愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(8) 松平記

2022年01月10日 17時24分36秒 | 松平記

松平記p8

翻刻
新八起請文を破り清康御御弟松平蔵人、同十郎三郎殿に相
談し本城の当守に御座候蔵人殿を湯治に御上り候へと
て有馬へやり、其当守に廣忠を本城へ引入申番衆の石川
長右衛門兄弟を打取、岡崎の城を取返し候也。廣忠十三に
て伊勢へ御のき、十五の年駿河へ下り、其秋もろへ入、十七
の年天文六年六月朔日岡崎へ御帰国被成、但御入城ハ同
廿五日也。日来内通の御譜代衆皆々来り加勢申、中々内膳
方より手を出事ならず、御隠居も御よろこひ有。各々御肝
煎有て内膳殿と六月八日に御和睦被成、内膳殿も岡崎へ
出仕被成候。然とも安定の城ハ織田弾正殿衆持、佐々木松
(平三右衛門ハ~)

現代語訳
(大久保)新八は、起請文を破り、清康の弟松平蔵人(松平信孝)、松平十郎三郎(松平康孝)に相談し、岡崎城の当守である松平信孝を温泉へ行かれてはと勧め、有馬温泉へやり、その当守に松平廣忠を岡崎城に引き入れ、岡崎城を守っていた番衆の石川長右衛門兄弟を討ち取り、岡崎城を取り返した。廣忠は、13歳で伊勢に退き、15歳に駿河に下り、その秋にはもろへ入られ、17歳の歳天文6年6月1日、岡崎に帰られた。但し、御入城は6月25日である。日頃廣忠と内通していた譜代衆は岡崎城に来て加勢し、松平内膳信定はなかなか手出しができなかった。隠居の松平長親もよろこび、各家臣たちの世話焼きもあって、6月8日に内膳信定と廣忠は和睦することになった。内膳信定は岡崎城に出仕することになった。しかし、安城の城は、織田弾正忠信秀衆が持ち、佐々木松平平左衛門は~

コメント
大久保新八忠俊は、起請文を破ってしまいます。これは、大変なことです。大久保忠教「三河物語」では、書けと言われれば、何度でも書いてやると豪語しながらも、「起請ノ御罰トカウムリテ、今生にては、白懶・黒懶ノ疫ヲ請、来世にては、無間之住処トモナレ。子供之母ヲ牛裂ニモせバせヨ。倅ヲ八ツ串ニモサゝバサせ。何度起請ヲ書せ申共、一度は広忠に御本居ヲ遂ゲサせ申す」と神仏の罰があることを覚悟していることが記されていました。(「白懶・黒懶の疫」とは、肌の色が白くなる懶病と黒くなる懶病のこと 「無間の住処」とは、地獄のこと)日本思想史大系26「三河物語・葉隠」より 
廣忠の岡崎入城は、今まで無血開城のように思っていましたが、番衆である石川長右衛門兄弟を討ち取っての出来事でした。これは当守であった松平信孝の家来なのか、松平内膳信定の家来なのか分かりません。かわいそうに石川兄弟が討ち取られているのに、信孝も信定も何の反応もなく、廣忠と和睦してしまったようです。廣忠派の圧力勝ちでしょうか。信定は、改めて廣忠の形式上の家臣となったようです。

松平記(7) 松平記

2022年01月06日 11時03分18秒 | 松平記

松平記p7

翻刻
ともに今川殿へ降参被成、今川義元いやいや只今ご一味有
てと三河衆にすすめられ、ややもすれハ尾州一味被成候
間、此次てにとり奉るへしとて吉良殿を駿河へ呼申、やふ
田と云所に置被申し事、今川殿威勢つよきゆへ也
一 去程に廣忠を今川殿御慟(なげき)深くして御加勢あり。三河のも
ろの城へうつし被申、岡崎に有し譜代衆内膳殿にしのひ
て各々参り、何とそ岡崎へ入申さんと致す。此由内膳聞て
大久保新八と云者を呼て伊賀八幡につれて行、社檀の中
にて廣忠を岡崎へ入申したく仕間鋪由、七枚の起請をか
かせたる。其外成瀬八郎に八国甚六郎、大原左近衛門、大久保

現代語
(東西吉良氏)ともに今川殿に降参した。今川義元は、「今、味方になる者があると、三河衆にすすめられた。もしかすると尾州織田の一味になるかも知れないので、ついでに味方につけておこう」と、吉良持廣を駿河に呼び、松平広忠を薮田という所に置かれた。これは今川殿の威勢が強いゆえである。
一 さて、廣忠に今川義元は深く同情し、兵を付けて三河の室城に移した。岡崎にいた譜代衆は松平内膳信定の目をしのんで、何とかして廣忠を岡崎城に戻そうとしていた。これを松平内膳信定が聞いて、大久保新八を伊賀八幡宮に連れて行き、社檀において松平廣忠を岡崎には入れさせない旨の起請文を七枚も大久保新八に書かせた。その他に成瀬八郎、八国甚六郎、大原左近衛門(らにも起請文を書かせた)

コメント
全体を通して、今川と織田の勢力争いに松平が巻き込まれ、内部対立が起きているように描かれています。廣忠の父である清康(岡崎衆)はもともと今川派のようであり、廣忠はそれでもって今川に助けを求めている節が見られます。廣忠を追いやり、岡崎に入れまいとする内膳(安城衆)は、清康暗殺前後の動きから織田方と通じているように感じられます。
大久保新八は、忠俊のことで「三河物語」の著者大久保彦左衛門忠教の伯父にあたります。宮城谷昌光「新三河物語」では、大久保一族のドン的な存在になっています。起請文を7枚も書いたということは、よほど神に誓っていたということです。神仏の力を信じていた当時としては、大久保新八は廣忠に味方ができないように感じられます。果たしてこの後どうなるのか?

かつての大草城「天空の城」に   新聞記事から 長久手市

2022年01月03日 09時56分28秒 | 長久手市
みなさん、あけましておめでとうございます。
昨年はコロナ禍であまり城めぐりはできませんでしたが、愛教労城の会では2月に岩略寺城(豊川市)、4月に山中城(岡崎市)、11月に大給城(豊田市)と3回の城めぐりができました。個人的にもぼちぼちと城めぐりができました。また、ブログで「松平記」の連載も始めました。
今年もよろしくお願いいたします。


中日新聞1月3日号より

さて、3日の新聞に表題の記事が載っていました。大草城は知多にもありますが、長久手にもあります。この城跡を「天空の城」として皆さんに紹介し、散歩したり、お茶をしたりする空間を提供しようとしている方がいらっしゃいました。すごい企画です。行ってみたくなりました。