真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

二十世紀アワー「日本誕生」

2006年12月17日 13時06分48秒 | 虫プロ
日本テレビ 「二十世紀アワー」 で牛山 純一局次長さんに山本暎一さんらと、お会いする。
牛山 純一さん(うしやま じゅんいち、1930年2月4日-1997年10月6日)は、日本のドキュメンタリー映像作家で東京都生まれである。早稲田大学文学部卒業ののち、1953年、日本テレビに入局し報道記者として活躍し、1961年ドキュメント番組「ノンフィクション劇場」を製作開始、「老人と鷹」で、民放祭(現日本民間放送連盟賞)金賞と取る。1965年「ベトナム海兵大隊戦記」が大きな反響を呼んだ。のちには、1972年独立して「日本映像記録センター(映像記録)」を設立。フリーのドキュメンタリー映像作家となり、日本テレビでの「トヨタ日曜ドキュメンタリー 知られざる世界」「日立ドキュメンタリー すばらしい世界旅行」などを手がけた。その他の主なプロデュース番組「20世紀アワー」 「楽しい歴史旅行」 「ドキュメント人生の劇場」 「ナゾの海底探検」 「生きている人間旅行」などがある。

暎一さんは、この時のことを、老けていて50歳ぐらいに見えた、が実際は40代であったといっているが、 そのとおりで実際は40歳であった。
「実写で過去の歴史を表現するには、時代考証や歴史事実を探り新たな発見で、歴史は変わってしまう、そこで、漫画で歴史を表せばそれらの難問が解決できる。」と暎一さんに語った。
そして、虫プロをやめてはいたが、山本暎一さんが〝すべてをすることになった〟つまり、お話を作るところから、演出など、すべてである。 虫プロの「日本誕生」制作の始まりであった。
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東京の山賊

2006年12月16日 15時10分15秒 | 虫プロ
昭和45年この年の3月15日から9月13日までの183日間大阪府吹田市の千里丘陵(約350ヘクタール)で「日本万国博覧会」が開かれました。通称「大阪万博 EXPO'70」といわれ、財団法人日本万国博覧会協会が主催しました。

当時マスコミなどでも大いに盛り上がって、「バンパク」として親しまれました。
「人類の進歩と調和」をテーマにして、日本を含む77カ国と四つの国際機関が参加して、総入場者数は、6421万8770人と万博史上最多になり、万博史上初めて黒字となりました。

当時の著名な芸術家や企業なども、多数、協力しています。
今も大阪のエキスポランドにそびえる、芸術家 岡本太郎さんの「太陽の塔」などが有名です。

 手塚治虫先生も、この日本万国博覧会には深くかかわり、セイコー館で上映されたアニメ「おかしな一日」や、フジパンロボット館のプロデュースなどを手掛けていました。

この「おかしな一日」は日本万国博覧会のセイコー・パビリオンで上映された,エンドレスアニメーションです。 
手塚 治虫先生が製作、原案、構成そして絵コンテと演出、作画を北野 英明さんが担当しております。5分42秒、カラー作品でエンドレス上映されなした。

二人の悪戯好きなミドリとオレンジの宇宙人が地球にやって来て、時間を狂わせてしまいました。
 その日の内に季節がどんどんかわって、春夏秋冬と変わって行き、暑くなったり、寒くなったり、おじさんも、あたふた。やっと二人の宇宙人が、機械をなおして、もとの季節に戻ると言うお話でした。

宇宙人のいたずらで時間が大混乱してしまった一日の出来事を通して、時間の大切さを語りかける内容です。
めまぐるしく季節が移り変わって行く様子は、手塚治虫が愛したメタモルフォーゼの魅力にあふれています。
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東京の山賊

2006年12月15日 10時58分07秒 | 虫プロ
「東京の山賊」はその昔「銀座の山賊」という題名で一度昭和37年NHK教育テレビで土曜の夜9時から40分番組として放送されておりました。芸術祭参加ドラマでした。
内容は
交通事故に題材をとった大人のためのメルヘンです。
 西銀座の交差点で、交通整理中の柏木巡査が足の水虫を掻いている間に、とんでもない事件が起きる。入っている車すべてがひっくり返されてしまい、この界隈は大騒ぎになるが、誰も騒ぎを起こした犯人を見ていない。
巡査がほとほと困り果てていると、一人の少女が現れ、事件を目撃した、犯人は友人の山賊だと言う。しかし誰も見たものはおらず、チンプンカンプン。
それもその筈、この千絵は四次元世界からやってきた少女で、彼女にしか山賊は見ることは出来ない。
とんでもない事件は引き続き起きる。車と言う車全てのタイヤが外されたり、走っている車が突然消えたり‥。テレビ技術の粋をこらして、銀座が一瞬にして美しい森になったり、時間の止まった世界を千絵だけが自由に動き回る‥。
お話を書いたのが、永六輔さん。出演がハナ肇(柏木巡査)、黒柳徹子(千絵)。昭和38年に名古屋で再放映されていたことも確認できています。



