真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

千夜一夜物語

2006年11月14日 22時35分49秒 | 虫プロ千夜一夜物語
昭和40年の秋、虫プロダクションの経営の梃入れで、経理に高橋経理部長を外部から迎え、明治製菓の島方道年さんを、手塚治虫のマネージャーとして社長室部長として迎えた。55歳であった。2人とも口の悪い連中から天下りだなどと、陰口を叩く者も居た。

 昔から今井専務がマネージャーとして、手塚治虫を支えてきたが、虫プロダクションの専務として多忙になったことと、虫プロ商亊の設立に当たって、最高責任者となってもらう予定でもあった。

社長室は手塚治虫の自宅一階に仕事場があり、アシスタントと一緒で、雑誌漫画などの執筆に当たっていたが、漫画部を、中村橋に移し、空いた部屋をアシスタントが仕事を出来るようにしたまま、社長室としてその部屋を使用した。

2階に応接室もあったが、そこは役員会議室とした。それまで社長秘書の宮下裕子さんはそのまま社長室付けとなり、新たに、進行の私が映画部のことをあまり知らない島方部長を補助するということで、社長室勤務を命じられた。

あとで入社した、大島さんや、運転手で長いこと手塚先生の身の回りの世話をしていた須崎さんなどもお手伝いした「展覧会の絵」が昭和42年芸術祭奨励賞や、大藤賞などを受賞した。

 良い映画をもっと大勢の人に見ていただこうじゃないかと、さっそく島方部長と映画館など「展覧会の絵」の上映交渉を始め、2月4日丸の内ピカデリーで「恋人達の世界」と一緒に封切り上映にこぎつけた。

その後も島方部長と一緒に、明治製菓時代のお付き合いがあったところなどを、挨拶して回った。ユナイテッドアーチスト、教育映画社制作者連盟、松竹本社、日本音楽著作権協会など、映画に関係する会社に、何度も足を運び「展覧会の絵」がいかに良い作品かを説明して周り、1度見てくれるようお願いした、そのために16mmのフィルムも用意し見て見ましょうといわれたらすぐに届けられるように準備もした。例えば、松竹本社の野崎宣伝部長さんにも展覧会の絵を見ていただけると連絡を頂、すぐにフィルムを届け、見ていただいているし、4月には著作権協会へ行き、16mmの「展覧会の絵」をお見せしている。そして新日本興業株式会社、新宿東急文化会館「ミラノ座」支配人の秋田 馨様方や渋谷東急文化会館「パンティオン」支配人堀江 鈴男様ほか、それに 松竹セントラルの方々にあいさつ回りをした。

その努力が実って、4月には新宿ミラノ座 渋谷パンティオン 松竹セントラルの各映画館で、映画「天地創造」とともに「展覧会の絵」はロードショー公開することができた。
 松竹の関係から、日本ヘラルド映画株式会社 関東支社長の沖本忠晴様などにも、島方部長と一緒にお伺いして「展覧会の絵」を見ていただいていた。

 秋、日本ヘラルド映画株式会社の波多野三朗専務と名乗る人から、社長室に連絡が入った、「社長さんはおいでになられますか」との電話でその電話を島方部長に取り次いだ、何か良いことが、の予感があった。島方部長はその電話の重大さから、良いお話のようですと説明し、すぐに社長(手塚)と電話をかわった。
 その話は。「劇場用に、大人のための娯楽長編アニメーションを作ってもらえないでしょうか」と言うアニメ制作の依頼であった。
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海底都市の出来るまで

2006年11月12日 17時02分13秒 | 虫プロ
山本暎一さんによると、暎一さんに援助を求めたのは12月28日であったと言う、40分しか出来ておらず、現在必要分数が足りなくて、納品に間に合わない、そのうえ演出が降りたと言うことであった。スタッフが正月休みに入って作業が出来ず、不足の5分強をストーリーを損なわず、資料室のライブだけで作る作業をすることになった。1月3日撮影が終わり4日編集5日アフレコダビング、6日納入そして2月2日日曜日午後10時半日本テレビで二十世紀アワー「海底都市の出来るまで」は放送することができた。 しかし、
山本暎一さんは「千夜一夜物語」のフタッフから正月休みに内職をしていたと見られてしまった。この仕事は虫プログループの危機を救うためで、役員であった山本暎一さんには、給料が増えたわけでもなく、残業代も付かず、正月休み返上の徹夜続きはただ働きであったのだ、まさに「泣きっ面に蜂」であった。
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海底都市のできるまで

