今日で平成という時代が終わります。
平成の時代の終わりともに、私が教職を定年退職できたのは、区切りとして 、少し感慨深いものがあります。
平成の途中から、私も仕事でPCを本格的に使い始めました。初めて携帯電話を持ちはじめたのは、今からちょうど20年前でした。
インターネットが注目され出した約25年前には、ネットは人と人、人と情報をつなぐ道具として、肯定的に捉えられました。
また、誰でも発信者になれるという利点が大きかったのです。
事実、このブログも、ネットのおかげで私は発信することができています。
このように、利点の多いネットですが、いまはコンピュータが計算して、私たち一人ひとりの好みや言動がデータ化され、それに応じた情報を「あなたにおすすめ」として送ってきます。
YouTubeなどは、たとえば野球に関する動画をいくつか閲覧したら、その後は野球関連の情報を、おすすめとして集中的に送ってきます。
つまり、本人には知りたい情報だけが集中して送られてくるという傾向が出てきたのです。
この状況は、ある意味で、ネットは繋がりのツールから、分断のツールとなる側面を表しています。
ネットの進行とともに、平成年間にマスコミの役割や書籍を中心にした出版業界が停滞しました。
小中学生でいえば、読書習慣が形成されないまま、ネット社会に加わっていくのです。
人びとの考え方や価値観も多様化してきて、いま平成の終わりまでやってきたというのが、今日的状況です。
人と人が分断にしむけられやすい、いまの時代にあって、来たる令和の時代に何を期待するか。
それは、人間社会の普遍的価値ともいえる「人と人のつながり(連帯)」を維持発展させることです。
そのための学校教育が果たす不易の価値は、今後もますます注目されなければなりません。
学校には、集団生活があります。学習を仲間と一緒にします。学校行事に集団で取り組みます。部活動は生徒間のタテの関係を学ぶ機会です。
高校では、いま集団に頼らない学習スタイルが始まりつつありす。
心斎橋では、個人がネット学習をして単位を取得する高校が人気を集めています。
その学習法を否定するわけではありません。時代の要請があるからです。
しかし、とくに小中学校は、仲間と助け合い、力を合わせて、一つのことを成し遂げるという経験を積むことができる、社会に出るまでの、その子にとっての最後の救育機関なのです。
人と人が出会い、直接的に会話をして、豊かにつながり、その価値を体感できる学校教育の存在が見直される。
このことを、来たる令和という時代に期待したいと思います。
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