 今回の「東京の山賊」
放送は昭和45年4月18日土曜17時05分から、30分番組でした。

増える一方の交通事故を、アニメーションを駆使して風刺するミュージカル・コメディとして制作されました。
昭和37年にNHK教育で放映された「銀座の山賊」のリメイクです。虫プロではアニメの部分を受け持ちました。
 この当時、虫プロ商事では、バンパイヤの合成技術を生かしてコマーシャルなども作ったいました。
 実写とアニメーションを合成させる技術は、 虫プロ商事 江古田スタジオで得意とした分野でした。
おの「東京の山賊」もその技術をかわれたものでした。
「東京の山賊」あらすじ
 自動車渋滞で溢れた東京銀座の路上で突如として現れたアニメの山賊たちが道路上の自動車をひっくり返してしまったのだ。その自動車はかつて違反や事故のある自動車ばかりばった。その山賊は、水虫製薬のセールスマン和田の作ったキャラクターで車のドアに書かれていたものであった。和田は、銀座で追突事故にあって首を痛めて仕舞う。一瞬気を失った和田が気が付いてみると、まわりの車は全部ひっくり返っている。犯人を知っている人は誰もいなかったが、和田は確かにドアに書かれていたキャラクターの山賊を見たような気がする。警視庁挙げての必死の捜査にもかかわらず、原因がわからなかった。 捜査に当たる水虫の柏木巡査、その恋人のヒロコ 歌があって踊りもあり、そして虫プロのアニメありの30分バラエティー番組でだったのでした。
出演者 です。
柏木     関口 宏
ヒロコ    由美かおる
警視庁主任  三国一郎
古谷巡査   なべおさみ
座談会アナ  中尾ミエ
座談会男   桜井センリ
ダンプカー運転手 ジェリー藤尾
看護婦    園 まり
アナウンサー 姉川ローザ
R・ホルトハウス
F・グルーバー
大臣     梶 哲也
ムチウチーズ デューク・エイセス
山賊親分の声 熊倉一雄
山賊子分の声 テアトル・エコー
解説者    竜岡 普
神主     福原秀雄
指令官    和田 周
パトカー   笹岡勝治
運転手    小野泰次郎
主婦     石橋暁子
若者     田村元次
    土屋靖雄
マダム    橋本のぶ子
写真屋    吉村 祥
看護婦    滝上秀子
群集     星プロ
巫女     小沢昭一
和田     谷 幹一
【作】     永  六輔
【音楽】    中村 八大
【作詞】    井上 頌一
   かぜ 耕士
【演奏】    新室内楽協会
【振付】    川西 清彦

【制作スタッフ】です。
 撮 影  高尾  隆
 照 明  小島 忠彦
 録 音  植松 信孝
 編 集  青野 伸司
 美 術  星野  昭
 効 果  川崎  清
 特殊撮影 田中 邦彦
 制 作  遠藤 利男
 演 出  末盛 憲彦 

アニメーション部分を虫プロダクションが。制作しております
 虫プロの主なスタッフは
 米山 安彦が 制作
 杉  重行が 演出
 木下 蓮之が キャラクター
と、タイトルには出ておりますが。

  米山 安彦 は  米山 正彦 さん
  杉 重行 とは、 林 重行 さん
  木下 蓮之も 木下 蓮三さんのことですね。
何で、みなさん偽名、なんでしょうね? 
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やさしいライオン 4

2006年12月14日 13時43分28秒 | やさしいライオン
制作は一人でとても大変でしたが、作画の目処がつき、仕上の手配も、背景も仕上がりの終わりが近づき、いよいよ、撮影だしとなった。本来なら、演出のやなせ先生に、演出助手が付くのであるが、全体を把握している君がやってくれということで、2スタの1階の部屋が撮影出しの部屋となり、前もってセルと背景をあわせ、セルの位置を背景にある程度あわせておく作業をしておき、やなせ先生に最終的なチェックを受け、1スタの撮影に運んで、撮影をしてもらった。
 驚いたことに、やなせ先生は、アニメのことについてかなりの知識がおありであった。「千夜一夜物語」だけの経験ではなく、すでにまえに、アニメを経験していることを、あとの会話で、知ることができた。
その一つに「やさしいライオン」のタイトルの下に、やなせ たかしという名前を消し込みで入れます、といわれた。撮影ではないので、まだその技法を知らなかったが。セルに、なまえの文字を書いておき、秒数を決めて、フィルムを逆回しで撮影していく、という技法であった。撮影には、やなせ先生が立会い、セルの文字を、おしりのほうから削っていくのであった。少し削っては撮影し、また削っては、の繰り返し。さいごの「や」の文字に来て、変なことに気が付いた。「や」の書き順が違うのである、「先生それでは、つのあとの左のたてぼう(縦棒)が先になってしまい、書き順が違ってしまいますが」と口出しをしてしまった。にっこりと振り返って、やなせ先生は「いいのです、わたしは、わざと「や」の字を、このように書いております。名前をひらがなで書いているので、特徴をつけるためです。ずーと昔から、意識して、そうしているんですよ」と、おっしゃいました。
 また作画の人たちも自分の担当したカットが心配でした。月に雲がかかり、その雲が左右に開いて月にアップするシーンでは、赤堀さん金山さんらが、やなせ先生に付きっ切りで、奥行きを出すため、多段マルチで撮影することになり、その準備で、背景さんに指示し、書き直してもらったり、マルチの場合、撮影すると下のガラスに上のセルが写ってしまうので、裏にブラックで彩色しておいたり、撮影では、何段ものマルチを組んで、絵のサイズが、おかしくないか何度も確認したり、開いていくタイミングを試し、頭の中で、その絵を想像して、タイミングを直したりなど、1日がかりの作業となってしまう。やっと深夜に撮影が終わり、どうなったか気になるところなので、すぐに即日ラッシュとスタンプを押して、東洋現像所へと、持って行く。銀行のカウンターみたいな東洋現像所には宿直の係りに人が、今は広い部屋に一人しか居らず、「虫プロです、即日ラッシュでお願いします」と渡して帰ってくる。スタジオにはすでに誰も居らず、一人制作質で、出金伝票の整理やスケジュール表の確認、などなど、制作の仕事をして、今日の撮影分のセルと背景を合わせ準備、夜が明けた7時過ぎ久しぶりに椅子を並べねる。9時出勤してきた人の気配で目を覚まし。嗽手水で顔を荒い1スタまでタイムカードを押しに行って、9時半出勤してきた、スタッフに挨拶、打ち合わせ。これももうすぐ終わり。東洋現像所に、何時頃現像が仕上がるかの確認電話を入れ、その時間に合わせて取りに行く(普通3時ごろには上がっていた)編集さんに、ロールに巻き取ってもらい、スタッフに連絡して、1スタ3階で試写をする。「思ったより、奥行きが出ないね」「全体的に暗い」など意見が出て、それを細かくメモしておき、やなせ先生の指示とスタッフの打ち合わせで修正作業に入る。これをリテーク作業といった。この月のアップする作業は、やなせ先生もスタッフも、満足するカットに出来あがらなかったが、スケジュールの関係で、それ以上修正できなかった。なおせなかったといえば、上口さんが苦労したブルブルが走るカット、走る足を音楽に合わせるため、タイムシートにタイミングをしるしして、お手伝いをした。さいごにフェードアウトするが、音楽が、ゆっくりとなる。その音楽に足を合わせるよう指示したので、走っている足が、フェードアウトの時にゆっくりとなってしまった。見ていて気になるので、上口さんと、撮影しなおせば直るんだから、なおそうね、といっていたが、これもスケジュールから、結局なおせなかった。
そのご、撮影が終了して音が先に出来ていたので、完成試写がすぐに?できたのであった。


