浄心庵・長尾弘先生「明来闇去」

 ~ 誰れもが幸せになれる御教え ~

明来闇去

2021-03-14 00:12:04 | 明来闇去

   恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

        第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

        心の教えを正しく行うと証がついて回る


            個我の力ではない癒しのパワー

体中に癌が出る多様性の癌という病気に罹った方がいらっしゃいました。
七月の終わりにもう盆までは命は持たないだろうと診断され、体力がなくなり
電灯を見る気力もなかったそうです。
その方の主治医は私の縁ある方の息子さんでした。
お医者さんのお母さんは癌の方が息子の友人でしたから、かわいそうに思い、
当方に見えて、彼に飲ませるお水に光を入れてくださいと言われました。
そこで、水に対して祈りました。
「水は命の親様です。この水を通して命をお与えください」と。

その水を運んでくださり、飲ませているうちに癌がすっかり
消えてしまったということです。
その方はある新興宗教系の大学を出られ、宗教団体の幹部だったそうです。
他の信仰には耳を貸さず、私とはまったく会う機会もなかった方です。
水も飲めなかったのが、一週間もしたらコーヒーが飲めるようになり、
食事を受け付けるようになったそうです。
九月に退院し、十月から職場復帰され、年末には死にかけていたはずの方が
全快して島根の銘酒を三本下げて、そのお医者さんのお母さんのお宅に御礼に
訪れたそうです。
そのうち一本をいただきました。

こういう話をしていると、自慢話しばかりだと言われる方もあると思います。
ただ神が現わしてくださる御業を神の子として述べ伝えさ
せていただいてるだけのことです。
神はこのようなお力をお持ちです、
このようなお力をお現わしです、ということをお伝えしているだけなのです。
「神が病気を癒し給い、医者がその手柄を横取りする」という言葉もあります。
お医者さんといえども、ただ自然治癒能力のお手伝いをしているだけです。
それを「わしが治してやった。わしが治してやった」と思っていると、
いつの日か必ずその業を受けます。

相手の業を自分が受けてしまいます。
すべての癒しというのは、私たち以外の力により、
その御業がなされていると
いうことをしることが大切です。
今から二十五年ほど前のことです。
私の身の上にいろいろと不思議な事が起きておりました。
「人さんに助かってほしい。人さんを助けさしてほしい」と
私はよく思いました。
しかし「人を助けて我が地獄」ということはよくあります。

拝み屋さんにしても、不思議な癒しをされる人でも、あるいは霊的に治す人でも、
相手の病を治すけれど、自分が人々の業を受けて苦しむ方がたくさんいます。
或る時、私より背の高い立派な紳士が現れて、「もう生きる希望もありません。
仕事する気力もありません。もう死にたいんです」と言われます。
「ああ、そんなものは心の病気です。心を学んで心を正しなさい」と言いますと、
「いやあ、実は私はその専門家です」とおっしゃいました。
よく聞く話しです。
精神病院のお医者さんが心の病になるとか、癌の専門医が癌に倒れるとか、
よく聞く話しです。


明来闇去

2021-03-13 00:27:37 | 明来闇去

 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

         第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

          心の教えを正しく行うと証がついて回る


                ミラノの聾唖者の少女

先の続き・・・

サーラは私の名前をナガオと教えますと、最後の「オ」をとくに長く伸ばして
一音ずつ一生懸命に発音してくれました。
翌日は、すでに百何十キロと離れたところのレストランにおりましたが、
もうほぼ正常になったという連絡がお母さんから電話で入りました。
生まれてから十何年も声というものを聞いていなかったら、たとえ耳が聞こえるようになっても、
それが何を言っているのかわからないのが普通です。
それが不思議なことに、その状況の中で周囲の人々の愛に支えられながら理解できたのです。
コレットの社長が言いました。
「あなたは偉大な方だ」
日本から行った人たちが言いました。
「今ごろ気が付いたのか。遅すぎるよ」

