真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

虫プロ外伝10

2006年12月31日 13時07分24秒 | 虫プロ
この頃、結婚する覚悟を決めた、内海ちゃんたちと日曜日には式場を探しに行っていた。あらかじめ笠井君が電話で聞いておいたが、場所などの確認に行くのであった。虫プロの人たちが良く使う、新宿ステーションビルや、椿山荘、ダイヤモンドホテル、教会、など訪ね歩いたが内海ちゃんたちが納得できる式場ではなかった。
やっと決めたのが、田町駅近くの芝田町 新日本会館であった。そこは前にやなせたかしさんの講演会を行なった近くであった。そして会費制で行うことに決めた。
場所が遠いが、みんなに来てもらいたいので、1,000円の会費にした。司会を受け持つことになり、おめでたい場所で使う言葉の練習をする羽目になってしまったが、心は楽しかった。
そんな会議は、お母さんの部屋で行われた。
案内状の制作を始めると言うので、皆で手分けして作ろうと申し出たが、心を込めた招待状にしたいので、2人だけで作りたいという。
そして見本ができたのでその招待状を見せてもらった。往復はがき大の色付き用紙を二つ折りにしたもので表に
「けっこんしきのおしらせ、
うちうみ たけお 
さかい しずこ」
と書いてありバイクに乗った2人の、絵が描いてあった。
中には、
「○ オフロの好きな女の子と」
「オートバイ野郎が」
「フトしたことでめぐりあって」
「結婚します。」
「それは神様のイタズラからかな・・・?」
次のページに 
「ごあんない 5月4日 PM1:30―4:00  
芝田町新・日本会館 
かいひ ¥1000 

そしてピエロの帽子をかぶった、男の子と女の子それにねこの絵が描かれ、着ている服にあとからピンクと水色が着色してあった。
それらは和紙で、カバーがしてあり、その文字と絵のところだけ、切り抜いてある。
と言う、大変手のこんだモノであった。

仕事を終わって帰宅したアパートで2人で幸せに包まれてその作業をしている姿をお思い浮かべると、微笑まずにはいられなかった。
 
4月19日の日曜には千葉へ潮干狩りに行くことにした。千葉は内海君のふるさとである。
牛越君と、彼のフィアンセやバンドの連中それに、フルートを演奏してくれた、吉村君。作画の万之助君、佐々門君、山守君、なべ子さんなどクレオパトラ班 の人たちなどを、安達君や中川君の進行3人が運転して富津海岸へ行った。
前もって調べてから行けばよかったのに、着いた時には満潮となっていて、潮干狩りが出来なかった。
おなじ車で移動した、リードギターの牛越君と、事前に調べなかったことを指摘され、一事は、「電車で帰る」とまで言い出すほどの険悪な空気になってしまった。
 簡単な海の家風の建物で地元の若者がバンドの練習をしていた。始めたばかりか、騒音のように聞こえた。近づいて見ていたが、そのうち、牛越君がリードギターを教え始めた。すると内田君もドラムを教え始めたので、わたしもベースギターを教えた。この頃ピックを使わないで指で引くのが流行っていたので、チョッパーをちょうど、練習していた。その引き方を教えていたが、「何か弾いてくれないか」と、ねだられた。
「俺ら、高いんだぜ」など冗談を言う頃には、一緒に行った連中も」取り囲んでいた。
演奏が始り、そのうちまわりで踊りだした、小さなパーティーとなる、アンコールにこたえて、調子に乗って、1時間半ぐらい、何曲も演奏してしまった。お決まりの「イエスタデー」で演奏を終わると、いつの間にか集まった、大勢の若者たちから、歓声と拍手が起こった。「快感」こんなときが一番幸せを感じる。帰りの車中は、ご機嫌だった、鼻歌まで出ている。
浮かれて運転していたものだから、信号待ちで、ほかの車とはぐれてしまった。
全員が一度会社まで戻るので、会社へ着けば、また合えるのだからと、車を走らせた。蔵前通りから国道17号にぶつかる、本郷通りを右折して神田明神さん前を通り、ガソリンスタンドの信号先で左によっておく、その先の信号を左折下り坂となる。「この左側あたりに、あの有名な漫画少年を発刊していた加藤謙一さんの会社があったんだって」と説明する。
実は、その説明をするためわざわざこの道を選んでいた。坂を下ってそのまま直進し地下鉄後楽園を左折、突き当たりを右折すると神田川沿いの狭い抜け道広い道に突き当たり右折してすぐ左の一方通行の坂を登る。この坂が目白坂で式場探しで来た椿山荘へ出る。
すると右に大きな教会が立っている。この時はまだ東京カテドラル聖マリア大聖堂の聖堂であることは知らなかった。山守君が「入れるのかな」と言った、その門は大きく開いていた。
駐車場に車を止めて、見せていただくことにした。岩場と池が目に入った、洞窟の中にマリアの像があった。入り口から建物の中に入った。四角い岩を彫刻したような、オブジェが目に入った。中に入ると広い空間がひろがったとても大きな部屋があった。パイプオルガンが目にはいった。背筋が正されると言うか、尊厳のある部屋であった、自然と頭をたれた。全員の目が清清しい目をしていた。
この時、人と出会わなかったのが不思議であった。

車に乗って門を出た。左に田中角栄さんの邸宅があったが、首相となられるのは、まだ先である。

ふと、おかしいことに気がついた。いつもは混雑する道路、それが、前にも後にも1台の車が走っていないのである。「この時間、動いているのは自分たちだけ、」のようなおかしな空間であった。そこから脱出するため、スピードを上げ、前方に見えた車に近づいていった。思わず、全員が、顔を見合わせた。前の2台は、はぐれた仲間の車だった。「奇跡だ」そう。叫んだ。
前の車の二人は「普段この道はあまり使わない、それを、たまたま使って帰ってきた」と言う。
それだけだったが、今も心に残る出来事であった。

5月1日金曜日虫プロもこの日メーデーに参加した。正確には虫プロの労働組合火曜会の参加であるが、火曜会は親睦会のようなものであったので、お祭りみたいなのものであった。だから飲み物にお菓子、お弁当まで持っての参加である。原宿の選手村跡地に集合。誰かがわめいている、スピーカーから流れている、演説を聞いているものはいない。やっとながい、わめきが終わり、前日作っておいたプラカードや垂れ幕を掲げ、行進がはじまる。
先導者の運転を任された。あまりにもゆっくり進むので、途中車は、オーバーヒート、こんなときあわてず、ボンネットを半開きにしてヒーターをかける、ヒーターの構造がラジエターとおなじことを知っていれば、疑問は無いはずが、「暑いのになぜ」という質問が多いのに驚いた。

途中国会議事堂前で、目の前の連中が、禁じられた、ジグザグ行進を始め、警備の機動隊と険悪な状態になったが、それでもなんとか無事日比谷公園に着き、プラカードやごみを車に積み込み一足先に会社へ戻った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする