にすれば多くの物は解決する、という意見もあるようです。確かに「ファスナー」にすれば、掛け違いはなくなるかもしれませんが、もし、食い込ませてしまった時には、元に戻すのがさらに難しくなってしまいます。
どちらにしろ、難しいものです。

( 2022.02.25 )

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どうすることも出来ないこと ・ 小さな小さな物語 ( 1515 )

2022-07-25 13:20:41 | 小さな小さな物語 第二十六部

ロシアによるウクライナへの侵攻は、厳しさを増しています。
このコラムを書いている時点(2月27日 夜)では、戦況の見通しも、落とし所の見通しも全く予想できない状態のようです。そもそも、一週間前にこの状況を本当に見通していた政治的リーダーや、学者など専門家とされる方々のうち、何割くらいの方がいたのでしょうか。
この状況がどのように動いていくのか、この見通しも多くの方々が意見を出されていますが、現時点では、結局は、プーチン大統領の考え方次第のように思えてなりません。

この悲劇的な状況になってから、両国の成り立ちの歴史や、ロシアの考え方、ウクライナの考え方、アメリカやEU及び加盟諸国の考え方などについて、さまざまな意見を勉強させていただきました。
今回の事は、一にも二にもロシアの武力行使に端を発しているわけですが、一歩退いて眺めてみますと、その手段の可否はともかく、ロシアにはロシアの言い分があり、ウクライナは自国の将来への施策があり、周辺国の利害も同様なのでしょう。また、例えば、一口にウクライナといっても、国内にさまざまな意見の持ち主がいることでしょうし、その他の国民も同様でしょう。

それぞれの国にはそれぞれの正義があり大義名分があるのでしょう。国家の威信と国民の誇りにかけて、どうしても譲ることが出来ない一線もあるのでしょう。
それらの、どれもこれも正しいとして、それ故に、こうして戦乱に突入することは避けきれない事だとしても、個々の人にとっては、どう対処すれば良いのでしょうか。
すでに多くの人々が隣国に脱出しています。壮年の男性は出国が禁じられていますので、脱出してきた人々の多くは、女性と子供と高齢者です。おそらく、そうした人々の多くは向かう先を持っているわけではないのでしょう。
さらに、混乱や混雑から逃げたくても逃げ出せない状態の人はさらに多いのでしょう。悲しいことに、すでに命を落した人、負傷を負った人、その家族の人々の気持ちは、如何なるものなのでしょうか。
しかも、そうした事態に対して、多くの人は、どうすることも出来ないのではないでしょうか。

「為せば成る」「明けない夜はない」「夜明け前が一番暗い」等々、努力や辛抱することで道が開けるといったことを教える言葉は数多くあります。先人たちの経験に基づく言葉なのでしょうが、今、危機が迫っているウクライナのごくふつうの国民に対して、こうした言葉がどれほどの意味を持つのでしょうか。
残念ながら、「成るものは、成るものに限られており」「夜は必ず明けるとしても、その暗さが夜でないとすれば、明るくなる保証はない」ということになります。
残念ながら、私たちには、「どうすることも出来ないこと」が存在しているというのが現実のようです。しかし、そうだとしても、何とかそれを最小限に抑えるための、社会や国際関係というものを求め続けなくてはならないと思うのですが、こうした考えが、何とも空しく感じるのが悲しい限りです。

( 2022.02.28 ) 

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おかげさまで ・ 小さな小さな物語 ( 1516 )

2022-07-25 13:18:11 | 小さな小さな物語 第二十六部

本当かどうかはよく分からないのですが、母国語以外を学ぶ場合、たくさんある言語の中で日本語は、難しい方の部類に入るということを聞いたことがあります。
残念ながら、私は日本語以外は殆ど分かりませんし、その日本語もかなりあやふやなところが多いわけですから、こうした意見が正しいのかどうか判断のしようがありません。
ただ、欧米諸国などがそうだと思うのですが、発祥源が同じだといった場合や、隣接している国家の場合などは人の交流も多くなり、互いの言語も馴染み深くなるといったことはあるのでしょう。

私たちが日常ふつうに使っている日本語でも、地方によって差があります。いわゆる方言です。
ラジオやテレビが普及してからは、標準語(何をもって標準語かはともかく)をほとんどの人は聞き取ることが出来るようになっています。しかし、話せるかとなりますと、そうそう簡単なことではないようです。長年テレビで活躍していても、かなりなまりが残っている人もいますし、日本語だけではうまく表現することが出来ず、やたらカタカナ語を使う人も少なくありませんし、やたら造語に頼っている人も目立ちます。
つまり、外国の人が日本語を学ぶ時ばかりでなく、私たち自身も自由自在というわけには行かない言語なのかもしれません。その理由の中には、幾つもの意味を持っている言葉が多いことも含まれているように思います。