12月なんとか、「やさしいライオン」は完成した。そして芸術祭に向け動き出した。
個人的なことを書くと、昭和45年になった、遅い春が来ていた、折角の正月休みが取れたのに、淋しい気分になっていた。こんな気分は、初めての経験であった。2日どうにもならない、気持ちで、電話をいている、3日、ドライブをした。5日待ち遠しかった会社での仕事が始まる。仕事が終わって、かばさか峠へ、ドライブしている。6日仕事が終わると早速大野峠方面へ 佐々門君、なべこさん、福山さん、とドライブしている。翌7日は佐々門君の誕生日、日が変わる、ラジオの時報を合図に、「ハッピーバスデー・トゥーユー」を歌う、二瀬ダムへと向かう、そして定時には会社へ戻って仕事をしている。
またこの頃、虫プロのエレキーバンドは、ベースの白畠さんが会社を辞めていたので、わたしがベースを担当していた。12日、リードボーカルの木口君が、新しくボーカル用のアンプを購入したので、ボーカル専門で行きたいと言い出した。そこで、サイドギターとして使用していたギターとアンプと古いマイクを、売りたい、というので、それらを買い取った。どうも仕事が終わると毎日遊んでいたようである。14日仕事が終わるとMkoさんとドライブに行っている、茂原から御宿、勝浦、館山 白浜 のこぎり山、そして城ヶ島、翌日、朝7時彼女を送っている。など、毎日であった。
1月26日プリンス高輪ホテルにて「やなせたかし先生の講演会」が行われた。手塚先生から、行くように命じられたが、どんなことをしたのか、あまり覚えていない。観客が、女子大生がたくさん来ていたのと、「やさしいライオン」の16mmフィルムを、わたしが映写機で上映した、ことぐらい、さいごに、やなせ先生から、車代ですと、封筒を頂いた。「これは、仕事として着ていますから」と辞退したが、是非にと言われ、頂いて、その日は自宅へ直帰して、風の中を見た。2万円が入っていた。その頃のわたしの給料は、70時間打ち切りの残業をして、一回の(月2回の給料支払いであった)給料は、まだ2万を超えていなかった。翌日朝一番で、社長室へ行き、手塚先生に、昨日の報告をして、「車代として、これを頂きましたが、仕事としていきましたので、これは、会社にお渡しいたします」そると先生は、ニコニコして「あなたが頂いたものです頂いておきなさい」と言ってくれた。すぐに、銀行へ行って、貯金したのは言うまでもない。
女子大生がたくさん来ている、そんな場所へいったせいなのか、おしゃれに気を使うようになっていた。ワイシャツもワイシャツ専門店で、襟にピンが通っているタイプを、何枚か買っている。今まで、学生服のズボンをはいていたのもやめて、駅前の懇意のお店で、ツケで買っていた。ブレザーや、マントまで、気に入ればまとめて買った。これは、ここに値引き交渉してまとめて、再度値引き交渉する。そのうえ付けにしてもらうのだから、お店もたまったものではない。2月1日 池袋の西武百貨店の中にあった、眼鏡屋さんへ、コンタクトレンズを作ってもらい訓練で3時間入れている。コンタクトにすれば、カッコいい、サングラスがかけられるから、と思ったことを恥ずかしくも覚えている。2日は5時間、3日は7時間、6日のスキー大会には、カコいいサングラスをかけていく予定であった。
しかし3日坊主でそれも挫折している。現在に至るもコンタクトレンズを使用したという、記憶がないからだ。今まで、仕事だけに夢中となっていたが、「やさしいライオン」あたりから、異性に目覚めたというか、女性ときれいな景色を見に行き、お話をするのが、楽しくなり、不特定多数の方と、今で言うデートを重ねている。これがまた、とっかえ、ひっかえ、夜も寝ないで、次から次えと、よくもまぁと思うほど、ご活発に、していらっしゃるとは、このころの日記を読み直すと、赤面の思いである。でも遊んでばかりいたわけではなく、仕事も精力的にこなして行った。
2月17日「やさしいライオン」で毎日映画コンクール第8回大藤信郎賞受賞を頂いた。苦労の甲斐が報われた思いである。「展覧会の絵」では、お手伝いした、というだけの思い出、タイトルには、名前は載ってはいないが、今回は、制作を一人でやった、河童さんにはまったく手を煩わせず、泣き言一つ言わないで作り上げた。そのうえ、演出助手までやって全面的に、作り上げた、という充実感あふれる作品、それが大藤信郎賞を受賞できたのであった。どれほどうれしかったかは、言い表せない。でも次の18日には山本暎一さんと日本テレビへ行って20世紀の打ち合わせに行っている、
2月23日には「やなせ たかしを励ます会」で舞台監督を担当している。3月21日から、東宝系で封切り上映されることが決まり、「やさしいライオン」のための動きが激しくなる3月1日やさしいライオンのラッシュを東洋現像所へ届け翌 2日「やさしいライオン」の編集を東洋現像所でしている。 3日も「やさしいライオン」で東洋現像所へ詰めて居り 4日 「やさしいライオン」の初号取りラッシュ試写を東洋現像所ないで行っている。
ネガフィルムから、ネガを起こして、上映用のプリントを、複数焼いてもらい21日の全国封切りに向けての準備が整った。
この頃、虫プロのトレッシングマシンの数の足りなさを、痛感させられる出来事があった。ほかにお金を使う趣味もなかったので、給料はまず銀行へ入れて、必要な分だけ降ろしていた。漠然と出はあったが、将来喫茶店みたいなのを開くのがみんなの会話の中の夢であった、しかし目標の頭金まで、貯めると頭金の金額が上がってしまうという、いたちごっこで、少しの貯金が出来ていた。
そこでいっそうのこと個人で、トレッシングマシンを買ってしまおうと考えた。その注文した、トレスマシンが4月9日 城西デュプロから納入された。(なに考えていたんだろう)
4月18日には「東京の山賊」がNHKで放送され 5月4日「やさしいライオン」で第12回児童福祉文化奨励賞を受賞した。
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やさしいライオン3

