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腹の立つこと 日本はチャンコロのスパイ要請所

2016年01月23日 | 中国
胎児を食うチャンコロ  台湾の記者が取材した写真で事実だと証明されています

参照 シナ人は胎児を食う 


日本に来る支那人は落ちこぼれの犯罪者

現在、日本に中国からの留学生がどれくらい来ているかご存知だろうか? なんと約9万人である。入学金タダ!授業料タダ!生活費支給!文部科学省が「反日中国人留学生」に使う血税180億円!しかも、日本で学んだ彼らは帰国後、反日言動を繰り返し……、こんな、国を挙げてのマッチポンプを放置していいのか。 更新日: 2013年08月01日


入学金タダ!授業料タダ!生活費支給!文部科学省が「反日中国人留学生」に使う血税180億円!
しかも、日本で学んだ彼らは帰国後、反日言動を繰り返し……、こんな、国を挙げてのマッチポンプを放置していいのか。


日本人留学生の10倍もの予算が税金から外国人留学生に
日本人が「国費留学生」として日本政府から奨学金を給付されて派遣されるのは、年間200人。
大多数の日本人留学生は、国から奨学金を借りるが、これはのちに上限3%の年利を付けて返済しなければならない。
日本人学生を海外に派遣するための予算は、年間36億円。
外国人留学生の受け入れに、昨年度306億円、今年度294億円。
国費外国人留学生は、今年度、1万1006人を対象に、入学金および授業料をすべて負担。その上、学部生は11万7000円、博士課程14万5000円、お小遣いとして月々奨学金を支給。地域により、月額2000円~3000円を加算。
外国人留学生は、一人あたり年間1500万円の医学部の学費でさえ免除。奨学金は返済義務なし。日本までの往復の飛行機代も日本国が支払い。
日本人学生向けの奨学金とは、金利付きのローンだが、外国人留学生には我が国から小遣いを含めて、ひとりあたり年間250万円を支給。
期間は学部留学生で5年、高等専門学校で4年、と卒業に必要な在籍年数+1年間。1年間は日本語習得のため。
国費留学生予算は、日本人向けは13年度は4億円、外国人向けは187億円。
私費留学生は12万人超、国費留学生ほど優遇されないが、月当たり4万8000円~6万5000円の学習奨励費が文科省から支給される、返済の義務はない。

滞在期間が1年以内の短期留学生役5000人にも、月額8万円の奨学金が給付されている。返済の義務はない。
昔は受けられた返済義務のない奨学金が、バブル崩壊以降、日本の財政赤字が膨らんでいることから、めっきり減った。しかし、おかしなことに外国人留学生に対する補助はどんどん厚くなっている。

それだけではない外国人留学生の優遇策
外国人留学生の優遇策は他にもあり、外国人留学生向けの宿舎を全国数カ所に設置。東京お台場の国際交流館は、単身者向けの部屋は日本人の家賃が5万2500円~6万7500円のところを、外国人は3万5000円~4万5000円と安く設定。
昨年5月現在、13万7800人の外国人留学生が日本にいる。文科省は、「グローバル30」という取り組みで20年をめどに30万人に増やそうとしている。

予算は、単純に計算しても倍増。
外国人留学生の75%は、中国、韓国からの留学生
百歩譲って、日本の学問の国際化に外国人留学生が欠かせないとしても、問題なのは欧米諸国からの留学生が少ないこと。

日本に来ている外国人留学生の62.7%が中国人で、韓国人を合わせると2国で75%を占めてしまう。
中国人留学生の大部分は、軍人の子息や共産党幹部の親戚。08年に胡錦濤国家主席が早稲田大学を訪れた際はキャンパスが赤旗を持つ学生でうめつくされた。彼らは中国政府の肝いりで派遣。

反日的な思想を持ち、日本を食いつぶそうとする若者が日本の税金で留学生活をおくっている。
欧米の大学は、出身国ごとに受け入れる学生の割合が決められている。留学生の出身国が偏らないように配慮されているが、日本の制度はまるで中国人のための制度だ。
台湾からの留学生はひとりも利用できない。日本人大学生も経済的に豊かではない
文科省は国交のない国からの国費留学を認めず、東日本大震災で200億円を超える義捐金をおくってくれた台湾の学生はひとりも利用できない。
返済義務のある日本人の奨学金を受けた大学生は、2011年時点で33万人が未返済で、未返済額は876億円。日本人学生の経済状態はこれほどひどい。一方で、外国人には学費以外に生活費、お小遣いの奨学金まで支給。
外国人留学生の実情は、グローバル化などとは程遠い。人気のない大学では、定員を満たすという目的だけで留学生を受け入れている。定員割れすれば、私学助成金などの補助金がカットされてしまうから。例えば、日本経済大学では、入学生の約9割が中国人。
管理職まで勤めた文科省キャリアの半数以上は、退職後に大学に再就職。文科省OBが天下り先の大学で後輩官僚を使って留学生を増やし、国から自分の給料のために補助金を出させている構図。
審査基準に疑問
国費留学生の試験は、各国の日本大使館、領事館で実施。母国で留学の資格さえ取れば、日本の難関大学にも簡単に入学できてしまう。審査基準にも疑問が残る。

私費留学生の入学はさらにずさんで、「真面目そうですね」などと数名の教授が面接で確認するだけ。
こうして、熾烈な受験競争の日本の受験生の頭越しに、彼らは難関大学にもやってくる。


欧米からの留学生とまったく違う中国、韓国からの留学生
欧米諸国からの留学生は、しばしば自国の歴史を踏まえた示唆に富む意見を述べてくれて、日本人が学ぶ点も多い。

ところが、中国や韓国の留学生は「日本は侵略戦争を起こした」「魚釣島は中国領だ」「慰安婦問題の責任を取っていない」「竹島は韓国領だ」など決まったことしか話さない。

とりわけ中国人留学生は、優秀な学生ほど、反日教育を施されていて、一般の中国人よりも日本を悪し様にいう傾向にある。
欧米や東南アジアからの留学生は、親日家になって帰る人が多い。

