愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

東条城 西尾市

2013年09月01日 19時54分46秒 | 西尾市
 松平記に反家康の武将の一番手に上がったのは、吉良義昭です。
 吉良義昭、そして吉良氏とはどんな武将なのでしょうか。

名門吉良氏
 吉良氏は大きく3つの流れがあるそうです。三河、関東、土佐の3つの地域です。もちろん吉良義昭は三河の系統の吉良氏になります。
 吉良氏の祖先は足利義氏だそうです。足利義氏は、鎌倉幕府の御家人で北条義時や泰時を助けていたそうです。義氏の母は北条時政の娘で、鎌倉幕府と大変強いつながりを持っていた人です。
 その足利義氏の長男の長氏が、この吉良荘をおさめるときに吉良の姓を名乗ったそうです。それが吉良家の始まりだそうです。


 東条城の案内板 ただし、永禄4年藤波畷の戦いで吉良義昭が家康に負けたことで、東条吉良氏が滅亡したとありますが、実際は永禄6年の三河一向一揆で、吉良義昭は家康と再び戦っているので、永禄4年の段階で滅亡したというのは早すぎだと思います。

西条吉良、東条吉良に分裂
 南北朝の時には吉良満義(吉良長氏の4代後)とその息子である吉良満貞が南朝あるいは北朝の武将として戦っている間に、満義の四男尊義が東条吉良として自立するという事件が起こりました。
 以後、満貞の西条(西尾)の吉良氏と尊義の東条の吉良氏が争うという構図ができたようです。応仁の乱でもこの対立は継続したようです。


城の入り口に設けられた門

今川氏、松平氏との戦い
 一時両家は和解しましたが、戦国武将としての力は弱まっていて、東のほうから今川氏が攻めてくると、軍門に下るしかなかったようです。西条の吉良義安は駿府にとらわれ、義安の弟、吉良義昭が今川氏の庇護の下に東西の吉良を統一しました。
 ところが、桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、吉良義昭は、今度は三河を統一しようとする家康と戦うことになりました。しかし、善明堤の戦いや藤波畷の戦いに敗れ、家康に降参しました。
 そして三河一向一揆が起こると、義昭は家康打倒のため一揆側について、再び家康と戦うことになったのです。


虎口


物見櫓と虎口

吉野ヶ里の櫓と同じ
 東条城を見たとき、とても驚きました。城といえば天守閣があって、石垣があって・・・こうしたイメージは壊れました。(石垣については、室町時代まではなくて、土塁だったということを最近知りました。)今回、東条城を見て、天守閣のイメージは崩れました。


物見櫓


 これは、九州の吉野ヶ里遺跡の物見櫓です。弥生時代の遺跡です。ちょうど人間も写っているので、高さも比べられますが、ほとんど同じです。弥生時代から、鎌倉時代(この櫓は鎌倉時代の一遍上人聖絵を元にして再建されたそうです)まで砦(特に櫓)の構造はほとんど変わっていないことが分かり、全くびっくりでした。
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