2006年12月13日 15時53分26秒 | やさしいライオン
 10月 「やなせたかしをはげます会」が渋谷のジャンジャンであった。堀さん、上口さん、わこさん、なべ子さん、マヤさんらと、そのはげます会に行いった。若い人たちが、たくさん来ていて、それが皆、都会風に鮮麗されていて、富士見台の田舎から、出て来たものにとって、少し圧倒された。会場も、ディスコ風の証明で、嫌でも雰囲気が盛り上がっていた、また、流暢なやなせ先生の司会振りにも驚かされた。歌はボニージャックス、それに、伴奏の生バンド。
会は盛り上がり、やなせ先生が、「今月誕生日の方いませんか」と訪ねた、正直に手を上げた。「前にでてきてください」というので前に出た。五、六人であったと思う。ボニージャックスが音楽で祝ってくれて、「では、つぎに「てのひらに太陽を」を皆さんで歌いましょう」ということになった。思わず「しまった、まだ覚えていない」、やなせ先生を好きになったのに、暇がなくて、この有名な曲をまだ聞いていなかった。前へ出なければと後悔した。でも捨てる神在れば、拾う神、きれいな挿絵の入った楽譜を渡してくれた。やっとのことで、歌うことが出来、楽しめた。「じつは」と司会のやなせ先生「彼は今作っている、やさしいライオンの虫プロのスタッフです」と会場の人たちに紹介してくれた。そして一緒に来ていた、仲間も舞台に上がるようにといって、ひとりひとり紹介してくれた、拍手をされ、赤くなった。ボニージャックスの一人と似ているということで、グループの中に入って一緒に歌を歌わせてもらったりもした。思いもよらず、とても素敵な夜を仲間たちと文字通り、時間をわすれて楽しませていただいた。そんな思い出もあった。
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もう一度 やさしいライオンの説明 3

2006年12月12日 15時53分48秒 | やさしいライオン
ある日やなせ先生から、幼稚園で、講演会をするので、一緒しませんかと、お誘いを頂いた。そのような、活動をずうっと続けていたとのことでした。手塚先生の講演会にも帯同していたのですが、雰囲気が違いました、児童と会場が一体なのでした。お話が終わって、スライドの「やさしいライオン」が上映されました。
「昔、ある国のある動物園に一匹の孤児のライオンがいました」
 「コジってこじき?」
 幼い子供たちにどっと笑いがあふれます。
 「こじきだって」とかわいわいと、今では、こじきと言う言葉は、差別用語とかで、放送できない言葉とされ、当初は、「ピー」と消されていましたね。若い人に聞くと知らないと答える人までいます。「こじきの王様」なんて話はどうするのですかね。
お話が進んで、最初の曲が流れました
「こうしてメス犬のムクムクは、ライオンのおかあさんになりました。
 やせてちいさなあかちゃんは、ブルブルふるえていましたから、ブルブルという、なまえがつきました」
幻灯機の絵です。とまっている絵なのに、子供たちはニコニコし、手をつないでいるお母さんを振り返って、指をさして、「ブルブルだって」など言っている、この絵を動かすことが出来るんだ、その時の子供たちは、もっと喜んでくれるはず。ぜったいいいものを作らなくては。
クライマックスが来て
町はずれの森のそばで、ブルブルはもうすっかりとしをとって、いまにも死にそうになっている、ムクムクをみつけました」
「よかったなあ、とうとうあえたんだね」
「ブルブルはなつかしいお母さんにあたまをすりつけて、クーンクーンとあまえました」
銃声   子供たちにひめいがあがりました。
「あ! うってはいけないのに、ブルブルはとてもやさしいライオンです、うってはいけない、やめてぇ!」
銃声 ダダダーン
 おおきな子供たちのやめての声と、泣き出してしまう子がいました。
終わりが来ました
「アフリカまで走っていけば、ブルブルはいきていられるよね」
「そんなに、とおくまで,走れるかしら」
「はしれるさ!はしれぇ!ブルブル!」
こどもたちも一緒にはしれ!と叫んでいました。
音楽が流れ
「走れ、ブルブル、きんいろの、かぜのように、はしれブルブルひかる矢のように
走れ、ぶるぶる走れ、たてがみをなびかせて、走れ!」
金色のライオン、ブルブルが走っていく絵で、お話は終わりました。
ぱちぱちと幼児たちの、可愛い手で拍手が起こりました。もう泣いている子はいませんでした。
正直主人公が死んでしまう、終わらせ方には、あまり積極的ではありませんでした、なんとかハッピーエンドに出来ないものか、やなせ先生にも言いました。しかしこれが答えだったようです。スタッフにも見てもらうことにしました。
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もう一度 やさしいライオンの説明 2

