愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

高縄城 豊橋市

2019年07月16日 12時29分11秒 | 豊橋市
7月5日、豊橋市の高縄城に行きました。

高縄上の位置(Yahoo地図より作成)

高縄城は、豊橋市と田原市の境目辺りにあります。昔は海に面した場所にありました。そこで、別名を大津城とも言います。

高縄城の築城者戸田宗光
高縄城は、東三河海沿いの戦国時代を彩る武将戸田宗光によって造られたそうです。はじめ、戸田宗光は、上野城(現在豊田市上郷町)に居住していましたが、文明7年(1475)高縄城に進出してきました。しかし、文明11年には田原の方に移り、文明13年、田原城を築いて、そこを本拠地としました。

戸田宗光は、その後今川氏親と共に、今橋城(現吉田城)の牧野古白を攻めたりしています。また、今川家の人質松平竹千代を織田に売ったという戸田康光の曽祖父になります。(なお、この説には異論もあります)

家政高等専修学校
高縄城は、現在高校になっています。豊橋市立家政高等専修学校といいます。わたしは、こういう学科というか、コースのある高等学校を初めて知りました。将来調理師やデザイナーを目指す人やおそらく家庭に入られる人のための学校だと思います。

家政高等専修学校の正面

この学校の写真でいえば、右側と奥の左側に遺構がありました。

三河渥美 大津(広島城「浅野文庫諸国古城之図の世界」より)

高縄城の遺構
古城之図で、中央の本丸は現在高校の校舎、北の腰曲輪、西の土塁(古城之図では「ドイ」)が残っていました。


校舎北の藪の中の土塁、堀

北の藪は、竹や小さな木が繁殖していて、うまく見えませんでした。冬に来るべきだと思いました。

西の方には、大きな土塁がありました。これは、大変立派なものでした。写真の左側は堀切のようになっていました。

西の土塁


土塁の端の堀切状の遺構(写真左側が土塁、写真右側は小高い山のようになっていて、その先は高校の校舎)

その小高い山のような遺構の上から見ますと町や田んぼが見下ろせ、遠くには堤防のようなものがみえました。

城からの眺望

大津から老津へ
さて、老津という現在の地名は、明治時代につけられたようです。それまでは、大津という地名でした。由来は紫式部の「老津島 島守る神や 諫むらん 波もさはがめ 童べの浦」にちなむそうです。(ウィキペディア)私は、てっきり近くに老津島という島があり、紫式部がこの地でその老津島を見て作った和歌なのかと思いました。
しかし、よく調べると、老津島は「奥津島であり、近江八幡市の大島奥津島神社、または琵琶湖の沖島と推測される。」(ウィキペディア)とあり、滋賀県の島のようです。

大津という伝統的な名前をあえて老津と改称した明治時代の人はどんなことを考えて、地名の変更をしたのか不思議に思いました。
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