東京にも同じケースの方がいらっしゃり、
やはりこちらが何か言うといっしょになって笑っていました。
これは医学では考えられないことです。
しかし、事実です。
それから、強度の弱視者の方ですが、手を引かれてやっと連れて来られた方が、
十分もしないうちに正常になってしまわれました。
これも考えられないことです。
ロンドンの青年は十三年もの長い間、
交通事故のために車椅子の生活をしていましたが、その場で立ち上がり、
歩行できるようになりました。
聖書にはイエス様が現わされた奇跡がたくさん書かれてあり、
その奇跡のゆえに聖書が信じられないという人がよくあります。
しかし、ああいう奇跡は実際に起こるのだということを数限りなく体験させていただき、
また周囲の方々にも見せられてまいりました。

聖書にはラザロの復活という蘇生の一場があります。
私も似たようなことがありました。
頼まれて病院にかけつけると、お医者さんが御臨終ですと言われ、
家族の人々は泣いていました。
しかし、その方のそばに行くと、まだ大丈夫だという気がしました。
そこで、「あなたはまだ肉体を去ってはいけない、
肉体の中に帰って来なさい」と言いますと、その方は直ちに生き返ってくれました。
目をあけて、「僕はどこへ行ってましたんや」と尋ねられるので、
「あなたはあの世に行ってたんです」と答えました。
水がほしいと言われます。
氷を一つもらってきて、口を開けなさいと言うと、口を開けました。
もう何日も食事をしていないから、口を開けると茶色の糸がたくさん引きます。
その口に氷を入れてあげると、今でもありありと印象に残っていますが、
「あー、おいしい!」とおっしゃいました。
当時二十四歳の青年でした。
まだ元気に生きています。

ちなみに、ラザロの場合は、
イエスが世間に名声を博すことを心配したユダヤ教の人々が、
暗殺者を差し向け、せっかく蘇生したラザロは、その日の夜また
殺されたと言われています。
イエス様も十字架にかかって亡くなる時に、泣いてすがる、彼を愛した人々に
向かって、「泣くことはない。あの者たちを恨んでもならない。彼らは自分の
過ちを知らないからである」と言われたそうです。

人間が本来神の分け御霊であるということ、
本来は永遠の生命につながっているのだということ、
死んだらまた光輝く魂のふるさとに帰るのだということ、
そして人の命の生殺与奪の権はすべて神の御手にゆだねられていること。
これらの真理を一日も早く人類すべてが悟るべきであると思います。


明来闇去

2021-03-12 01:18:02 | 明来闇去
 
 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

        第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

        心の教えを正しく行うと証がついて回る


             ミラノの聾唖者の少女

奇跡というのは自分が起こしたように錯覚しがちですが、しかし、奇跡とは
実は正しい法にのっとった生活を前提にして、神様が現わされるものです。
だから、たとえ私が知らなくても、他の人たちにその現象を証し、すなわち
現証を見せて下さいます。
イタリアのミラノにまいりました時も、
聾唖者の娘さんが突然耳が聞こえるようになり、
言葉を話せるようになられました。
これにはその母親も、その場のみなさんも
感激のあまり涙が止まりませんでした。
サーラという名のその少女は、
コルシカ島出身の父親の友人でコレットという
有名な靴屋さんの社長の所有する、
日本の皇居よりも広大な敷地の一角にある
奇跡の館という屋敷の近くに住んでいました。

そこでは鹿やキジが見られ、門から相当の距離を車で走ります。
彼女は当時十九歳でした。
親以外には吠えるばかりでした。
人が怖くて握手を求めると手を引っ込めてしまうのでした。
「神との約束を果たしなさい。神との約束とは大調和です。
耳は本来の使命を
果たしなさい。はっきりと聞きなさい」と言いながら、
横たわるサーラの耳に
何度となく息を吹きかけながら話しかけると、
だんだんと聞こえ始めました。
彼女は起き上って、最初は教えられたままに、
「マーマ」と口真似して声を発しようと努力していました。

