
わたしは5月12日のブログで、「闇に光を当てる」という話題を提供しました。
「とかくわが子はこれができないとか、あれが不得意という点に注目して、親は直させようとします。
しかし、闇は動かすことも取り除くこともできません。
ではどうすればいいのか。それは光を当てればいいのです。
光を当てると闇は見えなくなります。 つまり、長所に注目していくのです。 」
以上が、5月12日のブログからです。
ところが、世の中には、光が当たると、かえって闇の部分が見えにくくなることもあります。
その一つは、先般の令和への改元騒ぎでのメディアの報道のしかたです。
新元号にかわり、日本中がこんなイベントをしていますというように、全国津々浦々で「令和騒ぎ」が行われていますというような報道をテレビをはじめとするメディアが展開しました。
しかし、実際は、全国の多くの場所では、いつもと変わらず、ふつうに5月1日の午前0時を迎えました。
つまり、メディアは令和のお祝いというメッセージを出したいときには、それに関連したイベントやニュースに集中的に取り上げ、ふつうに新元号を迎えたという記事は流しません。
このように、一つのテーマに集中して光を当てると、その周辺にあるものには光が当たらず、埋もれてしまうのです。
熱中症で子どもが救急車で運ばれたとなると、ここでもあちらでも熱中症が出ているという報道を固めて、メディアは流します。
結果的に、「今の時期熱中症対策が必要だね」という世論ができあがります。
しかし、この時期、まだ暑さに慣れていない人は熱中症を起こしやすいのです。
運動会や遠足が、熱中症を出さずにふつうに行われたという記事を目にすることはありません。
まして、いまのネット時代では、SNSを通して画一的な情報が恐ろしい勢いで広がるのであり、それは平成初期の比ではありません。
一つの投稿に、あっという間に膨大な数のアクセスが集中します。
いまや政治家をはじめとして、人はそれを自分の広報活動に利用します。
一方では、誰かの書き込みに対して、誹謗中傷が集まり「炎上」することもあります。
私たち情報の受け手は、報道されない、ふつうの、あたり前の事実にもっと目を向け、光が当たらない場所への想いを届かせないと、認識が硬直して同調を強いる圧力に飲み込まれてしまいます。
批判的に情報を読み、どの情報が正しくて、どの情報が誤っているのかを見極める習慣をつけなければならないのです。
これからの社会を生きる中学生なら、その習慣づくりはなおさらです。
光が当てられる周辺の暗い場所に目を向け、状況を客観的に、正確に把握する人になってほしいと望みます。