2006年12月11日 15時49分56秒 | やさしいライオン
製作スタッフがきまりました。
製作 手塚治虫先生 原作 総監督 やなせたかし先生 プロデューサー  富岡厚司さん 製作担当 下崎闊さん  演出助手  真佐美ジュン
原動画 赤堀幹治さん、中村和子さん、上口照人さん、金山明博さん、松山マヤさん、渡辺佳子さん、内海武雄さん山守博昭さんなどでした。仕上もトレスの代表が 島野章子さん、彩色代表が、阿部マリ子さん、美術もやなせ先生で背景は阿土延子さん西村邦子さん  田辺めぐみさんなどが、加わりました。ブラシや特殊効果は橋爪朋二さんタイトルも書いてくれます。撮影代表として森昭彦さん、1スタ、撮影班が、手伝ってくれます。編集代表松浦典良さん、
音響はグループタックとして田代敦巳さんが担当してくれました。
お話の中で唄われる歌の歌詞、作詞は当然やなせたかし先生、すでに幻灯機用に作られていた歌の作曲は磯辺俶さん今回のアニメ化を編曲したのが寺島 尚彦さん今回も唱は    ボニージャックス、の皆さん、挿入歌私の好きな「ブルブルの子守」を久里千春さんが歌い、演奏は寺島尚彦とリズム・シャンソネット+ストリンガス、おかあさんと、子供それにナレーションなど声の出演が、久里千春さんと、増山江威子さんお二人でした。
(のちに、日本昔話というロングランのテレビ番組を制作なさりますが、日本昔話も声優さんは2人だけでやっておられます、この時のことが、ヒントになっていたのではと、勝手に思っております。)
録音スタジオは東京スタジオセンター現像は東洋現像所と決まりました。
絵コンテが出来上がり、そこからせりふ台本が作られると、田代さんは、幻灯機でスライドを、寺島 尚彦さんに見ていただき、編曲を依頼しました。

編曲が終わると寺島尚彦とリズム・シャンソネットさんなどで音楽どりが行われ、久里千春さんと、増山江威子さんのせりふどりも、行われました。約27分に及ぶお話の、サウンドが編集され先に完成しました。
 やなせ先生と原画との絵コンテ打ち合わせでは、それを家庭用のテープレコーダーにコピーして、歌の部分の楽譜と一緒に原画家に渡されました。
楽譜が読めない原画家の人もおりましたので、タイムシートに歌詞を書き込んで、動きのタイミングをつかむ作業を、お手伝いできました。これは、千夜一夜で、田代さんがおやりになっていたのを、そばで見せていただいていたおかげでした。やなせ先生は、毎日虫プロの第二スタジオへ通ってきて、キャラクター集や、動きの相談、はたまた、作画にと、文字通り「こまめに」働いておいででした。背景も今までの描き方に、パステルによる手を加えることによって、絵本的な雰囲気となり、女性だけのスタッフは大いに興味を持ちました。
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もう一度 やさしいライオンの説明 1

2006年12月10日 15時45分03秒 | やさしいライオン
いまはむかし、昭和39年より3年間NHKテレビで、『まんが学校』という番組を毎週放送していた。司会は 当時、若手 人気落語家の立川談志さん。講師は、やなせたかしさんであった。

テレビ視聴者から紙に描いた1コマ・マンガを郵送で応募してその中から優秀作を、やなせさんが選び『これはおもしろい!! ギャグが生きていますよ』、などといいながら、壁に貼って紹介した。

フレーベル館から絵本も出しており、素敵な絵が付いた詩集「愛の歌」や「愛の絵本」など若者に読まれていた。おのやさしいライオンの原作は幼稚園などで人気を得ていた絵本であった。
作品の概要と製作スタッフは。
企画意図 「ある街角の物語」「展覧会の絵」と、ユニークなアニメーションの傑作を自主制作し、アニメーションの発展に寄与してきた手塚治虫が、虫プロダクション制作「千夜一夜物語」にて最良のコンビとなった美術監督やなせたかしの代表的傑作の一つである原作「やさしいライオン」は児童絵本(フレーベル館)にして、出版され好評を得、子供向けミュージカルとして、ラジオドラマ化され、スライドミュージカルも製作され、子供はもちろん大人を含めた広い層の多くの人々に親しまれている傑作です。
 この作品をアニメーションにしたいという、やなせたかしの情熱と、作品自体の持つ魅力が手塚治虫を動かし、児童対象の作品には珍しい、制作費と、日本アニメーション界の第一線級のアニメーターと十分な時間をかけての作品作りが実現したのです。