その音と言葉の意味が結びついて、誰を指す言葉かということは、
教えられないとすぐにはわかりませんでした。
が、そのうちに生まれてはじめて、お母さんに向かって
「マーマ」と発声できたのです。
それとともに拍手と歓声が上がりました。
感動的な場面でした。
しかし、さらに彼女が、嬉しさのあまり饒舌になっているお母さんに向かって
鼻の先に人差し指を立てて「シ―ッ」とやったシーンが最も感動的な一瞬でした。
ずっと沈黙の世界に生きてきたこの少女にとって、人の声はあまりにも
新鮮な尊いものとして聞こえたと思います。


明来闇去

2021-03-11 00:40:58 | 明来闇去
 
 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

        第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

       心の教えを正しく行うと証がついて回る


              神癒と自然治癒力

先の続き・・・

いちばん大きい癒しいうのは、なんといっても自分自身が自己の内部の神なる
我に目覚めることです。
「神我」のことです。
神様は私たちに「いとし子よ」と呼びかけてくださいます。
私たちが神のいとし子ならば、神様は私たちのお父さんです。
もともとお父さんの命から分かれた私たちの命ですから、お父さんである神様と
私たちの本質とはなんら変わりがありません。

神様は全知全能であり、そして完全無欠です。
私たちの生命の中に、神様と同じ全知全能の生命が宿っていてくださるのであれば、
神様に病がないように、私たちにも病があるはずがありません。
それを強く自分に言い聞かせることです。

魂のふるさとにいた時は「我 神とともにあり」というはっきりした自覚があり、
したがって生命の永遠性ということがわかっていても、
この地上で肉体を持って生活するとなると、
肉体の五官の煩悩のため神様から心が離れてしまい、
この真理は忘れられてしまいます。
それをまた思い出させる。
これこそは神の癒しです。

本当なら誰しもが自ら癒すことができるのです。
といっても、なかなかそれができないから、
そのお手伝いをさせていただくことになります。
神様から癒しの力である愛を直接いただき、
それが治療に見えた方に流れ入るための中継です。
世間的な意味でのすべての個人的楽しみを持たず、
自分の時間を全部この癒しと法のお話を縁ある方々に
させていただくために捧げてきました。

たまにしんどいなあという思いが脳裏をよぎることがあります。
ただ、これは肉体がそう感じているにすぎません。
魂の部分、内なる神我のほうは、こうした人生を望んで生まれ、
光の世界より降りてきているのだと思います。
つまり、魂の選択の結果として、今日までの人生があるのです。
誰もが自分の親のゆるしをえて、天上界で縁の深い方々と約束して、
この世に修業に出てきています。
不平不満を抱くことはありません。
本来の内なる自分の声に耳を傾けたなら、このことはがわかってきます。

「四六時中休むことなし我が行は 父(神)との誓い有ればこそなり」(弘)




明来闇去

2021-03-10 00:35:13 | 明来闇去
 
恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

          第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

          心の教えを正しく行うと証がついて回る


                神癒と自然治癒力

先の続き・・・

人間だけがどうして病気が治りにくいかというと、
盃一杯の病気が起きると、
ドラム缶一杯ほどの心配をするからです。
「ああ、えらいことだ、これはなんだろうか。
もっと悪くなったらどうなるんだろうか。

ずっと進んだら死ぬかもしれない。死んだらあと家をどうするか」
などと、死んだ後のことまで、次から次へと心配をします。
自分で自分の命を縮めているようなものです。
こんな思いのままいたら、死んでも極楽には行けません。
要らぬ心配が自然治癒力を妨げるのです。

せっかく、自然は治してやろうという愛を与えてくださっているのに、
人間が要らぬ心配をして、それによって病気の回復を遅らせ、
お医者さんのお世話になるのです。
昔は、お医者さんも名医と呼ばれる方は、

脈一つとればどこが悪いかということをみな当てられたそうです。
もともと、診療の方法には三つありました。
視診と問診と触診がそれです。
目で患者さんの顔色や様子全体や患部を見て確かめるのが視診。
どんな具合ですかと尋ねるのが問診。
触れることによってここは痛いですかなどと調べるのが触診。