2006年11月11日 16時58分22秒 | 虫プロ
海底都市のできるまで
日本テレビの「二十世紀アワー」44年2月2日45分17秒カラー作品 虫プロ商亊(ほとんどが虫プロのスタッフ)ストーリーは次のようであった。
海底都市建設をライフワークと考えた山本太郎は昭和47年東京エレクトロニック社で働き始めた。小型潜水艇技師である、三上和子と結婚多摩ニュウタウンに住む、1983年にマンボウ号遭難救助や1986年息子と海底都市 瀬戸オセアノコピアを着工、事故で息子泰介を失ったりするが1997年 海底都市を完済させる。
手塚先生は山崎忠昭さんに脚本を依頼している。
制作プロデューサーがW3の池内辰夫、実際には柴山達雄さんが補助として動いていた。演出が坂本雄作のちに年が明けて山本暎一さんに泣きついて?いる。キャラクターが木村しゅうじさん背景デザインが藤本四郎さんで、背景が松本強さんと槻間八郎さん、トレスが北岡光代さんなどで、彩色が高橋富子さん
進行に片山秀夫さん、北岡輝久さん、野崎欣久さんなどであった
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ワンダー君の初夢宇宙旅行

2006年11月10日 23時50分42秒 | 虫プロ
11月23日土曜日 晴 虫プロ運動会が豊島園内グランドで9時半から開かれ   なかった。 徹夜続きで集まりが悪く会社の始まる時間9時半では人の集まりが悪かったのだ、協議の結果10時半から開始にして、挨拶、そしてラジオ体操で始まり、パン食い競争や、騎馬戦まであって、寝不足を忘れて3時すぎの最後までみんなが憂さを晴らすように大いに楽しんだのである。
楽しんだあとは日曜もなかった、兼任であったので
11月24日日曜日 富岡厚司プロデューサーは富士見台駅前にあった手塚プロへ、「千夜一夜」のストリーボードを手塚先生に見せるようとわたしに指示している。(手塚先生に見ていただく大変さは、ただ順番が来るのを祈って待つだけ)
そんな中有名な事件も起きた。
12月10日火曜日 東京府中市で3億円強盗事件が起きる。都内いたるところで検問が行われ、池袋西口で検問を受けたが、午後には、混雑しすぎると、検問はなくなった。
撮影最後のシーンはNHKの一番大きいとスタジオでのブルーバックによるワイヤーに吊っての撮影であった。
NHKのプロデューサーはこのスタジオが使うことが出来るのは、大変なことなのだと説明してくれた。
 作画は杉山卓さんと月岡貞夫さんで、予定通りに上げた。仕上げが杉山卓さんのスタジオの奥野りえ子さんなど、背景が伊藤主計さんを中心に、撮影監督とエリアル合成、山浦栄二さん、音響グループタックの田代敦巳さんそして音楽横山菁二さんアフレコやダビングも終わり、完成試写も無事終わった。
12月30日 進行はNHK渋谷の放送センターへ西口通用門からすでに顔パスで入り、大晦日紅白歌合戦に向けて、リハーサル中の騒がしい中のんびり見学しながら、フィルムをお届けした。
1月2日午後6時からNHKで「ワンダー君の初夢宇宙旅行」が放送された。
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ワンダー君の初夢宇宙旅行

2006年11月09日 23時44分48秒 | 虫プロ
11月20日を過ぎたところで手塚治虫の校閲が済んだ部分の作業へ入る。実写部分のロケは清瀬旭が丘団地の制作室の池内 辰夫プロデューサー宅で行うことになる。
 11月22日金曜日 清瀬市旭が丘団地の池内宅へ行く、奥さんと子供さんにお会いしてロケーションで庭など使わせていただく場所の打ち合わせをしている、その後東村山警察署へ、ロケの届けを出し東京電力東村山営業所に行って,ロケで使用する機材や証明の電源をお願いして配電盤を取り付ける位置をきめてきた。再度ロケ現場に戻って、車の屋根に上って、電柱の途中に配電板を取り付けておいた。後日東電で配電盤まで配線してくれてあり、そこから機材の電源を取ることができた。
千夜一夜物語の進行など兼ねていたので 外注に絵の具を届ける等の仕事もしていた。
手塚先生の校閲が終わり絵コンテのOKが出るとすぐにコピーしてNHK担当の今西プロデューサーへ届ける。西部工芸の小道具の椅子の出来上がりが遅れる手塚治虫校閲済み分の絵コンテ5部コピー5時過ぎ伊藤と卓プロへ杉山卓と作画の打ち合わせ などとほんの1日だけとっても、忙しさがわかるであろう。
しかし楽しみもあったのだ
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ワンダー君の初夢宇宙旅行

