愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

三河一向一揆講演会 安城市

2013年12月01日 17時45分14秒 | 安城市
戦国本願寺門徒、信仰のかたち

 12月1日、安城市歴史博物館にて三河一向一揆に関する講演会が開かれました。今年は、三河一向一揆から450年に当たるそうです。そこで、安城市がイベントを企画していただけたと言うことです。安城市といえば、今年は新美南吉でけっこう盛り上がっていたので、三河一向一揆は余り盛り上がらないのだろうと思っていましたが、会場は100人程度の小さな部屋でしたが、いっぱいでした。用意した講演会の資料が足りなくて係りの方が増刷をしてくれていました。
 後援者は、青木馨氏です。氏は、同朋大学の先生で、お寺の住職でもあるようです。講演のテーマは、「戦国本願寺門徒、信仰のかたち」ということで、戦国期の浄土真宗、特に本願寺派がどのようなかたちで信仰をしていたかを中心に話されました。

お話の中身(一部)
 お話で、私の印象に残ったことを箇条書きします。
・上宮寺(岡崎、佐々木)は、当時すばらしい勢力を誇っていたこと、特に如光という僧の功績が大きいこと。
・本願寺から本尊(阿弥陀如来の絵)と御文がセットで各地方に配布されたこと。
・御文は、證如の時代になると印刷されて配布されたこと。
・御文は丈夫な紙でできていて、今でも一般の家にあるかもしれないということ。
・本願寺派にとって寺は、「菩提寺」を意味せず、道場の拡大したものであること。
・同時に、道場の縮小したものがお仏壇であること。
・永禄4年の親鸞聖人300回忌あたりが、本願寺派の絶頂期であること。

 今回は三河一向一揆そのものがテーマではなくその前提となる一向宗(浄土真宗本願寺派)とはどのような宗教だったのかという話でした。

一向一揆で自分の昔を振り返りました
 私の実家も浄土真宗だったので、「御道場」は聞いたことがありましたし、「西御御堂(にしおみどう、西本願寺派の道場)」「東御御堂(ひがしおみどう、大谷派の道場)」は、実家の村にきちんと二つありました。「報恩講」も、「ホンコさん」といって親しんでいました。「ホンコさん」は、秋頃に行われていましたが、私の記憶では村で一番のお祭りだったような気がします。春は「蓮如さん」です。蓮如上人が京都から吉崎に下向されたのを記念してできた行事だったように思います。また、オコサマ(御講様?)といって、村の人たちが定期的に御道場に集まって念仏を唱えることも行われていました。
 そうしてかんがえると、三河一向一揆を考えることは、自分の昔を振り替えることにもなると思いました。
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安祥(あんしょう)城 安城市

2013年10月06日 08時20分39秒 | 安城市
 安城市歴史博物館のすぐ隣は、安祥城址でした。

安祥城の石碑

安祥城
 安祥城は、松平氏宗家が岡崎に本拠地を移すまで4代にわたって居住した城です。

歴史博物館・安祥城周辺の観光地図


安祥城の古図


案内掲示板(かなり痛んでいました)

 案内板によれば、
室町時代中期の1440年(永亨12年)和田親平の築城と推定され、はじめ森城と呼ばれていました。三方を湿地にかこまれた台地突端に位置し、北部接続部に濠を掘った中世の本格的城郭(平山城)でした。
 1471年(文明3ねん)ごろ、松平信光が攻め取り、以後50余年間、安城松平4代(親忠・長親・信忠・清康)の居城となりました。また、松平氏の本拠が岡崎城へ移ると、この城をめぐって松平・今川氏と織田氏との間に、1540年(天文9年)から10年の間に5度に及ぶ攻防戦が繰り広げられました。
 桶狭間の戦い以後廃城となったと、考えられますが、1584年(天正12年)小牧長久手の戦いにあたり、徳川勢によって改修工事を受けたとする説が有力です。 安城市教育委員会


ということです。

 本丸には、大乗寺というお寺が建っています。

大乗寺本堂


大乗寺山門

 二の丸は、神社になっています。八幡宮です。


 そして、三の丸は歴史博物館になっています。

切岸
 古図にかかれた「此矩リ二間半切キシ」がありました。

切り岸の案内板


切岸の跡
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安城市歴史博物館 安城市

2013年10月05日 22時12分30秒 | 安城市
 安城市歴史博物館に行きました。

安城市歴史博物館正面

安祥文化のさとまつり
 ちょうど、お祭りをやっていて、たくさんの人でにぎわっていました。

「安祥文化のさとまつり」の案内板が博物館に掲示してありました。


鎧兜を着た人もいました。


太鼓のイベントもやっていました。

 館内への入場料は、いつもは200円なのですが、今日(10月5日)はお祭りということで160円と安くなっていました。

本證寺の聖徳太子絵伝を動画で説明
 常設展は、安城市の歴史を通史的に古代から順を追って説明していました。記憶にあるものを少し紹介します。(館内は撮影禁止でしたので)
(古代)これは名古屋市大曲輪遺跡で発見されたものですが、人に抱かれた犬の骨があったそうです。それで、古代より犬は、人間が狩りをするときの大事なパートナーであったと説明していました。
(中世?)本證寺の聖徳太子絵伝 動画で説明していました。説明された内容は、聖徳太子の伝説でしたが、気になったこと
①幼少の頃の太子の顔の目鼻が消されている絵が多いこと
②寺を作った大工が鉄製の道具を持っていたこと
③やはり太子の服装が奈良時代以降のものに思えたこと。