ところが、今では、私たちが病院に行くと、まず血を採られ、
レントゲンを撮られ、エコーという超音波による検査を受けます。
機械で行なわれるのであって、
機械にお医者さんが頼りきっているかのようです。
本来は治す者は手を当てて治していました。
「手当て」といって、私たちの遠いご先祖様はみな、
手を当てて治してくださったのです。

この肉体には癒しの力が与えられています。
転んで頭を打っても、ああ痛いとさすっているうちに、治ってきます。
よく子どもさんが頭を打ちつけて大きなこぶをつくり、連れて来られます。
手を当てて、二、三分すると大きなこぶが
消えてしまった経験がいくつもあります。
これも自然治癒の力が働いた結果です。



明来闇去

2021-03-09 00:46:00 | 明来闇去
 
恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

        第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

        心の教えを正しく行うと証がついて回る


              神癒と自然治癒力

もともと私たちには自然治癒力、
あるいは自己治癒力と呼ばれる能力が与えられています。
それはまさに神様から与えられている力です。
神様は傷つき病んだすべてのものに対して治そう治そうとしておられます。
自然治癒力、あるいは自己治癒力の存在と作用については、
科学者も医学者も認めるところです。

ただ、それを「神の癒し」ですと言うと、
なかなか認められなくなってまいります。
自然界には、汚れても浄めてあげようという自然浄化作用があるし、
また怪我をしたら元に戻そうとする作用もあります。
それこそが実は神の愛なのです。

そういう神癒の力にこの自然界は満ちています。
別の言葉で言えば、生命力が横濫しているとも言えると思います。
あとはこれに気付いて、できるだけ欲を出さず、余分な心配をせずに、
私たちを生かし、幸せと健康を願ってくださる神様の愛に
感謝して生活していくことでしょう。

動物、植物は余計な心配をしないから、いただいた
この自然治癒力が十分に働きます。
人間は自分の心のアンテナの方向を狂わせてしまう結果、
この力をいただきながら、
みすみすその力の発揮を邪魔しています。
この地球上で、お医者さんの世話にならなくてはならないは人間だけです。
家畜やペットはお医者さんの世話になるといっても、
飼い主が連れていくだけです。

草木も同様に自然治癒力を与えられています。
刈り込めばたちまちにして芽が出てきますし、
枝が折れてもまた新らな芽が出てきます。
犬や猫もそうです。
交通事故によるものですか、
よく三本足で歩いている犬や猫を見かけますが、
犬や猫は「えらいことや、私、怪我しました」と、
自分で医者に行くのを見たことはありません。

「猿も木から落ちる」と言って、落ちる時がありますが、
たとえ足や腰が痛くなっても医者に行かずに、
夏であれば、北側の風通しのいい所で肉体を休めておけば、
自然に治ってしまいます。
冬であれば南側の暖かい所で何も考えないで体を休めておくだけで、
自然に治ってしまいます。


明来闇去

2021-03-08 00:19:08 | 明来闇去

   恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

        第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

        心の教えを正しく行うと証がついて回る


              言霊の力と細胞の意識

先の続き・・・

ふつうならば癌でもなんでも、
病名のつくものに罹れば、お医者さんに行って
治してもらうところでしょう。
そうすると、お医者さんが治ると言ったら治る思い、
だめですと言ったらあきらめなくてはなりません。
治してもらったら、身体がよくなったと思って喜びます。
しかし、これでは心の中はいつまでも変わりません。
飢えた方が働かないで、物を与えられている限り、
いつまでたっても同じ飢えに襲われ続けます。

病気も同じことで、自分の内から治す力に目覚めてないと、
いつもいつも医者通いし、死ぬまで薬に頼り続けることになりかねません。
こんなことをよく言われます。
「先生、長生きしてください。先生に先に逝かれたら、私たちは困りますから」
しかし、私など必要としなくなり、
それぞれご自分の内から湧き出づる生命力に自信を持つようになってくれたほうが、
私はどんなに嬉しいか知れません。