ところが中国人や韓国人留学生は、日本で学ぼうという真摯な態度の者が少なく、大半は日本を踏み台にしてアメリカの上位の大学に進みたいと思っている。

また、教授が彼らの歴史意識をいさめようとするようなことを少しでも語れば、「あの教授は外国人を差別する」と言われる。


学力レベルの低い中韓の留学生が、大学の教育水準を引き下げる
東京大学などの難関校では、留学生の多くは、専門知識を持っていれば、学部よりもはるかに入学が容易な大学院から入ってくる。学部から上がってきた学生と比べて、基礎学力の差は歴然。

東大ですらそうなのだから、定員を満たすためだけに留学生を受け入れている私大は悲惨。

玉石混交ではなくて、ほとんどが石。中韓のレベルの低い留学生のせいで、日本人の教育水準が引き下げられている。
最先端の研究成果の盗難のおそれ
外国人留学生は、理系の学科に集中している。

ここ最近は、深夜に一人きりで研究室に残っている中韓の留学生が問題視されている。

彼らはその気になれば、日本の最先端の研究成果を盗むことができる環境にいる。

欧米の大学では、対策として学生証などで国籍を識別して、ある時刻以降は自国の学生しか研究室に入れないようにしている。

ところが、日本の大学はどんな学生にもオープンで平等。中韓との外交的緊張を考えるとあまりにものん気すぎ。
中韓の留学生ばかりの支援は日本の発展のためにならない
中国、韓国の留学生は自分が去る際に、研究室を地元の後輩に紹介していく。OBの紹介があると入りやすく、どんどん欧米からの留学生が締め出され、大学院の理系の研究室は、ほとんどがこの2カ国の学生で占められているところもある。
日本の発展のためには欧米からの留学生を重点的に支援したほうが良い。

中韓の留学生に使われている国家予算の一部を日本人の海外留学に回し、日本人の海外留学を奨励すべき。

そうしないと、この国の教育水準は下がり続ける一方だ。

他にもありすぎる問題
中国人の留学生は、日本に留学した際、給付された奨学金の一部を中国大使館に納めさせられている。日本の税金の一部が留学生を通して、中国政府に渡っている。

また中国では、他人へのなりすましが横行し、偽造の高校卒業証書で、成績の良い他人のデータを使って難なく日本に留学している人もいる。
中国共産党は、80万人の陸軍兵士を近くリストラする予定。大半は若い兵士で、彼らの多くが日本におくりこまれるだろう。

授業料、月々の生活費の他、飛行機代まで、日本政府が負担してくれる、こんなおいしい話はない。
中国も最近は裕福になっているので、留学生も正直なところ全面的な支援は必要ない
年間293億円! 手厚い外国人留学生への支援 日本の若者にもっと投資せよ!

Nさんは、日本もそろそろ考えた方がいい時期ではないかと付け加えた。そして、そもそもなぜ、日本政府が国をあげてまで外国人留学生を30万人に増やそうとするのかわからないと言う。その理由は、本当に優秀な中国人たちは、留学後は自国に帰るからというもの。
留学生を自国学生より優遇する国などない。しかも来る留学生は落ちこぼればかり
これでいいのか!日本の「グローバル教育」
★中国人留学生を優遇し、日本人を追い込む矛盾| 日本の教育では、「本物の日本人」は生まれない
現在、日本に中国からの留学生がどれくらい来ているかご存知だろうか? なんと約9万人である。都内のコンビニ、居酒屋、ファミレスなどでバイトしている中国人店員の多くは、中国人留学生である。

一口に中国人留学生といっても、留学とは名ばかりで日本に稼ぐためだけに来ている学生だ。
ただ、この者に共通している点がある。それは、みな一番手の学生ではないこと。二番手、三番手、あるいは落ちこぼればかりだということだ。
中国では、留学を目指す一番手の学生は、みな欧米の一流大学を目指す。日本など見向きもしない。
安倍政権は、「グローバル人材」をつくる教育を推進するという。しかし、現在の実態は、国民の税金をできのよくない中国人の若者に与え、向学心のある日本人の若者を支援せず、あげくの果てに「本来なら潰れている大学」を支えるために使っているのだ。





















支那の粛清は続く

2016年01月13日 | 中国



粛清は支那の歴史の特色の一つで、政権が倒れると前政権の人物は全員殺されるのが当たり前になっている。いわゆる「易姓革命」といわれる。毛沢東も3000万人を粛清したといわれている。キンペーも相当数の政敵を闇から闇へ葬っている。支那国内の情報は、海外にはなかなか洩れてはこないが、裏ではキンペーによる粛清も囁かれているし、事実、支那の歴史から鑑みても、権力を握った人物が、政敵を闇に葬るのは日常のことだ。

こんな原始土人社会が、世界の覇権を狙っているのだから怖ろしいとしか言いようがない。日本も早く九条を破棄して普通の国に戻さなけれは、支那の魔の手はもう目前に迫っている。


 【北京=矢板明夫】香港で中国政府に批判的な書籍を出版、販売する書店「銅鑼湾書店」の株主で、作家でもある李波氏が昨年末に失踪した問題が、波紋を広げている。李氏は、中国の治安当局に拘束され本土に連行された可能性があり、香港の警察が捜査に乗り出した。同書店の店長ら4人も昨年10月から行方不明となっており、中国当局による言論弾圧の新たな動きとの見方も浮上している。香港のメディア関係者の間で不安が広がっている。
 1997年に英国から中国に返還された香港は、一国二制度が採用されており、言論の自由などが保障されているはずだ。しかし、近年、中国政府に批判的な言論人が失踪したり、暴漢に襲われたりする事件が急増。ある香港の評論家は「これらの事件が言論界にとって大きな心理的な圧力となったことは事実だ。中国当局を批判する記事を書きにくくなっている」と話している。

