
5月8日(木) 晴
毎年、恭子姉さまの逝かれたゴールデンウィークの前後に、報恩謝徳の墓参のため高知に行く。
この姉は、義兄と離婚してから独力でスチールパレットなど輸送機器の会社を立ち上げ、年商数億を計上する東海地方有数の中堅会社を育てたのち、娘に遺してあっけなく逝ってしまわれた。
私の抗がん闘病中の1年半、2人の息子を叱咤激励しながら支えてくださり、毎回の抗がん治療には10日間天王寺の都ホテルに連泊して看病をしてもらった。
「一人で頑張るから。お願いやから、会社に帰って」と言ったら、「社長が会社を留守にしたからって潰れるような会社なら、いっそ潰れたほうが従業員のためや」と言い、「離婚してひとりぼっちの頃、あんたと広野さんには良くしてもらったから、その恩返しに来るのやから、気にしないで」と付け加え、私に「報恩謝徳の観念」を教えて逝かれた。
姉の眠る高知市初月(みかづき)の墓所には、公文、田村、森の三家が納まり、高知よさこいタクシーさんがここを手始めに秦泉寺、筆山に眠る六家の墓所を回って、午後5時の南風26号で岡山経由新大阪➡上本町➡名張に帰宅する、というスケジュールだ。

母方の山崎家は屋敷墓で、持ち山のふもとに自宅があり、一族の墓所が数か所固まって在る。
「大阪の医者さん(山崎義光サインポスト社長、大阪大学医学部特任教授)は4月30日においでまして、5月1日には四日市の由美子さんがご一家でおいでました」。本家のお姉さんが立て続けに報告してくださった。

山本家の鶴恵叔母さまが、半世紀以上も昔に建立為された「潮江(うしおえ)のお釈迦さま」は、叔母さまの故郷:潮江を見下ろす筆山(ひつざん)の頂上付近に鎮座なさっておられ、さくら♪は毎年、足取りも軽く30段ほどの石段を登って清掃と供花をし、般若心経を唱えて帰れたのだ。
今年はなんと。
筆山の公園墓地をお釈迦さまの石段下まではたどり着いたのだけれど、途中から両足がパンパンに張りだし、膝ががくがくして石段を上る気力が沸いてこない。
已む無くお釈迦さまを山道から眺めて遥拝し、お詫びしながら山本家の墓所に降りようとするも、ここも転がり落ちそうで怖くて足がすくむ。
姉が逝かれてのち、1年も欠かさず墓参に高知詣でをし、六家の墓所を欠かさずタクシーで回ってきたのに、今年は一体どうしたのか。
やはり昨年膝の骨にひびをい入らせて40日間ギプスを当てて暮らしたツケが、この足の無力感につながっているのかも。
リハビリ、ストレッチに、いっそう励まなければ。
墓地の入り口で待ってくださっていた運転手さんが、「えらい坂じゃき、そら、ムリですろぉ」と慰めてくださったけれど、昨年までは難なくできた墓参なのだ。
悔しいったら、無い!!

父方の縁戚、青木家のお墓に回るころには、足の膨満感も膝のがくがくも薄れたので、やはり30段ほどの石段を下りていく。
連絡をしたら、跡取りの誠一さんと美智子さん夫妻が来てくださって、懐かしい一年ぶりの再会を喜び合った。
青木家は、亡父の姉上の嫁ぎ先で「伊勢のおじさんは高知に来るといつも帰りがけに1万円札を握らせてくれたがね」「えっ、嘘! 私たち子どもはもらったことなんか無かった」。
「来年は泊りがけで、たくさんおしゃべりしようね」と約束したのは、自分の体力の衰えを自覚したからで。

肇の4,5回は利用した飛行機やフェリーも使わず、新幹線と在来特急の自由席を乗り継いで高知往復するのは、思い立ったらすぐに利用できるからで、5年前からは新大阪駅真野ホテルに前泊して、体を甘えさせてきた。
それなのに、ぁぁ、それなのに。
途中で力尽きて、大事なお釈迦さまと山本家の墓所に額づくことが出来なかったなんて。
帰路の大歩危駅では、はるか昔に金つなぎのお仲間とここまでツアーバスで訪ね来て、祖谷のかずら橋を皆できゃっきゃっ言いながら渡った、非日常体験に癒されたのだ、と思い返す。
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