2006年11月08日 23時35分16秒 | 虫プロ
ワンダー君の初夢宇宙旅行
太郎君(長張卓実)と突然現れたワンダー君(声三輪勝恵)の宇宙旅行に託して、アニメーションと実写で表現した作品

お正月特別番組としてNHKから依頼があった。
手塚先生は、実写と合成による20分の作品にすることにした。
実写の太郎君がワンダー君というアニメキャラのより、宇宙を旅する。太古の世界まで行ったりするが、宇宙の果てまで行くことになり、宇宙の果ては?クラッシュして到着したのはもとの部屋。太郎君は夢を見ていたのだろうか?

11月中旬まで手塚先生は月刊誌、週刊誌、千夜一夜物語、そして虫プロ商事のバンパイアの校閲や出演などで相変わらずの大変なハードスケジュールであった。脚本家の辻 真先氏との打ち合わせや脚本の校閲、そして書き直など、当初は手塚先生の空き時間を待つだけの日々であった。
 ストリーが決まったところで、杉山卓さんが絵コンテにした。これも手塚先生のスケジュールのあいまをぬっての校閲であったが、社長室で手塚先生との交渉方法は知り尽くしていたので、深夜や明け方、うまく、校閲を済ますことができた。すぐさま、実写で使う小道具の製作注文や照明器具のレンタルの手配に走った。 
 小道具は、フジテレビ内の小道具西部工芸にたのんだ、主人公が宇宙を旅する時の乗り物で、床屋の椅子 に電球や飾り付けをした乗り物を作ってもらうことになった。
手塚先生の大まかな、アイディアを卓さんが、スケッチを書いて、大道具の人と打ち合わせを重ね依頼した。
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佐武と市捕物控

2006年11月07日 23時26分26秒 | 虫プロ
第2話(虫プロ制作での2話で実際は3話)般若では、演出助手の神田武幸君が
(ペンネーム横山武幸など、かんだ たけゆき、1943年8月11日 - 1996年7月27日)は福島県出身のアニメーション監督。ワンダー3(進行、演出助手) アンデルセン物語(演出) 国松さまのお通りだい(演出) 小さなバイキング ビッケ(演出) ゼロテスター(演出) 勇者ライディーン(演出) わんぱく大昔クムクム(絵コンテ) 超電磁ロボ コンバトラーV(演出、絵コンテ) 超電磁マシーン ボルテスV(演出、絵コンテ) 闘将ダイモス(ストーリーボード、演出) 星の王子様 プチ・プランス(監督) ザ・ウルトラマン(後期監督) 機動戦士ガンダム(演出) 鉄腕アトム(絵コンテ) 無敵ロボ トライダーG7(演出、絵コンテ) 宇宙大帝ゴットシグマ(前期監督) ドラえもん ぼく、桃太郎のなんなのさ(監督) 太陽の牙ダグラム(共同監督、演出、絵コンテ) 白い牙ホワイトファング物語(演出) 銀河漂流バイファム(監督、絵コンテ) 銀河漂流バイファム 消えた12人(原作、監督) 銀河漂流バイファム ケイトの記憶 涙の奪回作戦(監督) 超力ロボガラット(監督、絵コンテ) 機甲戦記ドラグナー(監督、絵コンテ) 機甲猟兵メロウリンク(監督、絵コンテ) 紅い牙 ブルーソネット(監督、絵コンテ) 紺碧の艦隊(監督) 武者・騎士・コマンドSDガンダム緊急出撃(監督、脚本) 機動戦士ガンダム第08MS小隊(前期監督) 機動戦士ガンダム第08MS小隊ミラーズ・リポート(オリジナルシリーズ監督) などといったテレビアニメ・OVAの総監督を務め、OVA『機動戦士ガンダム第08MS小隊』の総監督を務めたが、1996年に52歳で急逝した。)
 親友のかんちゃんのことを書きたかったが書く暇が無いので、せめて書かせてもらいました。)