中国を代表する企業「大連実徳集団」の総帥で、個人資産130億元(約2600億円)以上といわれる大富豪、徐明氏が12月4日早朝、武漢市内の刑務所の中で死亡した。44歳だった。(4年の刑期満了直近だった)「死因は心筋梗塞」と中国当局が家族や関係者に説明しているが、徐氏を知る関係者たちの間で「口封じのために当局に殺された」と考えている人が多いようだ。

当時の大連市長、薄煕来(キンペーにより終身刑に)に気に入られ、その側近となった。
薄氏一家に対し、時価約4億円以上のフランスの別荘をプレゼントするなどさまざまな賄賂を贈ったことが後に明らかになった。米ハーバード大学に留学していた薄氏の息子が、同級生や教授約40人を中国に招待したときの費用もすべて徐氏の会社が拠出したという。

徐氏は4日の朝、トイレで突然倒れたという。しかし、徐氏を知る人たちは「彼に心臓系の持病はない」と口を揃え、死去した直後に荼毘に付されたことについても「証拠隠滅だ」と主張する人もいる。本当の死因は永遠に明らかにされない可能性もあるが、多くの秘密を抱えた徐氏が死去したことで、ホッとした政府要人は少なくないはずだ。




























中国4000年のおそろしさ―不気味な隣人の素顔

2016年01月11日 | 中国



【征服王朝のすさまじさ】
 
 先に述べた清だけではない。読者もご存知のとおり、元寇で知られる元はモンゴル族の王朝であるし、燕京(現在の北京)に都を置いた金は女真族、後の満州族につながるツングース系言語を話す半農半猟の民であった。

中国史における用語として、「征服王朝」という言葉があるが、これは漢族以外の民族によって支配された王朝のことを指す。清や元、金は征服王朝である。
 征服王朝のすさまじさの一例を挙げよう。1126年11月、金は宋(北宋)の首都・開封を陥れる。この年が靖康元年であったため、これを「靖康の変」と呼ぶ。金はおびただしい金銀財宝とともに、徽宗・欽宗以下の宋の皇族と官僚、数千人を捕らえて満州へ連行し、そこで生涯にわたって悲惨な虜囚生活を送らせた。そればかりではない。この事件で宋室の皇女達(4歳~28歳)全員が連行され、金の皇帝・皇族らの妾にされるか、洗衣院と呼ばれる官営売春施設に送られて娼婦とさせられたのである。
  「中国」どころではなく、東アジアから東ヨーロッパまでを支配した大征服王朝の元は、南宋を滅ぼした際、金が北宋に対して行なったようなむごたらしい行為は行なわなかったが、統治においては厳しい身分制度を敷いて徹底的に民族差別を行なった。民族をモンゴル人・色目人・漢人・南人に分け、中央政府の首脳部と地方行政機関の長はモンゴル人が独占した。色目人とは色々な目の色をした人の意味で、中央アジア・西アジア出身の異民族、さらにはヨーロッパ人も含む。早くから譜代関係にあったために、モンゴル人に次いで重用され、モンゴル人とともに支配階級を形成した。支配階級であるモンゴル人と色目人を合わせて人口は約200万人で、その人口構成比は約3%に過ぎなかった。漢人は、金の支配下にあった人々の総称で、淮河以北に居住していた宋代の漢人の子孫の他に、女真人・契丹人・高麗人・渤海人などが含まれ、人口は約1000万人、人口構成比は約14%であった。そして、一番下の階級である南人は南宋の支配下にあった漢民族を指し、人口は約6000万人、人口構成比は約83%を占めた。漢人・南人は被支配者階級であり、特に人口の大部分を占める南人は最下層に置かれ徹底的に差別された。その決まりは細かく、例えばモンゴル人と漢人・南人が争ってモンゴル人が漢人・南人を殴っても、漢人・南人は殴り返してはいけないというような細かいことまで法で定められていた。また、同じ漢族でも、金の支配下にあったか南宋の支配下にあったかで差別しているが、これの基準は中国化しているかしていないかであり、徹底して中国式を抑圧した。私たち日本人からすると、元は遊牧民族が作った中国式王朝のようなイメージがあるが、実際には中国式の要素はほとんどなかった。ただ、「パスパ文字」という独自の文字とともに支配の都合上漢字も使っていたというだけなのだ。
 なお、余談になるがこのパスパ文字、ハングルとそっくりである。実は、ハングルは、元の属国であった高麗(朝鮮)王朝がモンゴル化し、その時伝わったパスパ文字が基礎となって、高麗王朝に代わった李氏朝鮮の時代に作られたと言われている。このパスパ文字起源説は韓国外の学界では広く受け入れられているが、韓国内では当然、圧倒的に非主流派である。しかし韓国内においても、きちんとした学究も一部ではなされている。例えば、国語学者のチョン・クァン高麗大名誉教授がそうだ。チョン・クァン名誉教授は、次のように述べ、韓国における国粋主義的研究を糺している。「訓民正音とハングルに関する国粋主義的な研究は、この文字の制定とその原理・動機の真相を糊塗してきたと言っても過言ではない」。
http://japanese.joins.com/article/430/107430.html

