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真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

昔を書いておこう

2006年08月05日 00時50分37秒 | Weblog
 ホームページを作り始め過去のことを書こうとすると、子どものころのことが思い出され、その思い出に慕っていると、夜が白々と明けてしまうことが、続いている。なら時々は、ここに書いておくのもひとつの余興ではないかと、書いておいてみよう。
 敗戦の年、9月には、無条件降伏書に調印、その翌月14日に私は、埼玉の浦和中山道は、浦和坂通称焼き米坂といわれている、坂を上ったあたり、番場といわれている、白幡で生まれた、父の両親は父が幼くして相次いでなくなっている。家系を調べると、結核でたくさん亡くなっているので、不治の病というのは事実であったのであろう。母は3女でかわいがられて育ったらしい。その母の父のもとで、結婚生活を始めたらしいが1時弟が生まれたあたりで、岸町の仕事場の倉庫を借りて住んでいた。椎の木があり、椎の実を拾った記憶がある。そんな頃なので、多分3歳か4歳ぐらいだろう、近くに、後に白幡から通った1年保育園があったので推測できる。50銭という単位がまだあった、飴玉が買えた記憶がある。そばの通りは少し広く穴は開いていたが、舗装されていた。バスが止まっていた記憶がある、朝、薪をくべていた。もくもくと上がる黒鉛を眺めていた、木炭車だ、焼き米坂を登るとき、乗客がみんな降りて押していた、面白がって遊んでいた子供たちも押した。
 童謡歌手がそばの長屋に住んでいたという、誰だったのだろうか、記憶にない。まだ赤ちゃんの弟が、お漏らしして、玄関の外で途方にくれている思い出だけが、鮮明に覚えている。父の仕事場が火事になって、震えながら見ていたのも、記憶に残っている。でもそんなものしか覚えていないのか。
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