真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

ふしぎなメルモ

2007年01月23日 09時55分16秒 | ふしぎなメルモ
手塚先生に母屋へ来るようにと呼ばれた。
昔の社長室に入ると手塚先生の傍らに一人の男が立っていた。
「商亊の西崎 弘文氏です」と先生が西崎さんを紹介してくれた。
「実は西崎氏が「アポロの歌」2クールの放送を大阪朝日放送(ABC)で決めてきてくれたんだよ」
 先生の顔が喜びであふれていた。
そして私に「プロディースしてくれるよね」と言った。
 今まで虫プロでは、何度も手塚治虫原作のパイロットフィルムを作っていた、営業したが、誰も放送を決めて来なかった。今考えると営業の力不足だったように思えるが、力不足を隠すためか、手塚原作はもう古い、どこも買ってはくれない、と言う伝説まで作られていた。

 そんな事はない社員からは、ほかのプロダクションは、ああも簡単に放送を決めてくる、手塚原作のほうが、誰が見ても手塚原作だと視聴率が取れるのだから営業もしやすい筈なのに、不思議なことだ、と言う噂が蔓延していた。

 それを、目先を変え大阪のテレビ局へ、商亊へ入ったばかりの平の営業が決めてきた。だから西崎さんは、大英雄である、私も尊敬のまなざしで彼を見て、よろしくと固い握手を交わしたのであった。
 それが西崎氏と初めてお会いした出来事であった。
東京支社の人たちとは、忙しい先生の代理として、細かいことは、西崎氏と一緒に打ち合わせをした。
 スポンサーたちに見せるため、パイロットフィルムが必要だということで、急いでパイロットを制作した、手塚先生がアポロの歌の絵から新たに書いてくれた絵を、カメラワークで動いているように見せる、という、あまり時間とお金をかけないで作る方法にして、音をつけてパイロットフィルムとした。
 そして、その後手塚先生はアニメ化の準備としてアポロの歌の年齢層をさげるために新たに「ままあちゃん」の連載を始める。
虫プロでは手塚原作作品を作らなくなっていたので、版権収入が減り、資金がなくなって行った、その失敗を繰り返さないため版権問題は慎重に検討された。
調べてみると「ママァちゃん」は、すでに商標が登録されていたので使わないことになる。

マネージャーの手塚卓さんや平田昭吾さんが調べたが、いくつか提案された良い名前は、すべて登録されていた。日本語での良い名前はほとんど登録されてしまっていて、だめだと言う話であった。

 新たなネーミングを考えようと、母屋へ集り会議がなされた。こんな状況、前にもあった、と思ったのは、昭和41年の社長室の時にCOMの名前を決めるときにも同じように、喧々諤々と会議をした。そのときとダブる。
 雑誌の編集者やCOM の編集者校條 満さんか、石井 文夫さんまたは野口 勲さんの誰かが参加していた、そして手塚卓さん、平田昭吾さん西崎弘文さん鈴木紀夫さん須崎さんあたりであったと思う。
 何日か討論があり手塚先生が、ボードの黒板に(白板)ボードペンで、メルモと書いた、卓さんがメタモルフォーゼ変身ですねと言った。正直私には分からない言語であった、「メルモ」変な名前、名前としては異質に思えた。
結局ほかにも無くて、登録もされていない、言いなれればいい名前だよと言うことで「メルモ」に決まり、登録された。そしてタイトルは「ふしぎなメルモ」に決まった。
ふしぎなは、ふしぎな少年初め、多く冠用されていて、歌の題名の悲しきなどと同じで無難な題名であった。
スタッフ集めが始まる、手塚先生からは「虫プロには絶対に迷惑をかけないように」
「中村橋の人たちは、当てにしないで」
と言う条件が課せられた。
すでに昭和46年6月となっていて、放送までは4ヶ月を切っていた。
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