作品の概要
母親をなくした孤児のライオンのブルブルと母親代わりの犬のムクムクの奇妙な親子の愛情を、11曲からなるミュージカルナンバーと人間の母と子の会話でおりなす物語です。
物語はある自然動物園を舞台に繰り広げられます。
母親をなくした赤児のライオンのブルブルは子供をなくした犬のムクムクの甘い乳とやさしい子守唄でスクスクと育ちます。
そしていつの間にかライオンのブルブルは「ワンワン」と吠え、チンチンをしたりビスケットが大好物という、犬のようなライオンに育ちました。
ミミズを追いかけたり、蛙ににらまれて逃げ出したり、ブルブルは母親のムクムクに見守られて楽しい毎日を過ごしました。
そんなある日の雨上がりの午後、散歩の途中でブルブルは水たまりに写った自分の姿が恐ろしい姿をしているのにビックリ! だがムクムクは見かけは違っても心の中が一緒なら気にする事はないとなぐさめられ気をとり直すが、やがて大人になったライオンのブルブルはムクムクと離れ離れにされてしまいます。
幾年月か後、サーカスの人気者となったブルブルは雪国の港町で星の降る夜にかすかななつかしいブルブルの子守唄を耳にします。
ブルブルは我をわすれて檻をぶちブチ破り町を超え、野を超え、山を超え、雪の林の中にやせおとろえたムクムクを探し出しました。
ところがライオンが逃げ出したというので街中は大騒ぎ、武装した警官隊にブルブルとムクムクは殺されてしまいます。
そして、金色のライオンが老いた犬を背に月の光を満身に浴びて夜空を駆けていく姿を最後に物語りは終わります。
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やさしいライオン いたずら書き

2006年12月09日 15時38分32秒 | やさしいライオン
やなせ先生の詩集を真似て、学生時代から、作詞のまねごとを、ノートに書いていましたが、小さな詩集にして、みんなに見せました。すると仲良しの内海武雄さんと山守博昭さんが組んで、二人で詩集を作り発表しました。悔しいけれど、彼らの詩のほうが上手でした。内海武雄さんの「君がお嫁に、行く時は。まるい鏡を送ろうかな、なぜって、君のそのまんまるい、かおが、鏡からはみ出すと、もったいないもん」というもので、すっかりきにいって、その詩に、曲をつけました。
おいこみの、ある日作画のみんなを励まそうと、動画用紙にやなせ先生を真似て、紙芝居ふうの落書きを、つくって描きました。題名は「黒豚のタン子」。くろねこのタンゴという歌が、流行っていたころで、それをもじったものでした。下手な絵でどうってことない、内容でしたが、泊まりっぱなしで、何の娯楽もなかったときでしたので、そんなことで笑ってもらえ、少しは緊張が解けたようで、作画も上がったような気がしました。
またある日、動画用紙に今日は疲れすぎていて、車の運転は出来ないというようなことを、ふざけた文章で、机の棚に画鋲で止めておきました。それが少し受けたので、今度は天井から「必完成 動画UP11月16日(Sunday)やさしいライオン 団結一筋」などと書いた、動画用紙を吊るしました。それがきっかけとなって、作画の人たちが、その下に落書きを吊るし始めたのでした。その数なんと50枚、そんなたわいもないいたずら心が、やさしいライオン班の心を一つにさせていました。やさしいライオンが終わったとき、そのいたずら書きは、はずされましたが、捨てられることなく、大切にしまわれ、思い出の宝物としております。
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やさしいライオン2

2006年12月08日 15時31分47秒 | やさしいライオン
やなせ、先生がキャラクターを書いてくれましたが、作画の人たちは、それを見て頭を抱えてしまいました。やさしいライオンのスライドを見て、とてもよい作品なので、是非、アミメニしようと、意欲に燃えた作画班でしたしかし、スライドや絵本のように止めの絵で見せるのには、問題がなかったのですが、動かすとなると、キャラクターの線は、つなげなければなりません。それに、線がいくつもあるので、一つの線で表さなければ動かすのが、難しくなるのです。線を整理してキャラクターを、統一しなければなりませんでした。それも一番やなせ先生の原画に近いイメージにならなければならないので、作画の人たちは、何度も何度も書き直しては、書いてみたのです。
作画の赤堀幹治さんは、ぼりさんと呼ばれていました。「千夜一夜物語」の時には馬に乗った大勢の盗賊団が駆け寄ってくる、シーンの作画をしたことで、社内では賞賛を浴びておりました。今回も成人したブルブルの走るカットなど、たくさん担当しました。
中村和子さん、手塚先生の女性のキャラクターを、先生以上のキャラクターで描くと言っても言い過ぎではないぐらい、上手なことで有名な原画家でした、面倒見が良いので、周りには、わこさんを慕って、渡辺佳子さんや松山マヤさんが取り巻いていました。ブルブルやムクムクのかわいらしさを出すことの研究や相談で、なべこさんやマヤさんはいつもにぎやかでした、上口照人さんは黒人とか、くろんぼうなど呼ばれていましたが、そんなに色は黒くなかったです。やはり動物の走りなど、担当しておりました。常に勉強する人で、妥協せず動きを音楽に合わせることに、苦労しておりましたが、成人したブルブルがかけていくシーンで、音楽がフェードアウトでゆっ来るになるところまで、あわせたので、ブルブルの脚の動きまで、ゆっくりになってしまって、完成してから、なおすことができず、なおしたい、なおしたいと、おっしゃっていたことを覚えております。金山明博さんも動きのあるシーンを熱心に作画しております、手が早いので一番カット数を上げたかもしれません。
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やさしいライオン