最後はみんな神の子の姿をこの地上に現わさなければなりません。
誰もが愛深く平和な心になって、
真に調和した社会を建設していかなくてはなりません。
それは神様のお望みのとおりに、健やかで幸せに生きることです。
本当に全員が命の煌めきと命の歓びに感謝して生きられるような地上天国に
この地球世界を完成していくことが最終目的だということを、
みなさんにお伝えしています。



明来闇去

2021-03-07 00:23:08 | 明来闇去

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

         第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

         心の教えを正しく行うと証がついて回る


              言霊の力と細胞の意識

先の続き・・・

たしかに般若心経を上げると、迷える霊が成仏すると言われますが、
それは書いてあるお経の内容が素晴らしい教えであるからというよりは、
それを伝える方の愛の心がその方の音声すなわち音霊に乗って、
迷える方の心の奥底にまで響き、神我の目覚めを促す結果なのです。
伝える方がお経の意味を十分に知らず、生活において行いに表わせていなかったり、
愛がなかったりすれば、相手の心には届きません。
お経はよく理解し、実践した時に功徳が現れてきます。
言葉によって神癒が起こり病気が治るという仕組みも、これと同様に考えられます。

その言葉の表現内容が神の御心と不一致であってはなりませんが、
さらに重要なのはそれを発する人の愛の心の波動が神様の御心の波動に感応することで、
癒す人を媒介として神の愛が相手に伝わり、神癒が可能になるということです。
お話会ではこういう方がよく見えることがあります。
それは、「ああ、あこが痛い。ここが痛い。治してください」と言って、
お話を聞くよりも身体治してもらうのが主のように思ってお出でになる方です。
しかし、そういう心構えでおられるのなら、
かえって身体を治してはその方のためにならないと言えます。
その時は治りますが、後がどうなるかわかりません。
まず、変えなくてはならないのはその方の心だからです。

その心が原因で治るはずの病気も治らないでいるからです。
本当は自然治癒能力で、ご自身が内なる力によって、
治すようになっていかないといけません。
疑いや不安、恐怖、それから、怒りとか妬みとか執着心、
そうした思いは体の状態を不調和にします。
何ものとも対立しないのが、大調和した神の御心です。
私たちが、小さく言えば自分自身の健康と幸せな毎日のためにも、
大きく言えばまた地球社会全体の平和のためにも心がける価値があると思います。
こんなことがありました。
浄心庵に訪ねて見えられた老婦人ですが、リューマチのため杖をついていました。
若い人の手を借り、杖にすがってやっとたどりつかれました。
人の手を借りないと、一人で立ち上がることもできません。
少し離れたところにいらっしゃるその方に向かって、話しかけました。

「まず、この痛み苦しみから救われたいですか」
「救われたいです」
「では、言うことはなんでも聞いてくれますか」
「なんでも聞きます」
「あなたはたいへん美人で社交的でおつき合いは上手ですが、
心の中はたいへん頑固です。
その頑固さが己の心を苦しめて、その内なる苦しみとなって現れてきます。
ですから、今素直な心になりますと誓ってください」
すると、相手の方は素直に約束してくれましたので、
その場でいっしょにお祈りをさせていただきました。

「神様、あなた様のいとし子が内なる頑固を捨てることを誓ってくれました。
願わくば、忌まわしきリューマチの苦しみからこの方をお救いください」と
言いますと、一人で立ち上がり、突然杖をつかずにご本人は歩き始めました。
このように、本当に自分の心の誤りに気付いて、心素直に改めれば、
瞬時にでも癒されるという出来事を、
もう数え切れないほど見せていただいています。


明来闇去

2021-03-06 01:15:38 | 明来闇去
 
 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

         第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

         心の教えを正しく行うと証がついて回る


               言霊の力と細胞の意識

先の続き・・・

花粉症の方が見えたら、私はお鼻さんに対してこう呼びかけます。
「鼻の意識よ、よく聞きなさい。あなたの命も花粉の命も全く同じ命です。
同じ命が不調和を起こしてはなりません」
すると、今までぐつぐついっていた鼻が突然スースー通ります。
目だったら、「目の意識よ、よく聞きなさい。あなたは視力をあげなさい。
そうです。はっきり見なさい」と呼びかけます。
たとえば、0.5の視力表の記号がハッキリ見える位置に立って確認します。
仮にそれが二メートル離れた場所とします。