 般若の面を手に入れて、趣味のカメラで沢山の角度から撮影した。進行と一緒に徹夜で、それを手塚先生のお父さんの部屋の現像室で、いろんなサイズでプリントしセルの顔の位置の大きさをあわせて切り抜き、いちいち、切ったあとを黒く塗って、両面テープで貼り付ける、と言う作業をやってのけた。進行が少し手伝ったとはいえ、ほとんど一人で仕上た。それが、きっかけか実際には、演出助手であったはずが、オープニングで、かれは仕上関係になっていたと思います。
千夜一夜の絵コンテがなかなか進まないで、はたから見ると暇そうに見えた「千夜一夜」班、疑獄のとばっちりが来るとは、夢にも思わぬ虫プロでありました
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佐武と市捕物控

2006年11月06日 23時21分53秒 | 虫プロ
石森章太郎原作「佐武と市捕物控」はスタジオ・ゼロがパイロットフィルムを作ってセールスした。東京でのセールスは難航したが、大阪電通が放送わくを決めてきた。本来であれば、スタジオ・ゼロ、で製作するはずが、当時から『おそ松くん』の制作をチルドレンズコーナーと、『パーマン』を東京ムービーと、というように、まるまる担当するには、制作能力が不足していたスタジオ・ゼロであった。「佐武と市捕物控」の企画が決まったときも、スタジオ・ゼロでは『怪物くん』を東京ムービーと製作していた。
それで、大阪電通から虫プロに話が来たのであった。虫プロでは林ちゃん(林重行)が総監督と言うことで、「わんぱく探偵団」の森柾さん林重行さんの、コンビが担当することになった。
この作品では森さんの願いで初めて演出も担当している。
スタジオは第3スタジオを使用した。このころまでには、下の住人もいなくなり、お茶屋さんが倉庫として使用していた、部屋にも背景さんが入ったり、彩色の新人さんのグループが使用したりしていた、美人が多かった。(←どうでもいいこと)
早速、林さんは森さんの絵コンテで村野さんとオープニングを制作した。このオープニングはスタジオゼロの回でも使用することとなった。キャラクターデザインのメインは虫プロ村野守美さんが描いている、スタジオ・ゼロも、メインキャラに関しては村野さんのデザインで統一することになった。しかし毎回ごとのゲストキャラクターは各社で作ることにきめた。 この「佐武と市捕物控」ではスタジオゼロとの打ち合わせて、止め絵を有効に使うこと。1枚の絵を太い線で描いて、動きはカメラを動かしてパーンさせたりアップをしたりして、動きをだす。(のちのあしたのジョーなども)と言う石森さんの希望があった。そこで作画をデルマで書いたり、手書きのトレスだけではなく、城西ディプロのトレッシング・マシンも多用した。
枚数が減ることにより、予算が抑えられるのであるが、虫プロのアニメーターたちは、ついつい動かしてしまい、森さんのリテークを受けていた。止め絵なのであるがただパーンやアップをするのではない撮影への指示に試写を見てさすが森さんと皆が称えた。また、必ず何処かに実写の部分を入れる、(池に投げ込まれる釣りのウキなど)と言うことで撮影班がカメラを担いで、ロケに行ったりもした。実験的な要素を取り入れた、「佐武と市捕物控」で楽しく作っていた。
27話「地獄の用心棒」では車数台で、まだ夜が明ける前に、撮影の人たちとりんちゃんたちが、湘南ほうめんの海岸へ行き、担当進行の網田靖夫さん(のちにマッドハウスの社長)が草鞋を履いて波打ち際瀬を走る足を撮影してきて、その映像を使ったりしている。
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バンパイア

