12月3日、愛知県の山城に行きました。
岩略寺城は西三河と東三河の中間点にあります。ちょうど岡崎市(西三河)と豊橋市(東三河)の中間点です。
岩略寺城の位置
岩略寺城の歴史
この位置にあることから、戦国時代は西の松平氏、東の今川氏のせめぎあいの場となったようです。「日本城郭大系9」によれば、文安の頃(1444~1449)に関口満興によって築かれたそうです。その後松平信光におとされ、信光は子の親則にこの城を与え、長沢松平の祖になったということです。
「愛知の山城ベスト50」では、その後のことが書かれていて、天文4年(1535)に「守山崩れ」で松平清康が横死すると三河は次第に今川氏の勢力下に入り、岩略寺城も今川氏の家臣が守るようになったそうです。しかし、永禄3年(1560)今川義元が桶狭間の戦いで敗れると、翌永禄4年徳川家康が今川の家臣糟谷善兵衛の守る長沢城を落としたそうです。また、天正14年(1588)の小牧・長久手の戦いで修築されているそうです。
岩略寺城の縄張り
岩略寺城縄張り図(現地案内板)見学路などを書き込みました。
堀切
岩略寺城址は、駐車場がすぐ近くにあり見学しやすくなっています。そしてその駐車場は実は堀切だったということです。
堀切跡の駐車場
ここから写真で右の方に行きますとすぐにお城になっています。まず、大きな堀切がありました。
井戸跡
ここを通り過ぎて右の方に登っていくと本曲輪の北西部に出ます。そこに大きな井戸跡がありました。
井戸跡
岩略寺城址には井戸跡がたくさんあります。「愛知の山城ベスト50」によれば、水は認められず、落とし穴ではないかと言っています。私的にはため池ではなかったかと感じました。
本曲輪の北の方に来ると「長沢の山城跡」という標識がありました。
「長沢の山城跡」の標識。
岩略寺城は「長沢山城」とも言われていました。
(つづく)
岩略寺城は西三河と東三河の中間点にあります。ちょうど岡崎市(西三河)と豊橋市(東三河)の中間点です。
岩略寺城の位置
岩略寺城の歴史
この位置にあることから、戦国時代は西の松平氏、東の今川氏のせめぎあいの場となったようです。「日本城郭大系9」によれば、文安の頃(1444~1449)に関口満興によって築かれたそうです。その後松平信光におとされ、信光は子の親則にこの城を与え、長沢松平の祖になったということです。
「愛知の山城ベスト50」では、その後のことが書かれていて、天文4年(1535)に「守山崩れ」で松平清康が横死すると三河は次第に今川氏の勢力下に入り、岩略寺城も今川氏の家臣が守るようになったそうです。しかし、永禄3年(1560)今川義元が桶狭間の戦いで敗れると、翌永禄4年徳川家康が今川の家臣糟谷善兵衛の守る長沢城を落としたそうです。また、天正14年(1588)の小牧・長久手の戦いで修築されているそうです。
岩略寺城の縄張り
岩略寺城縄張り図(現地案内板)見学路などを書き込みました。
堀切
岩略寺城址は、駐車場がすぐ近くにあり見学しやすくなっています。そしてその駐車場は実は堀切だったということです。
堀切跡の駐車場
ここから写真で右の方に行きますとすぐにお城になっています。まず、大きな堀切がありました。
井戸跡
ここを通り過ぎて右の方に登っていくと本曲輪の北西部に出ます。そこに大きな井戸跡がありました。
井戸跡
岩略寺城址には井戸跡がたくさんあります。「愛知の山城ベスト50」によれば、水は認められず、落とし穴ではないかと言っています。私的にはため池ではなかったかと感じました。
本曲輪の北の方に来ると「長沢の山城跡」という標識がありました。
「長沢の山城跡」の標識。
岩略寺城は「長沢山城」とも言われていました。
(つづく)