その後に同じ箇所を見ると、四メートル離れていても見える人がよくあります。
そして、足腰の弱っている方、歩くのが困難な方、いろいろ見えますが、
治りなさいと言って軽く指で押したり、足でちょっと相手の足を突いたり、
木の棒先を当てたりしただけで治ってしまうことがほとんどです。
こうして愛を念じる時には、言葉を発しなくても、
相手の方に通じていくようです。
それは愛の念は神の御心と一つだからです。
日頃から神の御心にかなった生活ができていない方が、
いくら口先だけの癒しの言葉で呼びかけても効果が現れないのは当たり前です。
ただキンキラの着物とか奇異なる言動によって暗示作用が働き、一時的に治る
時もあります。

癒しを受けに見えた方を寝かせて、
「神様のいとし子でございます。どうぞ健康
と幸せをお守り下さい。細胞集団の意識よ、聞きなさい。
神との約束を果たしなさい。
神との約束とは大調和です。本来の使命を果たしなさい。
不調和を起こしてはいけません」と言葉で呼びかけます。
すると、細胞の意識は素直に、言うことを聞いてくれるようです。
下垂した内臓は正しい位置に上がり、
ずれた骨なら本来の正しい位置に戻り、
不調和な癌細胞ならそれが消え始めます。

自然法則と神の御心にかなった本来の秩序を取り戻していきます。
心と体は別ではなく、体細胞の一つ一つに意識、心があります。
この心に聞いてもらうのです。
愛念によって、心の鬼を追い出すとも言えるし、
心の曇りや波動の不調和を
取り除くとも言えるでしょう。
言霊というと、何か難しい呪文を想像してしまうものですが、
ここは誤解のないように理解していただきたいと思います。




明来闇去

2021-03-05 00:10:01 | 明来闇去

      恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

        第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

        心の教えを正しく行うと証がついて回る


             言霊の力と細胞の意識

言葉によって、人の苦しみが消えていく場合があります。
たとえば、極度のノイローゼで家庭崩壊寸前の方が、
講演テープを聞いてくださるうちに、
すっかり健康になってしまった人もおられます。

精神病だけでなく、他の病気でもそういうことがあります。
夫婦でも離婚寸前の方がどれほど救われたかわかりません。
なぜ、このようなことが起きるのかというと、
言葉を通して今まで西に向いていたご本人の心をただ東に向け
換えただけのことなのです。
それにより、たとえ苦しみの世界にいても、
即天国に上がれるのです。

と言いましても、それは言葉で相手の心に命令を下し、
コントロールする催眠術のような類のものではありません。
あくまでも愛の心をもって、相手の迷っている心を呼び覚ますのです。
本人は発想の転換、想念の切り換え、思い変えができる結果、自らを救います。
つまり、自分が本来は神の子であって、
神の御心にそって生活していさえすれば病気などになる
必要もないのであるということが
本人に自覚されたなら、癒されるということです。

その自覚によって、瞬時か少しずつ時間をかけて治るか、
それはケースにもよりますが、確実に快方に向かい始めます。
これらの出来事から見ても、心がいかに大きく
肉体に作用しているかがわかります。

言葉は単に用足しをする道具であるのみでなく、
人の思いのバイブレーションを伝えるものです。
祝詞(のりと)とかお経などは、
神仏のご慈愛や叡智そのものの響きを伝える言霊です。
これを心身の浄化された方が本当に人を救いたいという
気持ちで唱えた時、その効果は現れます。

人様が救われていただきたいという心で神様に祈って、
言霊とともに愛を送ります。
すると、これが相手の方の心と肉体細胞の意識にまで伝わります。
その結果、その方の心と身体そのものに変化が起きるのです。