2006年11月05日 12時50分26秒 | 虫プロ
1968年10月3日午後7時から12月26日木曜日 年が変わって1969年1月4日から4月5日土曜日まで、フジテレビ系で全26話が放送された、実写とアニメの合成モノクロ作品でした。バンパイヤの変身シーンと変身後のバンパイアをアニメーションで描いている。パイロットはカラーで8分作ったが、まだモノクロテレビの多い時代で、(テレビの番組表もカラー作品は、カラーとしるしがあった。)モノクロ作品となった。アニメや合成は江古田スタジオで、実写はロケーションと、スタジオでのブルーバックで行われた。
江古田スタジオは江古田駅から千川通りを超え13間通りを渡り歌手の南春夫さんの邸宅方面へ坂を下った交差点を右に曲がった右側であった。倉庫と言うより、劇団が使っていた練習場後と言う感じであった。日本に2台しかないと言う合成用の撮影台が売りでコマーシャルなどを制作していた。
 虫プロから出向でスタッフが移っていった、進行の渋江 靖夫 さんもその一人であった、彼は主人公のロックが使う車を探した。石神井公園近くの中古車屋で、オープンカーのスポーツカーを見つけ紹介して購入した。ロケのため山口県の秋吉台まで、車を持っていかなければならなくなった。貨物列車で運ぼうか、など思案していたが、スケジュールと、予算の関係で、渋江君が自分で運転して運ぶこととなった。まだ今みたいに高速道路が無い時代、石原裕次郎がジープを九州まで運ぶ、映画があったが、彼はそれを地で行った。

 早朝のビル街の、スチール写真を何枚も撮ってきた。セルの大きさに引き伸ばして、そこに移っている不要な人物や車などを、背景の人がピース(ブラシ)などを使って消していた。その背景と合成して撮影していた。
虫プロと商亊は、少し確執があったのか、積極的な交流が少なかった、親友が居たので、そんな思い出がある。
 そして母屋の庭での撮影エピソード(お母さんが、なにしているのと撮影を中断させた)や社長室の様子(先生と秘書の宮下さんは、ご本人)スタジオの様子なども写っているので、そうゆう意味でも貴重な作品。
おなじ10月3日午後9時から佐武と市捕物控  第1話  三匹の狂犬  が NETで放送開始された。そして1月2日NHKで放送される「ワンダー君の初夢宇宙旅行」の制作が始まった。
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メールの返事が来た

2006年11月04日 15時40分17秒 | アニメーション
 今日の午後2時過ぎ 杉並アニメーションミュージアム 事務局から、「誕生日トークショーの件:杉並アニメーションミュージアム」の件名で、昨日抗議したメールの返事が来た。
その内容は
 この度は「誕生日トークショー」にご参加いただき誠にありがとうございました。
当日、当館の対応に不行き届きがあり、ご心痛をおかけしましたことを深くお詫び申し上げます。
手塚先生の奥様への対応は、真佐美様のご指摘の通り礼に欠けたものでありました。

真佐美様のご意見を深く心に受け止め、スタッフ一同今後この様な事が無いように運営して参りたいと存じます。
どうぞこれからもご指導、ご鞭撻くださいますよう宜しくお願い申し上げます。

