4月28日、新城市の石橋城に行きました。石橋城のほかにネットで調べたところ、いろいろな遺構が残っているようなので、ついでに回ってみました。
亀山城付近の遺構(Yahoo地図より作成)
亀山城のすぐ西に石橋城、北には蔵屋敷、北東に姫屋敷、南東に馬呂遺構というそれぞれ遺構が残っているようです。(ネット「城郭放浪記」より)
亀山城は以前に訪れたことがあります。
亀山城 新城市
石橋城は現在お寺になっています。「石橋山慈昌院」というそうです。そのいわれが観光案内にありました。
観光案内版
石橋城は、奥平2代貞久の二男、弾正久勝(だんじょうひさかつ)が最初の城主で、近辺の地名「石橋」を称し、3代貞昌(さだまさ)の家臣となった。久勝の子、弾正繁昌(だんじょうしげまさ)は、天文6年(1537)9月、主君への謀反が露見し、4代貞勝(さだかつ)の命を受けた土佐定勝(さだかつ)に、屋敷を攻められて敗北、郎党40人余が討死した。死骸は一穴に埋められ、奥平弾正宮と呼ばれている。現在でも、西方土塁の腰に石祠を確認することができる。後年になり、当山の第2世徳岩明和尚(とくがんみょうおしょう)が繁昌と一族の死を哀れみ亀山城主貞勝に願い出、弾正屋敷をもらい受けて寺地とし、「石橋山慈昌院」とした。 作手村
一族の内部抗争により、石橋奥平が宗家の奥平氏に滅ぼされたようです。何とも痛ましいことです。
石橋城(慈昌院)の入口 幟には「南無釈迦牟尼仏」とあります。臨済宗です。
石橋城縄張り図(現地案内板より作成しました、黄色い部分)
愛教労 城の会 6月22日 市場城めぐり
亀山城付近の遺構(Yahoo地図より作成)
亀山城のすぐ西に石橋城、北には蔵屋敷、北東に姫屋敷、南東に馬呂遺構というそれぞれ遺構が残っているようです。(ネット「城郭放浪記」より)
亀山城は以前に訪れたことがあります。
亀山城 新城市
石橋城は現在お寺になっています。「石橋山慈昌院」というそうです。そのいわれが観光案内にありました。
観光案内版
石橋城は、奥平2代貞久の二男、弾正久勝(だんじょうひさかつ)が最初の城主で、近辺の地名「石橋」を称し、3代貞昌(さだまさ)の家臣となった。久勝の子、弾正繁昌(だんじょうしげまさ)は、天文6年(1537)9月、主君への謀反が露見し、4代貞勝(さだかつ)の命を受けた土佐定勝(さだかつ)に、屋敷を攻められて敗北、郎党40人余が討死した。死骸は一穴に埋められ、奥平弾正宮と呼ばれている。現在でも、西方土塁の腰に石祠を確認することができる。後年になり、当山の第2世徳岩明和尚(とくがんみょうおしょう)が繁昌と一族の死を哀れみ亀山城主貞勝に願い出、弾正屋敷をもらい受けて寺地とし、「石橋山慈昌院」とした。 作手村
一族の内部抗争により、石橋奥平が宗家の奥平氏に滅ぼされたようです。何とも痛ましいことです。
石橋城(慈昌院)の入口 幟には「南無釈迦牟尼仏」とあります。臨済宗です。
石橋城縄張り図(現地案内板より作成しました、黄色い部分)
愛教労 城の会 6月22日 市場城めぐり
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