2006年12月07日 15時04分47秒 | やさしいライオン
どろろの制作が終わろうとしていた9月、あしたのジョーの企画を立てていた、富岡厚司は、手塚先生に呼ばれ、「千夜一夜物語で、大変お世話になった、やなせたかしさんに、お礼にアニメを作ってもらおうと思うのだが、あなたがプロデュースしてください。」と言われた。 この企画は、手塚先生がやなせたかしさんと、話をしているうちに、「やなせさんも自分のアニメを作ってみませんか、」といった、やなせさんも常々アニメにしたい話があったので、「ぜひに」と答えた。手塚先生は、これを役員会議にかけたが、そんな実験映画に予算は付けられませんと、つっぱねられ、実現が遅れていたのだが、手塚先生のポケットマネーで、やるからということで、なかば、強引に、強行されることになった。次のアニメラマの企画もまだで、第二スタジオやアニメーターたちは、比較的手空きであった、またこのころやめるスタッフが増えていた、山本暎一さんを初めたくさんの、人たちが、独立したりして、辞めて行った。
 千夜一夜のお礼といわれては、かっぱさんは、断れなかった、しかし、かっぱさんはそれどころではなく、「あしたのジョー」の企画で目の回るような忙しさの中におかれていた。  

ちょうどその時一番古株となっていた、進行のわたしが口をとがらせて、かっぱさんに文句を言いにいった、「わたしは、千夜一夜班の進行のはず、劇場で見たエンディングのスタッフリストからはずされている、「どろろ」で手伝いに来た進行さんも、「どろろと百鬼丸」へ行ったものも、みんな載っているのになぜ私だけがはずされているのだ、人一倍苦労したのに“千夜一夜”を作ったという証がないじゃないか、」と文句をいった。普段から、扱いにくく、何かに付け、上司に食ってかかる、かっぱさんは一瞬厄介な、いまさら修正など不可能、と思ったが、ひらめいた、うまくおだてると、すぐにのってしまう、タイプであったから、と思ったかどうかは定かでないが、「お詫びに、今度やる、やなせさんの映画を任せるから、手塚先生もぜひ君にといっているし、すべて任せるから、困った時だけ言ってくればいいし、一切口出しせずに任せる、」と低姿勢にたのんできた。
 文句のことなどすっかり忘れ、手塚先生が是非といったと聞いては、すっかり上機嫌になって、スタッフタイトルのことなど忘れ、引き受けることを約束した。
早速かっぱさんと一緒に、手塚先生に挨拶に行く、社長室時代から先生とは気心も知れている。手塚先生もすべて任せてくれることに承諾して、「以後君に任せると」いってくれた。
 2スタの1階の制作室が与えられた。大き目の専用ロッカーと制作机、広すぎる部屋にはまだ一人だけであった。
 手塚先生から、やなせさんに連絡してあるから、細かい打ち合わせを、してきてください、と連絡があった。早速、市谷の自衛隊駐屯地正門前の坂の途中にある、やなせさんのお宅へおじゃました。フジテレビの近くのため、住所だけで、簡単にいくことができた。
 やなせさんのアトリエに通され、アシスタントの女性が飲み物を運んでくれた。やさしい笑顔のやなせさんと、スケジュールなど細かい打ち合わせをし、これから制作する、「やさしいライオン」の絵本を見せていただいた。やなせさんは実は絵コンテはすぐにできると思います、音楽もあるのです、この「やさしいライオン」は幻灯機用にすでに作ってあるのです、といって家庭用のテープレコーダーを持ってきた。ボニージャックスのコーラスまで入っている、その物語は素晴らしいものであり、心を打たれた。今度幼稚園で、上映会を催しますので、是非来て下さい、といわれ、約束をした。そのあとは、やなせさんの絵本や詩、などを見せていただき、その不思議な絵の感じに、どのように描くのか質問をした。すると、用紙がおいてあるところに案内され、木枠にたくさんの用紙が立てに入れてある、一つ一つの用紙は色の付いた模様のある用紙が入っていた。この色の付いた用紙に、じかに色鉛筆でかくのですと色鉛筆も見せてくれた、それは、ドイツ製のPastelであったが、色の数が60色もあるものであった。
 珍しそうに、そのパステルを見ていると、「使いかけですがどうぞ」といってくれ、「新しいのがありますので、ご遠慮なく」と、なお言ってくれた。フランスやヨーロッパの珍しい絵の本もたくさんあり、ひろげて、いちいち説明してくださり最後には、ダブっているものがありますから、あげましょう、とそれらの本まで頂いてしまった。

 2スタ2階が「やさしいライオン」班となっていた。よせばいいのにやなせさんから頂いた、本を、片っ端から自慢して歩いた。美術(背景)の人は美大出の人が多く、その本に目を輝かせ、異口同音に「おまえには宝の持ち腐れ」といった。
1階の制作室の机の上に、家から持ってきた木製の小さな本棚を置き、自慢げにその本を飾っておいた。
 虫プロの第一スタジオと、第二スタジオの間の道、その近い所に、お茶や珈琲豆が置いてあるお店ができた。そのお店で、珈琲のサイホンセットを買い、薬局で、アルコールランプ用のアルコールを買って、説明書を見ながら、サイホンで、珈琲をいれ、部屋に遊びに来た人に、珈琲を振舞って、頂いた絵などを見せ、自慢していた。
 珍しく家に帰る事ができた。翌日の朝、机の上の本棚には1冊の本も残っていなかった。いつでもいいから、戻して欲しいと、はりがみをして置いたが、いまだに、帰ってこない。
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どろろと百鬼丸

2006年12月06日 15時15分04秒 | 虫プロ
進行を見てみよう。一クール目
1話 おおだ靖夫(網田)2話国井よういち(洋一)3話中川 宏徳 となっていて
はっきりしているのは以下となる。
おおだ靖夫(1,5話)
国井よういち(2,11話)
中川 宏徳(3,8話)
熊五郎(9話) (安達 登)
金沢 秀一(10,12話)
柴山 達雄(13話)
2クールからは
片山 秀雄(15,18,22,26話)
中川 宏徳(16,19,23話)
真佐美ジュン(17,21,25話)
近井 勉(20,24話)
となっていて中川君を除けば、まったく換わっていることがわかる。