 尖閣はもちろん我が国固有の領土であるが、今、韓国が不法占拠している竹島も我が国固有の領土である。竹島は1952年のいわゆる「李承晩ライン」により、韓国に軍事的に侵略された領土なのである。第二次世界大戦後、日本漁業の経済水域はマッカーサー・ラインによって大きく制限されたものであったが、1951年9月8日に調印されたサンフランシスコ講和条約により、翌1952年4月28日の日本主権の回復後はこの制限の撤廃が予定されていた。ところが、日本の主権回復前の隙を韓国は狙ってきたのだ。1951年7月19日、韓国政府はサンフランシスコ講和条約草案を起草中の米国政府に対し要望書を提出し、竹島、波浪島を韓国領とすること、並びにマッカーサー・ラインの継続を要求した。これに対し、アメリカは1951年8月10日に「ラスク書簡」にて回答し、この韓国政府の要求を拒否した。「ラスク書簡」の約1ヶ月後の1951年9月8日にサンフランシスコ講和条約は調印されたが、講和条約発効の約3か月前の1952年1月18日、朝鮮戦争下の韓国政府は、突如としてマッカーサー・ラインに代わる李承晩ラインという軍事境界線の宣言を行った。1965年の日韓基本条約によってラインが廃止されるまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えた。抑留者は6畳ほどの板の間に30人も押し込まれ、僅かな食料と30人がおけ1杯の水で1日を過ごさなければならないなどの劣悪な抑留生活を強いられた。このような国際法上違法であり、かつ非人道的侵略行為に対し、当時我が国政府のみならず米国も抗議しているが、米国は直接的な利害関係国ではないため積極的な介入は行なわず、それがために韓国による侵略が固定化されてしまったのである。
 
 国策として反日愛国を強く推進している韓国という国の中で、こういった事実は全く知られていない。反日愛国に沿った虚偽が真実として異常に強調される国なのである。そういう国にあって、もし真実を伝えようとすれば、袋叩きに遭うことは間違いないだろう。しかし、中には良心に忠実に真実に向き合おうとする人もいる。例えば、先に取り上げたハングル研究におけるチョン・クァン名誉教授などがそうである。韓国にも、あるいは中国にも少数ながら存在するそういう勇気ある真っ当な人たちの声を、私たち日本人はしっかり認識し、広めていくべきだろう。
 
 次は最後の征服王朝・清だ。1644年に都を北京に移した清は、中国南部に残っている明朝の残党狩りのために征服戦争に打って出る。これがすさまじい。「屠城(とじょう)」と言って、「城内の全ての人間をする」のである。こう言うと、「日本でも珍しくないではないか」と思うかもしれないが、まるで違うのである。日本では籠城するのは武士であり、城下町はその外にある。だから、仮に城内の人間がすべて殺されたとしても、それは籠城している武士だけである。しかし、中国の場合、街全体が城壁で囲まれており、屠城とは街中の市民全員を殺すことなのである。清の征服軍が行なった屠城で有名なものの一つは1644年の「揚州屠城」であるが、当時揚州は既に人口100万人の大都市であった。その都市で大虐殺が実行された。かろうじて生き残った王秀楚という人物が、『揚州十日記』という記録を残している。「数十名の女たちは牛か羊のように駆り立てられて、少しでも進まぬとただちに殴られ、あるいはその場で斬殺された。道路のあちこちに幼児が捨てられていた。子供たちの小さな体が馬の蹄に蹴飛ばされ、人の足に踏まれて、内臓は泥に塗れていた。途中の溝や池には屍骸がうず高く積み上げられ、手と足が重なり合っていた」。この記録によれば、屍骸の数は帳簿に記載されている分だけでも八十万人以上に達したという。

【秦に見られる中国史の伝統――思想弾圧・大量殺戮・粛清】

 征服王朝から、もう一度初めて中国を統一した秦に戻ろう。なぜなら、ここに中国史を貫く特徴が顕著に表れているからである。その特徴とは、思想弾圧、そして大量殺戮と粛清である。思想弾圧に関しては、今さら多言を要す必要はないだろう。秦の始皇帝は歴史に名高い「焚書(ふんしょ)・坑儒(こうじゅ)」を行なった。焚書・坑儒とは、「書を燃やし、儒者を坑する(儒者を生き埋めにする)」の意味である。これは多くの人が知っているが、意外と知られていないのが秦の大量殺戮と内部粛清である。『史記』の『白起列伝』には、中国統一に至る過程でのすさまじい殺戮が記述されている。例えば、紀元前293年、秦軍は韓と魏(ぎ)の連合軍を破るが、この時24万人を斬首している。その後も数万人レベルの斬首はざらで、最もすさまじかったのは紀元前260年の長平の戦いである。この時、秦軍は山西省高平県の長平で45万の大軍を擁した趙(ちょう)軍を降伏させるが、問題はその後である。45万の趙軍のうち戦闘中で命を落としたのは5万人。残りの40万人は捕虜となったが、秦の白起将軍によりこの40万人の捕虜ほぼ全員が生き埋めにされて処刑(坑殺)されたのである。
 
 次は粛清である。紀元前210年に始皇帝は巡幸中に死亡すると、粛清の嵐が始まる。始皇帝の身辺の世話をしていた宦官・趙高(ちょうこう)と宰相・李斯(りし)は、まず始皇帝から後継指名を受けていた長男の扶蘇(ふそ)を自殺に追い込む。そして、次男の胡亥(こがい)を二世皇帝に据え、権力をほしいままにした。傀儡政権を樹立した後は、趙高と李斯以外のグループの重臣を次々に殺戮。次いで胡亥の兄弟である12名の皇子を処刑し、10名の皇女を磔にした。ところが、次はさらなる内紛と粛清である。今度やられる方に回ったのは李斯であった。趙高は権力独占のために邪魔になった李斯を追い落とすため、謀反の罪をかけ、皇帝の名において逮捕させる。そして例によって一族皆殺しである。これを「族誅(ぞくちゅう)」と言うが、族誅は中国史の伝統である。凄惨な粛清はさらに続く。趙高は、今度は二世皇帝・胡亥を自殺に追い込み、始皇帝の孫である子嬰(しえい)を3世皇帝に立てるが(紀元前207年)、既に自らの力も国の力も衰え切っており、今度は逆に趙高一族が子嬰によって誅殺されることになる。因果である。
 なお、秦は子嬰が即位した翌年、紀元前206年には滅びてしまうのであるが、滅ぼしたのが有名な項羽と劉邦である。この時、項羽がやったこともすさまじい。項羽は秦の首都・咸陽(かんよう)に向かう途中で造反の気配を見せた秦兵20万人を穴埋めにして殺している。また、子嬰が降伏して秦が滅亡した後、項羽は子嬰一族や官吏4千人を皆殺しにし、咸陽の美女財宝を略奪して、さらに始皇帝の墓を暴いて宝物を持ち出している。そして殺戮と略奪の限りを尽くした後、都に火をかけ、咸陽を廃墟としたのである。

