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私は仕事柄、教員になろうとする人や学校の管理職になろうとする人たちが、選考試験で課される教育論文を書く指導をしています。
たとえば、論文としては次のような問題が出されたとします。
「近年、学校の多忙化が指摘されています。あなたが勤務する学校の現状をふまえて、その実態を考察し、さらに、教頭として改善すべき点があれば、あなたの考えを述べなさい。」
教頭試験を受ける人ならば、まずは論文の構想を考えてから、書き出さないといけません。
そのためには、問題点の意図を的確に読みとらなければなりません。
出題者は、
勤務校での多忙化の実態を記述することで、多忙化の原因や背景を指摘することを求めている。
そして、その原因に焦点化して、多くの学校に効果的な改善策を具体的に展開する。(「改善すべき点があれば」と言っているが、これはあるという前提で問うている。)
最後に、教頭として学校改革の強い決意を述べることを期待している。
このように、出題者の意図を読み解き、論文を書かなければなりません。
それが問題文に正対する論文を書くことになるのです。
そこまで、読みとり論文を書き出すとブレることはありません。
まさに、古代中国の思想家・荀子が言っている
「疑を以て(もって)疑を決すれば、決必ず当たらず」
なのです。
あやふやな考えや定まらない気持ちで決定すれば、かならず見当違いな結果になるであろうという意味です。
逆に言えば、しっかり読み解き、疑問がない状態で決めた判断は、大抵の場合正しいということになります。
相手の考えをしっかり傾聴して、分析して理解しないと適切な判断はできないのだと、わたしは考えます。
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