愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(34) 松平記

2022年10月23日 11時14分48秒 | 松平記
松平記は第2巻に入りました。

松平記p34

翻刻
松平記巻二
一 駿河今川義元ハ駿遠二ヶ国の兵を以三河へ切に働き、一
門なれとも吉良殿、尾州と御一味被成、ややもすれハ駿河
と御手きれ有とて、吉良殿を取巻、去弘治年中に西條殿を
はせめころし、東條殿をは駿河へよび越、やふ田と云処に
置申。其御弟を東條にうつし置、三河一国手にたつものな
く、甲斐の信玄も彼旗下被成加勢有、小田原氏康も此比ハ
無事と有て、子息助五郎を駿河へこし給ふ。されは東方に

現代語
一 駿河今川義元は、駿河と遠江2か国の兵を以て三河に出陣する。今川一門であるけれど、吉良殿は尾張織田の一味となられ、ややもすると駿河今川と絶縁し敵同士となるかも知れないので、吉良殿を取り囲み、さる弘治年中に西條殿を責め殺し、東条殿を駿河に呼び寄せ、薮田という所に置いた。そしてその弟を東条城に移し置いた。三河一国に歯向かって蜂起するものもなく、甲斐の武田信玄も旗下になられ、援軍を送られた。小田原の北條氏康もこの頃は今川氏を安全と見て、子息助五郎氏規を駿河へ移住させられた。そうなので、東方に

コメント
今川氏が三河において織田氏に付きそうであった吉良氏をおさえ、今川側とし、東は武田氏、北条氏といわゆる甲相駿三国同盟を結び、東からの脅威を取り除き、いよいよ西に向かって支配力を拡張しようとしていく様子が語られています。
北条氏の娘早川殿が今川氏真に嫁入りすることで北条と今川の同盟が結ばれることになっていますが、早川殿がまだ小さかったため、人質として北條助五郎氏規が今川に送られたようです。ただし、早川殿と今川氏真の婚姻が成立(天文23年1553)してからも駿府に居たようです。小田原に戻ったのは、桶狭間の戦い以降のようです。(ウィキペディア)
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