自由研究に歴史調べ
 博物館のお隣に埋蔵文化財センターがありました。センターのギャラリーみたいなところで子どもの作品の展示がありました。それは夏休みの自由研究で歴史を扱ったものです。とてもたくさんあったので、安城市の子どもには歴史好きが多いのかなと思いました。なかなかたいしたものでした。
 三河一向一揆をとりあげた中3の子の発表が金賞でした。確かによく調べてありました。特にお寺に聞き取り調査に行き、坊さんの話を聞いたことは素晴らしいと思いました。資料として残っているのは、ほとんどが家康(武士)寄りのものですから、それだけだと武士寄りの見方になってしまうからです。もちろんその点は、作品の中で触れていましたが。
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福釜城 安城市

2013年09月22日 09時26分25秒 | 安城市
福釜城主松平家栄地

福釜松平氏栄地の石碑

 三河一向一揆で、家康側に立って一揆勢と戦った松平右京亮(松平親俊)は、福釜松平氏の3代目です。 
<福釜松平氏> (始祖)親盛-親次-親俊-康親・・・・

宝泉院
すぐ隣は「宝泉院」です。


西岸寺

 宝泉院は浄土宗なので、福釜松平氏とはうまくいきそうです。ところが、このすぐ近くに真宗大谷派の寺院を発見してしまいました。「西岸寺」です。西岸寺といえば、京都に有名なお寺がありますが、その西岸寺と関係があるのでしょうか。以下、安城市のホームページです。
 真宗大谷派の寺で、松林山(しょうりんざん)清秀院(せいしゅういん)西岸寺(さいがんじ)と言います。本山(ほんざん)である京都の東本願寺から拝受(はいじゅ)(1667年)した高さ56cm余りの阿弥陀如来立像(あみだにょらいりつぞう)がご本尊です。開基(かいき)は1489(延徳(えんとく)元)年松平玄番と、過去帳に記録が有ります。文化財は、室町時代の絵画で「絹本著色方便法身尊像(けんぽんちゃくしょくほうべんほっしんそんぞう)」が市の指定に登録されています。

開基が松平玄番
 まてまて、開基が松平玄番だって?1489年だって?松平玄番といえば、三河一向一揆でも登場する竹谷松平氏の松平玄番?1489年というので、三河一向一揆の74年前です。三河一向一揆発生以前に松平氏で、松平玄番と名乗る武将がいたのかもしれません。どちらにしてもこのお寺は真宗大谷派ですが、松平と深い関係がありそうです。

松平氏の墓
少しはなれたところに福釜松平氏の墓がありました。


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藤井城 安城市

2013年09月16日 07時37分29秒 | 安城市
藤井城址
 土井城は、誓法寺の西側一帯のどこかにあったらしいですが、松平勘四郎の藤井城は分かりました。


藤井城址の石碑


藤井城址の案内板

しかし、探している途中で不思議なことに気づきました。


東にいかにも城館のあった場所?
 藤井城址は、図のように安正寺の南に位置していましたが、その集落の東側に「西屋敷」「北屋敷」「南屋敷」「東屋敷」という地名のある少し小高い集落を見つけました。中央には、長因寺というお寺があります。この集落の周りは、西に「阿原」という水田がありますが、集落より1~2メートル落ち込んでいます。また北には川(鹿乗川)があり、東側は人口の堀のようなものがあり、南側は矢作川です。四方を堀のようなものに囲まれているのです。
さらに、中に入っていくと、道が狭く、いかにも昔からの集落という感じがしました。

木戸城というお城があった
 ネットで調べたところ、やはりこの集落に木戸城というお城があったらしいです。木戸城はこの集落の最南端春日神社の所に位置していたようです。 木戸城は、文明年間 (1469-1486)、松平信光(のぶみつ)から安城城を与えられた親忠 (ちかただ・安城松平家初代:1431-1501)に従い木戸村に移り住んだ成瀬直庸(なるせなおつね)によって築かれたそうです。また、一色氏被官(ひかん)の石川氏とする説もあるそうです。<安城市HP、なお木戸城址は市指定の史跡>
ただし、当日は木戸城址を発見できませんでした。

一揆の中心本證寺、大谷派安正寺がすぐ近く
 もうひとつ、この藤井城は一揆の中心であった本證寺のすぐ近くにあったということです。松平勘四郎信一は、大変だったと思いました。しかし、案内板には三河一向一揆で戦ったことには触れられていませんでした。
 さらに、藤井城址を探すめやすとした安正寺ですが、よく見ると真宗大谷派。「えっ、こんなに近くにあっていいのか。」と思いました。しかも「開基松下円平綱親は、野寺本證寺の空誓上人に従って僧となり」と書いてあり、どきどきしましたが、さらによく見ると、僧になったのは1600年ごろで、安正寺がここにできたのは1779年とあったので、もう三河一向一揆は昔の話になっている頃の出来事ということが分かりました。


安正寺山門


安正寺の由来

藤井の地名の由来
 藤井城址の近くの県道294号線を北上すると左側に藤井の由来を示す石碑がありました。



 ここに名水が湧き出る井戸があったというのです。いわく「澄んできれいな清水であったことから、藤の花のようだというので、藤井と呼ばれるようになりました。」
 この石碑を右に折れると、はたして井戸の跡がありました。
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