初めのワンクールは、脚本はなかったと思う、原作があったので手塚先生と演出家との打ち合わせで、絵コンテを描き、絵コンテの校閲を終えて、作業に入った。
ツークールからは、どろろのキャラクターをもっと前面に出そうと、話の切り替えがあった、そこでシナリオが必要となったが、これも、話のアイディアは手塚先生から、鈴木良武さん、佐脇徹さん、杉山卓さんなど脚本家に伝えられた、当然校閲があり、なおしも出る、スケジュールのおくれも、であった。

なにを、いいたかったのかというと、初めのワンクールと、次のツークールめは、お話は同じであるが、おなじ虫プロで作っているのであるが、一口で言うと、同じであって異なもの、うまくいえない、「いっしょくた」にしてはいけない、
見方をかけて研究しなければいけない、テレビシリーズなのである。
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どろろと百鬼丸

2006年12月05日 15時12分30秒 | 虫プロ
北野さんは、このあと麻雀ブームで、麻雀劇画で有名になるがこの頃は児童向けの単発読み切りまんがを描いていた。またの昭和47年手塚先生の推薦で、「牧口先生」と言う心に残る漫画を描いた人でもあった。
ひばりが丘から荻窪の閑静な住宅の川端康成が、泊まって小説を書いていてもおかしくないような、旅館ふうの家に越して住んでいた。
 よく、まんちゃんやささかど君、それにひげじじさんなどが、アシストの手伝いに行っているのに出会ったものだた。それまで北野さんは上口照人さんと作画監督ということであったが、チーフディレクターに指名されたのであった。

日本語で、総監督、横文字にすれば、ティーフディレクターなのである。
制作を調べる。制作柴山 達雄、やはり1話から13話となっているので初めの1クールまでが、シバタツさん、この頃虫プロの組合、火曜会の委員長だったかもしれない。親睦会から、労働闘争組合へと変貌しつつあった頃であった。
プロデューサー池内 辰夫 15話から26話となっている14話は受け継ぎのドサクサではっきりしないのであろうが、池ちゃんだったと思う。これも制作を横文字にすればプロデューサーである。
アシスタントプロデューサーに実力派の岩崎 正美さんの名前があるので、実質現場を取り仕切ったのは、いわっちゃんだったかもしれない。
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どろろと百鬼丸

2006年12月04日 15時07分58秒 | 虫プロ
どろろのスタッフについて
ネットで検索すると、実にいい加減なスタッフしか、判明しない。これは、虫プロのホームページや、手塚プロのホームページが、いい加減なスタッフを書いてあるためと思われる。また、ビデオやLDにしたときに、ろくすっぽ、調べもせず、いい加減なスタッフを書いてしまったからとも思う。
そうは、いっても、資料が何もないわけで、どろろのスタッフについては、手を付けたくなかった。
はっきりしているのは、初めの一クール(13話まで)とそれ以後は、タイトルが変更されたのは、衆知のことであるが、それに伴ってスタッフも変更となっている。
「千夜一夜物語」の追い込みで、どろろのスタッフも当然、手伝っているが、7月6日の14話からのスタッフの変化を見ると、何かわかるかもしれない。
原作 手塚治虫 昭和42年8月から少年サンデーに連載、
総監督杉井ギサブローとなっており1話から13話と断っている資料が多く見つかる。
記憶が正しければギッちゃんは、アートフレッシュにいたが、田代さんたちが独立してグループタックを、立ち上げたのがこの年であったと記憶している、ギッちゃんも参加していたのと、どろろを降りたという言葉があたまの片隅にある。そして、チーフディレクターに北野英明さんが、手塚先生から指名された。
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どろろと百鬼丸

2006年12月03日 15時03分39秒 | 虫プロ
この「どろろ」は(声は松島みのりさんでした)野党の頭の子として生まれました。部下の裏切りによって、両親を失い天涯孤独となった身の上でした、ストーリは怪奇な身の上の百鬼丸(声はアランドロンの声でおなじみだった、野沢那智さん)の影となってしまいタイトル「どろろ」の存在が霞みがちでありました。貪欲なまでのバイタリティーある、「どろろ」は自分の運命を変えようとする人間として描かれ、運命に縛られた百鬼丸とは両極端であり、「どろろ」は異色の時代劇アニメということだけではなく、そのテーマにおいても、問題を投げかけ、話題となった作品でした。
 
7月6日の2クールめからはタイトル名を「どろろと 百鬼丸」と変更しています。「千夜一夜物語」が終了して、スタッフの配置換えもありました。
第1話 「百鬼丸の巻・その一 」 演出 出崎 統 では
「戦国の持侍であった醍醐景光は自分の野望をかなえてもらえるなら、生贄として生まれてくる自分の子どもを48体の魔神に捧げると誓った。そのせいで赤ん坊は体の48箇所を奪われて生まれてきた、そしてあまりのおぞましさに醍醐景光はその子を川へ捨ててしまった。

しかし赤ん坊は生き延びた。天才的な医師に身体の足りない部分を補われ、百鬼丸と名乗って成長した。
百鬼丸は常に死霊に付きまとわれていたが、天才的な医師によって両腕の義手に仕込まれた鋭い剣で、それらを切り倒していった。
そんな百鬼丸はある時、刀と名がつけば何でも欲しがる刀泥棒の少年、どろろと出会った。
というストーリで百鬼丸の生い立ちと「どろろ」との出会いをえがいていました。
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