表題の「おかげさまで」という言葉も、その一つのように思われます。
「おかげさまで、うまくいきました」といった場合を考えてみますと、「あなたのお力添えで、うまくいきました」と謝意を込めて使われることも少なくありませんが、同時に、「便利な接頭語」のように使われたり、「お愛想」「敬語的な意味合い」「丁寧語」といった意味合いとして使われている場合も多いようです。つまり、「おかげさまで」という言葉は、その発言全体、あるいはその対話全体さえも、和やかにする力を持っているような気さえするのです。この一言は、たいていの言葉を「まろやか」にする魔法のような力を持っているように思うのです。
この「おかげ=お陰」というのは、本来は「神仏」のような存在を指していると考えられます。ただ、現在私たちが使う場合は、「相手や特定の人」を指す場合の他は、「神仏」というよりは、「多くの人々」とか「社会」といった意味合いのような気がします。無意識のうちでしょうが。

私たちの言葉の中には、人を和やかにするようなものを、先人たちが生み出し育ててきてくれています。
この「おかげさまで」は、まさしくそうした言葉の一つだと思うのです。特別格式張ることなどなく、ごく自然にこの言葉を交わし合うことが出来れば、二人の関係や、数人の関係であれば、きっと「まろやかさ」を発揮し、和やかな関係の醸成に役立つはずです。
ただ、大きな社会に対してならばどうなのか。なかなか難しいところですが、即効性はなくともそれなりの働きを見せてくれると思うのですが、国家間となれば、どうなのでしょうか。
残念ながら、現在起きている惨事を考えてみますと、言語ばかりでなく、良心さえも交信し合うことが出来ないような気がしてしまうのです。
人間は、これほど愚かだったのでしょうか。

( 2022.03.03 )
 

 

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露と落ち露と消えにし ・ 小さな小さな物語 ( 1517 )

2022-07-25 13:15:44 | 小さな小さな物語 第二十六部

『 国連総会(加盟193カ国)は2日、ウクライナ危機をめぐる緊急特別会合で、ロシアを非難し、軍の完全撤退などを要求する決議案を141カ国の賛成多数で採択した。反対はロシアなど5カ国のみで、棄権は35カ国だった。決議に法的拘束力はないが、ロシアに侵攻停止を迫る国際社会の政治的意思を示した。』
以上は、3月3日付 毎日新聞夕刊から引用させていただきました。

今、この記事を書いているのは、3月5日(土)ですが、残念ながら、ウクライナの危機的状況に改善の変化は全く見られず、むしろ、上記決議がなされた後は厳しさが増しています。
両国の軍人の犠牲者数は、おそらく正確なものが発表されることはないのでしょうが、ウクライナの民間人の被害は増える一方で、ロシアからの攻撃は、住宅や公共施設に広がっており、ついに、原発で火災が発生との報は、世界に衝撃を与えました。炎上したのは、原発本体ではなく関連施設であったようで、放射線量に異常はないようです。
この原発は、すでにロシア軍に制圧されており、今後の運用や安全性が懸念されます。原発への攻撃は、国際法に違反するとされていますが、およそ、この種の条約や約束事は、このような事態においては役に立たないように思えてなりません。

それにしても、この国連総会における決議というものを、どう考えればいいのでしょうか。
まさか、町内会の決議と同程度のレベルのものとは思いたくないのですが、非難決議された当事者国に、少々恥ずかしい程度の影響しか与えられないのだとすれば、国連の存在意義に疑問を感じてしまいます。
国連には六つの機関があるそうですが、その中の一つに過ぎないはずの安全保障理事会(安保理)は、世界の平和と安全の維持に主要な責任を負っており、法的に国連加盟国に拘束力を持つ決済を行うことが出来る、事実上の最高意思決定機関とされています。
つまり、国連は、総会による意思決定よりも、安保理による意思決定の方が上位にあるわけです。しかも、安保理には拒否権を持つ五大国が存在していて、その中の一国でも反対すれば決議することが出来ないわけですから、弱い者いじめ以外には機能しないように見えてしまいます。
国連改革という声が聞こえだしてきてから久しいですが、この安保理の存在を何とかしない限りは、根本的な改革など出来ないことでしょう。

