
学校教育では、教師が児童生徒の思いに共感して寄り添うことが大切であると、多くの教職員が言います。
一般的にも、医師が患者さんに寄り添う、自然災害の被災者に寄り添う、政治家が国民に寄り添うなど、「寄り添う」が「響きのいい言葉」として、多用されます。
しかしながら、寄り添うとか共感するというのは、そう簡単なことではなく、だれにでもできるものではありません。それ相当の経験と訓練が必要です。
学校なら、教師が児童生徒の思いに寄り添うためには、その子の行動面だけで価値を判断するのではなく、その行動の背景にあるものを理解します。
行動の善悪を判断することは必要で、時には叱ることもあるでしょう。しかし、なぜそのような行動に至るかの、その児童生徒が置かれている家庭背景などを知って注意するのとそうでないのでは、意味が変わってきます。
学校生活で生徒が上靴のかかとを踏んでいるのは校則ではダメです。でも家庭環境をみてみると、ひとり親家庭で母親は忙しく働いているが、生活は苦しい。そんな忙しくしている母親に、足が大きくなったので新しい上靴を買ってと言えない・・・。
そのような背景はふつう学校にいるだけでは見えてこないのです。その子の心情に共感することが寄り添うということです。
そこまでできる教師でないと寄り添う教師にはなれません。たんに「上靴のかかとを踏んでだらしない奴だ」だけで終始してしまうのです。
さて、医療は患者に寄り添い、医療的見地から冷静に判断する必要があります。
そのためには、相手に対する理解が求められ、共感を寄せる資質が不可欠になるのが本来でしょう。
しかし、実際は医師の心無い言葉に傷つく患者さんもいます。自分が経験したことのない病気を抱える人の痛みやつらさは、理解しているといってもなかなか理解しにくいものではないでしょうか。
そこで、相手の話や症状を詳しく聴くことで理解が深まります。相手とのコミュニケーションがしっくりとくるようになり、信頼関係が深まります。
コメの値段が大幅に上がり、一般の庶民がどのような思いで、毎日のごはんを用意しているのか。
「わたしは米を買ったことがない」と面白おかしくいう人には、わからないのでしょう。
現場のたいへんさ、庶民の思いに共感でき、寄り添うことのできる人が米供給の施策を打ち出してほしいと思います。
もしも寄り添えたりしてもはたしてそれが良いことなのかも問題です。
医師が一人の患者の話を辛抱強く聞いていたとしても、待合室の患者は長時間待たされます。教師が一人の生徒に真剣に寄り添ったとしても、他の生徒をほおって置いてはいけません。
そのような職業の人に頼るのは限界があります。
やはり、家族が寄り添うのが一番かと思います。
限界や制限があるなかでも、最大限業務としてできることとして、「寄り添う」を考えています。