【項羽と劉邦の時代の漢族は滅びた】

 力を合わせて秦を滅亡させた項羽と劉邦であったが、その直後から対立は始まり、楚漢戦争が勃発。紀元前202年の垓下(がいか)の戦いで劉邦は項羽をやぶり、漢(前漢)を建国する。残虐な項羽に比べて人格者のイメージの劉邦であるが、決してそうではない。きちんと中国史の伝統を受け継ぎ、天下を取った後は粛清の連続である。関ヶ原で天下を取った家康が功労のあった多くの武将に領地を与えたのと同じように、天下を取った劉邦も功労者に封土と王位を与えた。しかし、功労者は実力者であり、天下を取った後は目ざわりでしかない。楚(そ)王・韓信や梁(りょう)王・彭越(ほうえつ)ら天下統一に最も貢献した者たちは、謀反の疑いをかけられ、一族皆殺し、族誅された。 しかも、梁王・彭越は誅殺された後、塩漬けにされ、その肉は群臣に漏れなく配られた。「こういう目に遭うぞ」という恐怖政治の極みである。劉邦は紀元前195年に亡くなるが、その時には王位についているのは、ほとんど劉氏一族の者ばかりとなっていた。
 高祖・劉邦が没して劉盈(恵帝)が即位すると、劉邦の妻・呂后(りょごう)は皇太后としてその後見にあたる。この呂后がまたすさまじい。まず、恵帝の有力なライバルであった高祖・劉邦の庶子である趙(ちょう)王如意(にょい)とその生母・戚(せき)夫人を殺害した。この時の呂后の殺害の仕方は、猟奇的などという次元をはるかに超えている。呂后は戚夫人を奴隷とし、趙王如意殺害後には、戚夫人の両手両足を切り落とし、目玉をくりぬき、薬で耳・声をつぶし、その上でまだ生きたまま便所に投げ入れて人彘(人豚)と呼ばせたという。呂后は我が子である劉盈(恵帝)以外のほとんどの劉邦の息子を殺し、呂氏一族を要職に付け専横をほしいままにする。しかし、これまた因果は巡るで、呂后の死後、逆に呂氏一族は族誅される側に回り、皆殺しされるのである。
 漢はこの後、血気盛んに領土を拡大した武帝の時代などを経て、約200年でその時代を終える。帝室の外戚である王莽(おうもう)が、事実上国を乗っ取り、紀元8年「新」という王朝を建てる。しかし、この「新」王朝は、紀元17年に始まった反乱の全国的な拡大により、わずか15年でその幕を閉じる。
 さて、この「新」王朝建国の直前、紀元2年に中国史上で最初の人口統計が現れる。『漢書』の『地理誌』にある「口、五千九百五十九万四千九百七十八」という記述である。約6000万人である。ところが前述した全国的な戦乱と飢餓の結果、23年に「新」王朝が滅んだ時には中国の人口は6000万の半分に、さらに劉秀(後漢の光武帝)によって再統一される37年までに、さらに半減したと言われている。つまり、17年から37年までの20年間で、75%も人口が減り、約1500万人になったことになる。その後の後漢の人口統計に見れば、これはほぼ事実と考えられる。『続漢書』の『郡国史』によれば、人口は57年に約2100万人、75年に約3400万人、88年に約4300万人、
105年に約5300万人と推移している。これから推計すれば、37年には1500万人くらいであったろう。
 戦乱と飢餓による人口の激減というのはどの国においてもあったことだが、とりわけ中国においては甚だしい。そして、戦乱・飢餓で人口が激減し衰微しきったところに、近隣の異民族が侵入してくる。それが我が国にはない中国史の特徴である(と言うより、我が国のように異民族による侵入がない方が世界に類例がないと言えるが)。「新」王朝期の人口激減は、中国史において数字が残されている最初のものである。
 37年に劉秀(後漢の光武帝)による天下統一で誕生した後漢であるが、長くは続かなかった。184年に黄巾の乱、五斗米道の乱と相次いで宗教秘密結社による反乱が起こり、それがきっかけとなって各地に群雄が乱立する天下大乱の時代に突入する。『三国志』の時代の到来である。『三国志』の時代と言うと、血沸き肉踊るイメージがあるかもしれないが、現実には戦乱が打ち続く歴史上稀に見る悲惨な時代であった。黄巾の乱後、正史の記録には、「白骨山のように積み」「人は共喰」「千里に人煙を見ず」といった記述が多い。当然、人口は再び激減した。先に見たように、後漢の時代、人口は5000万人を超えるところまで増えた。それが戦乱の三国時代にどこ
まで減ったのか。なんと約十分の一になったと言われてる。事実上、それまでの漢族は滅びたと言ってよい。
 なお、『三国志』とは、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国が争った三国時代の歴史を述べた歴史書であり、撰者は晋の陳寿である。それとは別に、歴史書『三国志』に逸話や創作を盛り込んだ小説『三国志演義』というのがあり、これは明代に成立している。私たちが横山光輝の漫画などで知っている『三国志』はこの『三国志演義』をベースにした物語である。
 三国時代という内戦時代の後、一時的に晋が中国を統一するがわずか20年で瓦解し、再び戦乱と分裂の時代に突入する。「五胡十六国時代」である。五胡とは、匈奴(きょうど)・鮮卑(せんぴ)・羯(けつ)・氐(てい)・羌(きょう)の五民族を意味し、十六国とは北魏末期の史官・崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づく表現で、実際の国の数は16を超えた。要するに、従来の漢族が内戦により自滅的に激減した状況下で、様々な民族が中国の中に入り乱れ、小国を建てる時代が到来したのである。「五胡十六国時代」は304年から439年まで続き、439年に至って従来の中華である中原から現在の北京を含む華北一帯を北魏(ほくぎ)が統一する。では、この北魏を打ち立てた
民族は何だったのか。先の五胡の中の鮮卑。鮮卑とは北方の遊牧民である。それに対して、わずかに生き残った従来の漢族は南に逃れて王朝を建てた。そのためこの時代を中国における「南北朝時代」(439年~589年)と呼ぶ。南北朝時代に終止符を打ったのは隋による中国統一であるが、この隋も鮮卑による王朝であった。
  「五胡十六国時代」から隋の時代にかけて、中国語は大きく変質した。鮮卑は文字を持たなかったため、話していた言語がテュルク系であったかモンゴル系であったか、正確には分からない。ただ、アルタイ系言語(北東アジア・中央アジアから東欧にかけての広い範囲で話されている諸言語)であったことはほぼ間違いない。隋の天下統一の直後、601年に鮮卑人の陸法言という人物が、『切韻』という字典を編纂する。これは漢字を発音別に分類し、漢字の発音の標準を定めようとしたものであるが、そこにはアルタイ系発音の特徴が随所に見られる。このことからも、この時代の中国人は、すでに始皇帝や劉邦の時代、秦・漢時代の中国人の子孫ではなかった
ことが分かる。
 なお、五胡十六国の諸国や北朝、あるいは隋・唐は、既に述べた清や元などと同じく異民族王朝であるが、明確な征服行為を欠くため「征服王朝」とは呼ばれず「浸透王朝」という用語で定義される。











































中国4000年のおそろしさ

2016年01月07日 | 中国
ゆっくり殺す支那の刑罰


中国人は人肉食を好む



"中国4000年のおそろしさ"――不気味な隣人の素顔
【中国4000年の“抗争と断絶”の歴史】

 よく「中国4000年の歴史」という。しかしこの4000年の歴史は、実は繰り返される断絶の歴史、もっと言えば血で血を洗う抗争の歴史といってもよいくらいだ。
 それを象徴する言葉が「易姓革命」である。易姓革命とは、天下を治める者は、その時代に最も徳がある人物がふさわしい。天が徳を失った王朝に見切りをつけた時、革命が起きるという中国の伝統的な政治思想である。

天や徳といった言葉が使われているが、実のところは新王朝が史書編纂などで歴代王朝の正統な後継であることを強調する一方で、新王朝の正当性を強調するために前王朝と末代皇帝の不徳と悪逆を強調する。それを正当化する理論として機能していたのが易姓革命の思想なのだ。そのため中国の歴史は、決して誇張ではなく血で血を洗う抗争に次ぐ抗争であり、4000年の歴史と言っても私たち日本人がイメージしているような悠久の歴史では全くない。江戸時代の儒学者であり、軍学者であった山鹿素行はその著『中朝事実』においてその点を指摘し、「中国では易姓革命によって家臣が君主を弑することがしょっちゅう起こっている。中国は中華の名に値しない。
建国以来万世一系の日本こそ中朝(中華)である」と主張した。素行も説いた中国の抗争と断絶の歴史をさかのぼりながら見ていこう。

【清朝は漢族ではなく満州族の王朝】

 例えば、今の中華人民共和国の前は、中華民国。その前は清。ここまでは誰もが知っているだろうが、この清朝はいわゆる「中国人」の主流派である漢族の王朝ではない。北方の満州族が打ち立てた王朝なのだ。前述した素行はこの点についてもきちんと指摘していた。この満州族が中国を支配していた清の時代に持ちこんだものの中には、今私たちが中国の伝統的なものと誤解しているものも少なくない。例えばチャイナドレスがそうだ。チャイナドレスは丈の長い詰め襟の衣服だが、あれは元々北方に住む満州族の防風防寒のための衣服だったのだ。
 実はこの満州族の王朝である清朝により、「中国」は拡大してほぼ今の「中国」とイコールになった。それまではもっと狭い地域を指していたのだ。少し考えてみれば分かることだが、誰もが知っている世界遺産の万里の長城。あれは外敵の侵入を防ぐために造られたものなのだから、長城の向こう側は「中国」ではなかった。その「中国」ではない地域、満州において1616年に建国した後金(こうきん)国が清の前身である。後金国の首都は遼陽(りょうよう)から後に瀋陽(しんよう)(旧称奉天)に移されたが、つまり遼陽も瀋陽も当時は「中国」ではなかった、「中国」の外にあったのである。後金は1636年に国号を大清に改め、1644年に万里の長城を越えて北京に都を移す。こうして満州族の征服によって、満州から旧「中国」までを含む現「中国」が誕生したのである。