乱れた波動、不調和な波動、汚れた波動が調整され、調和されます。
もともと肉体細胞も神の光でできていますから、
本来はあらゆるものと調和した状態であるのが自然なのです。


明来闇去

2021-03-04 00:38:54 | 明来闇去

 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

         第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

         心の教えを正しく行うと証がついて回る


            病気の原因は自分の心にある

先の続き・・・

病気になったり、不幸・災難に見舞われたりすることになってはじめて、
今迄の自己の生き方や心掛けというものを検討することを
余儀なくされてくるわけです。
だから,病気とは反省の機会でもあるのです。
神様が与えてくれた機会です。

病気になった赤信号が出た時に、素直に自分の心を顧みて、
間違いが見つかったならば、
すぐに反省をして、悔い改めることです。
そうすれば、神様もよく気付いてくれたとお喜びになられ、
もう病気という
赤信号も必要なくなったわけですから、病気は自然と癒え、
今度は間違わないように行きなさいよということで、
ゴーサインすなわち青信号に変わって、
再び健康な日々の生活が取り戻せるのです。

しかし、できれば病気になどなりたくないでしょうし、
周囲の人々にも心配や苦労はかけたくないものです。
また、わざわざ倒産や一家離散や離婚や事故による怪我など
あらゆる逆境を材料として
学ばせていただかなくても、自らの心を反省することを
日々怠らないという心掛けと

たゆまぬ努力によって、波風なく穏やかな人生航路を旅しながら、
喜びと感謝でいっぱいの幸福で健康な人生を歩めれば、
そのほうがいいに決まっています。
病気が癒されて喜ぶのは結構ですが、もしそれだけで満足して、
以前とほとんど変わらない心境で生活を再開するならば、
その人はなんら心の進歩に向かって努力することなしに、
いずれまた病気になれば、

ただ病気が治りたい、そして貧乏になれば、
ただお金がほしいというだけで、
現世ご利益ばかりを求めていくことになります。
これではいけません。

偶然に健康であったり、病気になったり、富んだり、
貧しくなったりするのではありません。
原因結果の法則によって、そういう出来事が起きてくるのですから、
自分自身が原因をつくっていることを早く理解し、
自らの心の在り方を正すことで幸せを築き、
また自らの心の持ち方で健康にならなくてはなりません。
そうでないと、人間が例外なく神様の愛し子であり、
正しい法に従って生活していけば必ず幸せに
健やかに生きられるのだという真理は絵に描いた
餅になってしまうからです。

そうでないのだということを体験で確かめられるかどうかは、
一人一人の実践にかかっているのです。
けっして、特別な力のある人に頼り続けていって、
救われるという都合のいいものではありません。
内在する神の永遠の生命は人間一人一人に本来与えられたものです。
このことを理解し実践するのが私たちの学びです。


明来闇去

2021-03-03 00:13:29 | 明来闇去

      恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

        第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

        心の教えを正しく行うと証がついて回る


病気の原因は自分の心にある

すべてのものごとは原因と結果によって成り立っています。
病気も例外ではありません。
なぜ、病気になるのか、各人がご自分の心の中を探れば明らかです。
怒り、妬み、恨み、愚痴、悲しみ、不平不満などの思いは、
みな不調和な思いです。

これが溜まると病気として現れることが多いようです。
毒素を体の外に排泄する時に起きるという見方もあります。
浄化作用という言い方もできます。
しかし、これはあくまで結果の面を強調した言い方です。
現象化してくる前の原因である心をよく見つめて、
常に誤りの修正を心がけましょう。

不調和な思いを調和した思いに変えていくのですが、
これをしないと、いくら一時的に病気を治してもらっても、
また違う身体の場所に別の症状として現れたり、
時間がたって再発するなどということになってきてしまいます。
根っ子が絶たれない限り、何度でも同じことになります。
業とか因縁とか言いますのは、

こうした本人の心の誤った思い方の癖によって、
言葉や行いにより悪行を重ね、悪因縁をつくります。
このパターンに気付いて、これを軌道修正してはじめて、
わるいカルマから解放されるという形で消滅するものです。