 でありました。
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手塚先生 誕生日記念トークショー

2006年11月03日 15時07分56秒 | アニメーション
杉並アニメーションミュージアムで開かれた、手塚先生の誕生日記念トークショー
「僕の手塚治虫」~上海の手塚治虫-1988年・秋~ へ行って来た。これは<手塚治虫先生が病をおして出かけられた最後の海外旅行の地、上海での知られざるエピソードをアニメーション界の豪華メンバーが語る。二度とない貴重な証言から、不世出のクリエーター手塚治虫の素顔に迫る!> とうたっていて、どうにも興味が会った。
出席者は 川本喜八郎(人形アニメーション作家 人形美術家 日本アニメーション協会会長)
鈴木伸一 (杉並アニメーションミュージアム館長 日本アニメーション協会副会長)
松谷孝征 ((株)手塚プロダクション代表取締役 日本動画協会理事長)
南 正時 (鉄道写真家 日本アニメーション協会会員)
 司会進行役 片山雅博 (多摩美術大学教授 日本アニメーション協会常任理事・事務局長)で13時30分から開始であった。50ccバイクで昼には家を出た、気温がずいぶんと涼しくなったなど感じながらゆっくり行ったが、早めについてしまった、そこで、なにか本でも呼んでいようかと、視聴覚室で本を探し、前から読もうとしていた本、手塚先生の奥様、手塚悦子さんの「夫・手塚治虫とともに」が目に付き、それを読み始めた、新婚旅行で手塚先生が、下痢をしたという、くだりを呼んでいるころ、トークショーの受付開始アナウンサーがあり、この次にはゆっくり読もうと会場へ入った。1時から受け付けて1時半からの開始、ふと、後ろを見ると、今読んでいた本の作者、奥様がいらしていた。虫プロの同窓会以来のご無沙汰であったので、ご挨拶を申し上げた。今読んでいた本を書いたご本人と、久しぶりに会えるとはまったく想像できないことで、なにか縁ということばが浮かんだ。
会の中では、松谷社長が1回だけ「後ろに先生の奥様も見えています」と言ったきりで紹介もなかった。終わって、すぐに奥様の横へ行き見守ったが、ゲストの人が、簡単に挨拶しただけで、松谷社長が言葉を交わしていたが、ゲストのドアから控え室へさがられてしまった、奥様一人取り残されていたのでお話を伺うと、「手塚先生のお墓参りに行った帰りで、この会のことを知ったので、寄ってみました」とのことで、見守っていると、一般の人のドアから会場を出てエレベーターを待っていた、お帰りになるのですかと尋ねると「そうです」と答えられた、受付の人たちとは顔なじみらしく、言葉をかけられたりしていたので、私は帰るため、階段で下へ降り、バイクのそばで帰り支度をしていた。すると手塚先生の奥様が一人で玄関を出てきた、まさかお一人では、お見送りの人はと、建物の中を見たが、誰もお見送りしていなかった。また挨拶をしてわかれたが、てっきり車でおいでで、誰かがついているのかと思ったら、まったくのお一人であるいて行かれた。交差点でまさかのバス停で待っている奥様を見かけた。
 帰り道、次第に怒りがこみ上げてきた、なんと言う失礼な人たちなんだろうか、わざわざ立ち寄られたのに、お茶の一杯も差し上げないのであろうか、そのうえお見送りもしないとは、私の想定の範囲をはるかに超えた、礼儀を知らない行為ではないか。手塚先生の講演をしておきながら、わざわざお寄りになってくださった、先生の奥様に対する、これが態度であろうか。不義理をしている私が、「そんなことを言う資格は無い」、と言われるかもしれないが、とても許せる態度ではない。帰宅してから、ますます腹がたって来て、杉並アニメーションミュージアムへ抗議のメールを出した 。
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創世記

2006年11月02日 21時37分10秒 | 虫プロ
手塚先生は「創世記」と言う、アニメーションフェスティバル用のフィルムの制作にかかりました。虫プロのアニメーターを使えなかったので、
お弟子さんたちに手伝ってもらうことにしました。期間は1週間ぐらいで書き上げています。仕上や撮影だしなどは、黒川慶二郎さんにお願いしました、音響などは 池内辰夫さんに、撮影編集は虫プロで行い、ナレーターは小林清司さんでした。
 あくまで天地創造のパロディーであって、初めに光ありき、のナレーションでは、真っ暗なところでいきなり明るい画面に寿司「ひかり」の実写の場面が写る
と言うような、高級とはいえない(低俗)ギャグの連発でしたが、アニメーションフェスティバルでは,お客の笑いを一番取っていました。
 初め神は女をお作りになりと、始まり、その乳房から男をお作りになった、と言うような内容で、話が進みました。
当時のことを、知っているものが、いないせいなのか、この「創世記」は何のために作ったのかと、言われている作品です。
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聖書を買ってくるようおっしゃいましたが、

2006年11月01日 21時29分40秒 | 虫プロ
手塚治虫先生は聖書を買ってくるようにと、お命じになりました。まだ「聖書」なるものがどのようなものか存じておりませんでした。 たんに本屋へ行き「聖書」をくださいといって、買ってきました。
先生は本来なら「天地創造」を見ているので「創世記」「旧約聖書」を買ってくるものと思っており、とうぜん旧約聖書を買うだろうと思い、何も言わなかったのです。
先生は「違います」と仰せになりました。 無心神者でしたので宗教のことはまったく知りませんでした。今みたくパソコンで検索すればすぐにデーターを得られる、時代ではありませんでした。 石神井図書館へ行き「聖書」について勉強しました。そして「旧約聖書」と、「新約聖書」があり、「旧約聖書」を読んでみて、映画「天地創造」がそうであったと気が付き、新約聖書を旧約聖書に取り替えてもらって、先生にお渡しいました。
手塚先生は「旧約聖書」をお受け取りになって、微笑みなされ、静かに「ご苦労様でした」とおっしゃって下さいました。
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