庄街道を進み鮎喰川の堤へと
六十六部の碑と顕彰碑があり

祠も作られて···(上部の字が不明)の墓もあります

上鮎喰橋の下流側の歩道のそばに立つ道標
上流側の橋の側には地蔵越え 又は眉山の麓の遍路道の道標があります

上鮎喰橋を国府側へ渡り下流へ向かって堤の上の道を通り
JR鉄道の高架高へ下ると
お地蔵様があります
井戸寺から恩山寺への遍路道として
このお地蔵さまと六十六部の碑辺りへ渡しがあったのかな?

このお地蔵さまも高い高い位置におわします

少し井戸寺へ向かうと本光寺があり

並んで八幡神社があります
明治六年南北氏子と鳥居に彫られています
広い南北の岩延地域の地神さんのようです

くなど神様か辻の神様か?
祠がズラリとならび
一番端の丸い碑には山王社と彫られています

神社の前の五角地神塔
倉稲魂神社、大己貴神社、少彦名神社、
天照星大神宮、植安姫神社と
各面に彫られています
今までは天照の神様の碑かと思っていました
追記・・・2021年2月1日
地神塔 - Wikipediaよりコピー
徳島藩では、五神名地神塔を祀る信仰が藩の主導で広まった [5]。 徳島城 下にある 富田八幡宮 の 祠官 ・早雲古宝が1789年( 寛政 元年)に藩主 蜂須賀治昭 に進言したのが始まりとされ、各村浦では五角柱の地神塔を奉斎し、 庄屋 が斎主となって春秋の二回、 五穀豊穣 を祈願した [13]
徳島藩では五神名地神塔の信仰が多いそうです

遠くに井戸寺の甍の屋根が見えるけど
新しい道が縦横につくられ
住宅がどんどん増えて昔を偲ぶ道が分からず
迷い迷って

やっと井戸寺へ着きました
帰りは観音寺からの伊予街道沿いに
阿波木偶製作者の天狗久の工房の前から上鮎喰橋へ
橋の袂の鮎喰川の川原から此方へ移されたお地蔵様の元へ(写真は省略しました)
この辺りにも渡しがあったのかな?
六十六部の碑と顕彰碑があり

祠も作られて···(上部の字が不明)の墓もあります

上鮎喰橋の下流側の歩道のそばに立つ道標
上流側の橋の側には地蔵越え 又は眉山の麓の遍路道の道標があります

上鮎喰橋を国府側へ渡り下流へ向かって堤の上の道を通り
JR鉄道の高架高へ下ると
お地蔵様があります
井戸寺から恩山寺への遍路道として
このお地蔵さまと六十六部の碑辺りへ渡しがあったのかな?

このお地蔵さまも高い高い位置におわします

少し井戸寺へ向かうと本光寺があり

並んで八幡神社があります
明治六年南北氏子と鳥居に彫られています
広い南北の岩延地域の地神さんのようです

くなど神様か辻の神様か?
祠がズラリとならび
一番端の丸い碑には山王社と彫られています

神社の前の五角地神塔
倉稲魂神社、大己貴神社、少彦名神社、
天照星大神宮、植安姫神社と
各面に彫られています
今までは天照の神様の碑かと思っていました
追記・・・2021年2月1日
地神塔 - Wikipediaよりコピー
徳島藩では、五神名地神塔を祀る信仰が藩の主導で広まった [5]。 徳島城 下にある 富田八幡宮 の 祠官 ・早雲古宝が1789年( 寛政 元年)に藩主 蜂須賀治昭 に進言したのが始まりとされ、各村浦では五角柱の地神塔を奉斎し、 庄屋 が斎主となって春秋の二回、 五穀豊穣 を祈願した [13]
徳島藩では五神名地神塔の信仰が多いそうです

遠くに井戸寺の甍の屋根が見えるけど
新しい道が縦横につくられ
住宅がどんどん増えて昔を偲ぶ道が分からず
迷い迷って

やっと井戸寺へ着きました
帰りは観音寺からの伊予街道沿いに
阿波木偶製作者の天狗久の工房の前から上鮎喰橋へ
橋の袂の鮎喰川の川原から此方へ移されたお地蔵様の元へ(写真は省略しました)
この辺りにも渡しがあったのかな?