
文京区春日の今井坂に残る慶喜終焉の地

戊辰戦争の始まりを告げる鳥羽伏見の戦いは、1868年1月3日(旧暦)の夕、その火ぶたが切って落とされた。
総数にして3倍以上の幕府軍に対して薩摩・長州軍(土佐藩兵も一部が合流)は寡兵にもかかわらず、じりじりと押していった。そして4日に仁和寺宮嘉彰(にんなじのみや・よしあき)親王が幕府追討の大将軍に任じられ、明治天皇から錦旗と節刀(せっとう)を賜るや、薩長軍は「官軍」となり、戦況は大きく動く。譜代の淀藩をはじめ、日和見(ひよりみ)、また当初は幕府方だった諸藩が、官軍の旗のもとになだれをうちはじめたのだ。
15代将軍の徳川慶喜は、大坂城に退却してきた幕府軍を前に演説した。
「不幸にして軍(いくさ)に敗れ、危殆(きたい)に陥る。しかしながら、われらが誠心は天も照覧しておられるはず。焦土となっても城を死守するのだ。たとえ余が討ち死にしたとて、わが志は関東忠義の士が継ぐことであろう。何を恨むことがあろうか」
その場にいた桑名藩士の中村武雄によると、城内、《感泣悲慟(ひどう)せざるはなし》との一体感に包まれた。が、《舌の根、いまだ乾かざるに、人にも告げず、関東へ逃げ下り玉ひしは、如何なる事にや、天魔の所為とも云ふべきか》という予想外の事態がおきる。
この後、ひたすら恭順の意を表する慶喜に対し、老中、小笠原長行(ながみち)は職と藩を捨てて、官軍と対決する道を選ぶ。(産経編集委員 関厚夫)

鉄舟の名前を聞いたのは中学一年のときだった。叔父の家に行ったとき掛け軸の話になり、この軸は鉄舟の書で鑑定家に見てもらったら真筆だということで、数百万の価値がある、と言う話を父と話していたのを聞いたときだった。
その後、散歩でよく行った谷中の全生庵に立ち寄ったとき、この寺で鉄舟が禅をしていた、と言う話を聞いた。そして新撰組の本を読んだとき、新撰組の前身の京都守護職を補佐する浪士隊二百数十名の監視役として、京都まで付き添った幕臣の山岡鉄太郎(鉄舟)として登場する。
よく知ると禅や書でも達人と呼ばれ、剣の腕は千葉周作の北辰一刀流免許の達人、しかも江戸城無血開城の影の交渉人として、官軍の大将西郷と渡り合った、豪胆かつ頭脳明晰な知恵をも備えた文武両道に優れた人物だったことを知った。
西郷の有名な言葉「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難(かんなん)を共にして国家の大業は成し得られぬなり」とは、この鉄舟のことを言ったものだ。
江戸時代は全くすごい人たちが多かったんだなー、とつくづく感じる。おじちゃんは判官びいきの江戸っ子だから、貧乏くじを引いた会津藩や桑名藩や新撰組に好意を感じ、長崎のグラバー邸で有名な、英国の武器商人トーマス・グラバーから大量に大砲や鉄砲を買い付け、薩長に売りつけ、大儲けした坂本竜馬なんかは、金儲けだけを考えた、この時代では人の弱みで肥えて行く、ヤクザか人間のクズのゴロツキだとしか思われない。それが今では英雄に祭り上げられているのは全くもって不思議でならない。
明治維新が日本にとって素晴らしい改革だ、と考える人たちにとっては、薩長や龍馬は特別なのだろうが、江戸時代は世界の歴史でも稀にみる平和な素晴らしい時代だった、と考えている者にとっては全く逆だ。
明治維新は単に薩摩、長州のクーデターに過ぎなかったと考えている。鳥羽伏見の戦いで部下が命を賭けて戦っている最中に、大阪城から一目散に逃げ出してしまった徳川慶喜はもっと嫌いだ。こんな将軍だから徳川幕府が潰れ去ったのは当然の帰結だが。
今の政治家にもこんなのばかりがいて情けなくなる。世の中良くなるわけない。鉄舟をもっと知って元気を貰おうと思う。
事実は赤貧旗本だった鉄舟も、政治を司る幕府のせいで、ずっと貧乏暮らしを強いられた一人だったので、いわゆる尊王派で幕府が潰れてもいいと考えていた勝海舟同様の幕臣の一人だったと思う。尊王攘夷の急先鋒の、幕府転覆を策略していた危険人物清河八郎を長い間、自宅にかくまっていたほどだから、薩長へのパイプもかなり持っていたと思われるし、交渉のとき単身敵地に乗り込み、敵軍大将の西郷と会うこと自体、何かのつながりがないと出来ることではない。

隅田川河畔に建つ勝海舟の像
幕末の激動の時代にあって江戸の町と庶民を守るため、敵将と堂々と渡り合う気骨と肝を鉄舟は持っていた。まさに西郷が言った「命もいらず、名もいらぬ」気合の入った人だったのだろう。こんな人間が今の政治家には殆どいないのが日本の一番の問題なのだ。