人間に対して神が望んでいるのは、幸せで健やかに生きることですから、
怒りや妬みや恨みや愚痴や悲しみや不平不満などの思いは、
大調和した光そのものの神様の御心からほど遠い思いです。
いわば思いのスモッグとして、神様の光を遮る暗黒の思いです。
神様の光は生命の力そのものでもありますから、心がこうした不調和な思いに
覆われてしまい、神様から来る光が通らなくなると、肉体に病気として現れて
くることになります。

この心を改めるには、よほど反省深い方とか、信仰心に厚く、常に神仏の心に
照らした過ごし方をしているという方でない限りは、
なかなか自分から気付いて改めるというわけには行きにくいと思われます。


明来闇去

2021-03-02 00:12:19 | 明来闇去
 
恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

       第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

       心の教えを正しく行うと証がついて回る


           人々の喜びを我が喜びとする

先の続き・・・

そういうわけで、癒しは「神癒」です。
それは、技術的なものとは関係のないところに起きてまいります。
所謂ボディーワーカーや治療家の行う癒しが、一定期間のトレーニングを経て、
所定の技術水準をマスターしてはじめて人に施すのを認められるというのとは、
およそ異なるものです。

無償の愛の実践の数の積み重ねの量によって神からいただいたものです。
有り難いことに、いくら大勢の方々に会わせていただいても疲れず、長期間に
わたってお話させていただいても水一滴飲まずに声が出続けます。

それは人様に喜んでいただくと、その喜びは天に返って神の意識に届くからです。
喜びはその方々の心の奥底にしみわたり、喜びを与えた方には神様を介して
再び人々の喜びがその方に光となって返り、降り注ぎます。
その喜びによって生きさせていただき、その喜びによってエネルギーをいただきます。


明来闇去

2021-03-01 03:00:05 | 明来闇去

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

          第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

          心の教えを正しく行うと証がついて回る


人々の喜びを我が喜びとする

神界や天上界の時間は短いというのは、この世の苦しみがないからです。
苦痛を感じていれば、時間は自ずと長く感じられます。
この地上の三次元から次元が上昇するにつれて、
ちょうど富士宮の裾野からだんだんと上に登るにしたがって、
ループ状に円周が短くなっていくように、
時間は早く過ぎるようになっていきます。

それは、楽しい時に経過が早く感ぜられるようなものです。
私は朝起きてから一日が終わるまで、
喜びの中で過ごさせていただいていますから、
あっという間に一日が終わりを迎え、
気付いたら「もう寝る時間になってしまったか」という
具合いの毎日です。

そして、休ませていただいたら、
昼間の苦しみがないので夢を見ることもなく、
「ああ、もう朝か」という感じで朝を迎えます。
夜が明けたと思ったら、すぐに日が暮れてしまいます。
朝に感謝、夕に感謝、感謝の中に明け暮れています。
こんな調子で行けば、人生もじきに終わるなと思ってしまいます。
人間として生まれさせていただき、人様に法のお話を聞いていただき、
そして病を癒させていただく。

人々の喜びを我が喜びとすることができる。
肉体の喜びと心の喜びをいただける。
これはもう最高の喜びをいただいたと思っています。
「ありがたや、もったいなや」いつも口からこぼれます。
世の中に偉いと言われる方々はたくさんおられますが、
私のような喜びをいただいている方は世の中に何人いるかと思うと、
つくづく幸せだなあ、もったいないなあと思います。
ある時、朝の目覚めとともにつくづくこの有り難さを
感じさせてもらったことがありました。

もうだいぶ以前に、お話をさせていただいた折に、
自分の現在の境遇を花にたとえれば、
たいした花ではないかもしれないが私なりに満開ですと言って、
「満開や春の嵐に散る桜 我も散りたし朽ち果てぬまに」と
いう歌をよみました。

この時、多くの方々が、先生まだ散らないでください、
散らないでくださいと泣きながら訴えられました。
もっとも、私たちは好きな時にあの世に帰るわけにもまいりません。
神の御心におまかせするのが最もいいのは言うまでもありません。