『 露と落ち 露と消えにし わが身かな 浪速のことも 夢のまた夢 』
この句は、豊臣秀吉の辞世の句とされているものです。
貧しい百姓の身から天下人にまで駆け上った秀吉は、今も関西では「太閤さん」として、歴史上の人物の中では根強い人気を保っています。
いわゆる講談本程度の知識しか持っていませんが、少年期から天下人になるまでの人物像は、多くの人が魅力を感じると思うのです。しかし、天下人となった頃からの秀吉には、人間が変わってしまったのではないかと思われる一面が再三現れます。
どうも、そうした変化は、何も秀吉に限ったことではなく、現代においても、よく見られる現象のようです。
首長選挙などで、多選の是非が議論されることがありますが、あまり短い期間では百年の計は築けないとしても、長期政権には、多くの場合は弊害が見られることの方が多いように思われます。
いずれにしても、『 浪速のことは 夢のまた夢 』なのですから、それがどれほど美味しい地位だとしても、そこそこのところで身を引いてほしいものです。

( 2022.03.06 )

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リーダーシップの姿 ・ 小さな小さな物語 ( 1518 )

2022-07-25 13:14:39 | 小さな小さな物語 第二十六部

日本で越冬する渡り鳥たちの多くは、すでにそれぞれの地を離れたのでしょうね。
鳥の生態については全く知識を持っていませんが、おそらく、単独で飛んでいく物は少なく、一定の集団をなして次の住処を求めて長い旅を続けるのでしょう。
そして、その集団には、当然リーダー的な存在がいて、集団を無事目的地に辿り着けるように、リーダーシップを発揮しているのでしょう。
それは、何も渡り鳥に限ったことではなく、多くの野生動物で見られる習性とも言えます。

当然、私たち人間社会においても、あらゆる集団において、リーダーが必要であり、優れたリーダーシップが必要とされることは、当然のことといえます。
全くの一人という場合は別ですが、たとえどんな小さな集団であっても、リーダー的存在はあるようです。小さな集団となれば、夫婦二人の場合が考えられますし、数人の家族という集団もその一つでしょう。こうした血族的な集団の場合、かつては、家長であるとか、長老といった存在が君臨したこともあるようですが、今日では、それぞれの得意分野ごとにリーダー権が分散されている例が多いようです。但し、そこに予期せぬ大事が発生した場合には、確固たるリーダーの存在やリーダーシップの優劣が難局を乗り切る上で大きな働きをするのではないでしょうか。

ごく一般的に、リーダーシップの優劣といったように使われる場合には、「指導者としての資質・能力・力量・統率力」などを指していると考えられます。
著名な経営学者であるドラッカーによりますと、リーダーシップについて、「資質ではなく仕事である」「地位や特権ではなく、責任を背負う潔さ」「付き従う者がいる信頼性」といったものを判定の基準にしているようです。
ただ、人間の社会にリーダー的な存在が誕生したのは太古の昔でしょうし、現時点でリーダーを必要としている組織は、世界中に、それも組織の大小さまざまに数限りなく存在しています。当然、優れたリーダーを一様の定義で決めつけることなど出来ないはずです。
しかし、そうだとしても、私たちは、リーダーの優劣によって、多くのものが左右されるようです。

今、私たちは、国家のあり方、国家リーダーのあり方について、課題を示されているような気がします。
私たちの国は、政治体制上のリーダーは、内閣総理大臣です。
しかし、世界中のことはよく分かりませんが、日頃よく耳にする国々の政治体制上のリーダーを見ますと、わが国のような制度で選ばれているのは、圧倒的に多いというわけではないことが分かります。
アメリカや韓国もそうですが、大統領に強い権限を与えている国があります。イギリスなどわが国と似通った制度の国ももちろん少なくはありません。そして何よりも、法体系はともかくも独自の選出手段を持っている国もあり、王権が健在な国もあります。
そうした違いも、国家間の軋轢の一因になることもあるでしょうが、やはり、リーダーシップの優劣もさることながら、リーダーシップの姿その物に差があることが、トラブルの原因になることもあると考えられます。
私たちは、私たちの国家体制の健全化と国家リーダーの一層のリーダーシップの向上に励むことが必要なのでしょうが、世界には、わが国が築き上げた価値観と相容れない国もありますから、そうした国々との共存も更に重要なのかもしれません。

( 2022.03.09 )

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