【古代、「漢族」は存在しなかった】

 清の前は、明。明の前は元。これくらいは多くの日本人が知っている。それより前になると、あやしくなる人が多いであろうが、さかのぼって見ていこう。北に金、南に宋の両王朝が併存していたのが、平清盛が日宋貿易を行なった時代である。さらにさかのぼると北宋の時代、五代十国時代となり、その前、6世紀後半から10世紀にかけてが、遣唐使・遣隋使で馴染みのある唐や隋の時代。その前は、南北朝時代、五胡十六国時代、そして『三国志』で名高い三国時代は220年頃から300年頃。その前は、漢字や漢族という言葉の元となる漢王朝で、始まりは紀元前206年にまでさかのぼる。漢は前漢と後漢に分けられるが、前漢を起こしたのが小説や漫画で知られている劉邦である。そして、前漢の前が始皇帝で名高い秦(しん)。東アジアの大陸部に「中国」と呼んでもいい政治的統一体が完成したのは、この秦の始皇帝による統一(紀元前221年)からだ。
 「中国4000年の歴史」と言われるが、まだ半分にしか達していない。秦の始皇帝による統一前、いわゆる先秦時代はどういう状態であったかと言うと、「中原(ちゅうげん)」と呼ばれる黄河中流域の平原地帯を巡って、諸族が争い攻防を繰り返していた。今、諸族と書いたが、読者は「諸族というのは漢族とその他の少数民族のこと?」と思ったかもしれない。そうではない。実は古代中国の時代には「漢族」などという種族は存在しなかったのだ。読者は「東夷(とうい)・西戎(せいじゅう)・南蛮・北狄(ほくてき)」という言葉を聞いたことがあるだろう。今、日本人に馴染みのあるのは「南蛮」くらいだが、元々は4つセットで「四夷」と呼ばれる。中国の周り、
東西南北に住む野蛮人というような蔑称だ。中華思想を象徴する言葉だが、実は元々、中華に値するのは前述した黄河中流域の中原しかなかった。それ以外に住む種族は、例えば今の北京や上海に住んでいた種族もみな「夷・戎・蛮・狄」であったのである。そればかりではない。先秦時代の王朝として夏(か)・殷(いん)・周の三王朝が中原にあったが、夏は東南アジアの海洋民族(東夷)、殷は北の狩猟民族(北狄)、周は東北チベットの遊牧民(西戎)ではなかったかと言われているし、中国統一を成し遂げたした秦も西戎である。西戎のさらに西、ペルシャ系の遊牧民ではなかったかという説もある。いずれにしても、豊かな都市国家・中原を巡って、文字どおり諸族が入り乱れ、それによって誕生した混血雑種が漢族なのである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F


























今年こそ戦後レジュームからの脱却を

2016年01月05日 | 中国


老兵・マッカーサーはなぜ「日本は自衛の戦争だった」と証言したのか…

http://www.sankei.com/premium/news/151224/prm1512240003-n5.html




「老兵は死なず。ただ消えゆくのみ。神が示すところに従い自己の任務を果たさんと試みた一人の老兵として。さようなら」
 1951年4月19日。米上下院合同会議で、連合国軍最高司令官(SCAP)として日本を占領統治した陸軍元帥のダグラス・マッカーサーは半時間の退任演説をこう締めくくった。

 後に第37代大統領となる共和党上院議員のリチャード・ニクソンは演説を聴き、その感激は自著「指導者とは」にこう記した。
 「マッカーサーは古代神話の英雄のようだった。彼の言葉は力強く議場全体が魔術にしびれ、演説は何度も拍手で中断された。ある上院議員は『共和党員は感激でまぶたを濡らし、民主党員は恐怖でパンツを濡らした』と語った…」

 8日前の11日、マッカーサーは第33代米大統領、ハリー・トルーマンに全ての役職を解任され、帰国した。人生の黄昏を感じさせる演説だが、心中は闘争心でみなぎっていた。

 米国内のマッカーサー人気は絶大だった。愛機「バターン号」がサンフランシスコに到着した際は50万人以上が出迎え、ワシントン、ニューヨーク、シカゴ、ミルウォーキーの各地で行われたパレードには総勢数百万人が集まった。逆に「英雄」を解任したトルーマンに世論は冷ややかで、マッカーサーの第二の人生は順風満帆に見えた。



 米上院軍事・外交合同委員会はマッカーサーを聴聞会に召喚した。テーマは「極東の軍事情勢とマッカーサーの解任」。背景にはトルーマン政権に打撃を与えようという共和党の策謀があった。
 マッカーサーは快諾した。大統領選の指名争いに有利だと考えたからだ。狙い通り、世界中のメディアが聴聞会の動向に注目し、事前から大々的に報じた。
 5月3日の聴聞会初日。証言台に立ったマッカーサーは質問に誠実に応じ、1950年6月に勃発した朝鮮戦争の経緯をよどみなく説明し続けた。

質問者の共和党上院議員、バーク・ヒッケンルーパーは「赤化中国を海と空から封鎖するという元帥の提案は米国が太平洋で日本を相手に勝利を収めた際の戦略と同じではないか」と質した。
 マッカーサーの戦略の正当性を補強するのが狙いだったが、マッカーサーの回答は予想外だった。
 「日本は4つの小さい島々に8千万人近い人口を抱えていたことを理解しなければならない」
 「日本の労働力は潜在的に量と質の両面で最良だ。彼らは工場を建設し、労働力を得たが、原料を持っていなかった。綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、スズがない、ゴムがない、他にもないものばかりだった。その全てがアジアの海域に存在していた」
 「もし原料供給を断ち切られたら1000万~1200万人の失業者が日本で発生するだろう。それを彼らは恐れた。従って日本を戦争に駆り立てた動機は、大部分が安全保障上の必要に迫られてのことだった」

 会場がどよめいた。証言通りならば、日本は侵略ではなく、自衛のために戦争したことになる。これは「侵略国家・日本を打ち負かした正義の戦争」という先の大戦の前提を根底から覆すどころか、東京裁判(極東国際軍事裁判)まで正当性を失ってしまう。
 もっと言えば、5年8カ月にわたり日本を占領統治し「民主化」と「非軍事化」を成し遂げたというマッカーサーの業績までも否定しかねない。
 この発言は共和党の期待を裏切り、激しい怒りを買った。マッカーサー人気はこの後急速にしぼみ、大統領の夢は潰えた。

 マッカーサーは、朝鮮戦争を通じて北朝鮮の背後にいるソ連、中国(中華人民共和国)という共産主義国の脅威を痛感した。
 朝鮮と台湾が共産主義国の手に落ちれば、日本も危うく、極東での米国の陣地は失われ、防衛線は米西海岸まで後退しかねない。それを防ぐには朝鮮半島を死守するしかない。この見解は国務省や国防総省にも根強くあった。
 ところが、トルーマンは、北大西洋条約機構(NATO)加盟国が「中ソと徹底的に対立すれば、欧州はソ連の報復攻撃を受けかねない」と動揺したこともあり、北緯38度線付近で「痛み分け」にする策を練っていた。

 これに対して、マッカーサーは中国を海と空で封じ込め、毛沢東率いる共産党政権を倒さねば、将来の米国の安全を脅かすと主張して譲らなかった。これがトルーマンがマッカーサーを解任した理由だった。

 マッカーサーの主張は、その後の歴史をたどっても説得力がある。ただ、朝鮮半島を死守しつつ、大陸の中ソと対峙するという戦略は、日本政府が独立を守るために日清戦争以来とってきた戦略と変わりない。
 「過去100年に米国が太平洋地域で犯した最大の政治的過ちは共産勢力を中国で増大させたことだ。次の100年で代償を払わなければならないだろう」
 マッカーサーはこうも語った。これは「米国は戦う相手を間違った。真の敵は日本ではなくソ連や中国共産党だった」と言っているのに等しい。
 マッカーサーは日本の占領統治と朝鮮戦争を通じて日本の地政学的な重要性に気づいたに違いない。「自衛戦争」発言は、自らの戦略の優位性を雄弁に語るうちにポロリと本音が出たとみるべきだろう。

 他にもマッカーサーは重要な証言を残した。
 民主党上院議員、ラッセル・ロングが「連合国軍総司令部(GHQ)は史上類を見ないほど成功したと指摘されている」と称えたところ、マッカーサーは真っ向から否定した。
 「そうした評価を私は受け入れない。勝利した国家が敗戦国を占領するという考え方がよい結果を生み出すことはない。いくつか例外があるだけだ」
 「交戦終了後は、懲罰的意味合いや、占領国の特定の人物に対する恨みを持ち込むべきではない」
 それならば日本の占領統治や東京裁判は一体何だったのかとなるが、これ以上の追及はなかった。
 別の上院議員から広島、長崎の原爆被害を問われると「熟知している。数は両地域で異なるが、虐殺はどちらの地域でも残酷極まるものだった」と答えた。原爆投下を指示したトルーマンを批判したかったようだが、原爆を「虐殺」と表現した意義は大きい。

 このように3日間続いた聴聞会でのマッカーサー証言は日本人を喜ばせたが、ある発言で一転して激しい怒りと失望を招いた。
 「科学、芸術、神学、文化においてアングロサクソンが45歳だとすれば、ドイツ人も同程度に成熟していた。日本人はまだわれわれの45歳に対して12歳の少年のようである」
 ただ、この発言の前後で「学びの段階に新しい思考様式を取り入れるのも柔軟だ。日本人は新しい思考に対して非常に弾力性に富み、受容力がある」とも述べている。「日本人の柔軟性」をよい意味で少年に例えたといえなくもない。
 日本人は大戦で勇猛に戦い、米軍を震撼させながら、敗戦後は驚くほど従順でマッカーサーの治世を称賛した。マッカーサーにはその姿が「12歳の少年」に映ったのではないか。
 1952年7月の共和党大会で、かつての部下で欧州戦線の最高司令官を務めたドワイト・アイゼンハワーが指名され、1953年に第34代大統領に就任した。

 マッカーサーは引退し、ニューヨークのホテル・ウォルドーフ・アストリアのスイートルームで愛妻ジーンと余生を過ごした。軍人時代と同じく常に居間を歩き回り、昼寝を欠かさない規則正しい生活を送った。
 マッカーサーを尊敬するニクソンは、GHQ民政局長だったコートニー・ホイットニーを通じてホテルの自室に招かれ、その後何度も教えを請うた。ただ、欠点も見抜いていた。
 「マッカーサーの最大の過誤は政治的野心を公然と示し、軍事的声望を政治的資産に転じようとしたことだった…」

 1964年4月5日午後2時39分、マッカーサーはワシントン近郊のウォルター・リード陸軍病院で84年の生涯を閉じた。ポトマック川岸は桜が満開だった。
 元首相、吉田茂は産経新聞に「天皇制守った恩人」と題した追悼文を寄せた。昭和天皇も米大統領宛に弔電を打った。葬儀は8日に米議会議事堂で営まれ、吉田も参列した。

 毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい人生だった。マッカーサーの評価は日本でもなお定まらない。ただ、上院聴聞会での証言は軍人マッカーサーの偽らざる思いであり、一種の懺悔(ざんげ)だったのかもしれない。その遺体はバージニア州ノーフォークのマッカーサー記念館にジーンとともに葬られている。

日本が再認識されてきた


◆1945 年の第二次世界大戦終結から 2010 年 7 月に至るまで、アメリカは 6 回、カナダは1867 年憲法が 16 回、1982 年憲法が 2 回、フランスは 27 回(1958 年の新憲法制定を含む)、ドイツは 57 回、イタリアは 15 回、オーストラリアは 3 回、の憲法改正をそれぞれ行った。