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真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

ふしぎなメルモ 4話

2007年01月31日 10時20分59秒 | ふしぎなメルモ
第4話「チチャイナ国のとりこ」
本来なら、ワレガラス先生の紹介の話なので、先の放送するべきところ、前後してしまった。
演出は西谷克美和さん、絵コンテの修正派、いけポンが清書してくれた。
手塚先生は、ワレガラスの、特徴付けとして、鼻毛を抜くのが癖、ということに、こだわっていた、子供から見て果たして、どうかと思い、ほかに何か良い特徴づけがないものかと、意見を述べたが、ほかに良いアイディアもなくスケジュールもない時なので、手塚先生の、好きなようにしてもらうことにした。そうして出来上がったのがワレガラス先生で、メルモを助ける大人としての役割を持ってもらうことになった。
 メルモが、チッチャイナ国から尋ねてきた(特別ゲスト出演)大臣に国にご招待という形で、拉致される。メルモが若返りの秘密を知っていると、思われてしまったためであった。
 チッチャイナ国(小さいという意味で疲れると名前まで考えられなくなる証拠)の宮殿に拘束されたメルモは、女将校に、若返りの秘密を話すようにと迫り、ワレガラスに打ち明けるようにと、命令する。

ワレガラスは、今の政権に批判的で、メルモに秘密は話すと、殺されてしまうから話すなという。
 メルモはそんなワレガラスにキャンディを飲んで、その秘密を見せる。
 女将校を赤いキャンディで子供にして、青いキャンディで大人になったメルモは、女将校の服を奪って、ワレガラスと宮廷から逃げ出す。

手塚先生は、突然子供になったり大人になったりするだけでは、面白くないので、動物などに変身できるようになると、面白いのでは、という話が出た。
 かなり設定には無理があるが、考えに考えて上で、動物の変化には幹がありどこかで突然変異が起こり変化の状態で、枝葉に分かれていった。だから細胞分裂の家庭では、人類になるまでの過程をたどる、もしその変化の状態で、とめることができれば、そのときの動物に変化できる、そんな、強引な説明で、赤いキャンディを2つと青いキャンディをひとかけら飲めば動物に変身できるという設定にしよう。ということになった。
 最後にはどうせ「漫画なんだから」良いにつけ悪いにつけ使われる言葉。
でも漫画は夢を追うもの、子供が、ほかの動物に変身できるという夢を与えられるのだから、屁理屈なんぞは、無用の介でいく事にした。

 窮地に追い込まれたメルモとワレガラスは、ワレガラスの指示で赤いキャンディを2つと青いキャンディをひとかけら飲んで、ねずみに変身して、貨物列車で逃げることに成功する。しかし捕まってしまった、ワレガラスは、拷問を受けてキャンディの秘密を喋ってしまった。
 手塚先生が、やってはいけないという拷問シーン、自白をさせるための機械を埋め込むのに、頭にドリルであなを開けるカットが出てしまった。ギャグのつもりでもこれはまずい、外国モノの漫画映画で、人物がモノにぶつかって、ばらばらになる、シーンがあるが、あれは,むこうでは、低俗だと軽蔑されるので、やめようとおっしゃっていた、チェックしきれなかった、その上なおしているスケジュールが全くない。仕方なくそのまま放送せざるを得なくなってしまった。

 メルモはまた捕まってしまった。キャンディの秘密を知った国王と大臣は、赤いキャンディと青いキャンディを間違えて食べ、余計に歳を取り老人になってしまった。
 この落ちは色盲だったという落ちであったが、現在では、色盲という言葉すら、使えなくなっているらしい。使ったほうに罪があるのか、使わせなくしたほうに罪が有るのか、歴史が、答えを出してくれるであろう。
 そしてチッチャイナ国に平和が訪れた。
声優さんは納屋悟朗さん、小原乃立梨子さん梶哲也さん、田の中勇さん、井上玄太郎さん、岩田安生さん本多晋さんベテランがそろった。作画監督山本繁さん作画はタマプロダクションとスタジオジョーク背景が水野尾純一さんと作画から背景に移った山守 博昭くんか手伝ってくれた。仕上は主にスタジオビッグが中心となり、進行は、やーさんこと芝野達弥くんが、担当してくれた。
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ふしぎなメルモ 3話

2007年01月30日 11時26分30秒 | ふしぎなメルモ
第3話「男の子をやっつけろ」
手塚先生と演出家の上田耕介さんとの打ち合わせは、やはり雑誌との兼ね合いで、長いこと待たせた上に、手塚先生が、口頭で話を伝えることとなった。そのためラジカセを購入して、手塚先生の説明をカセットテープに録音して、演出の上田さんに、渡すことにして、日立の120分テープを用意した。
 (13話まではこのような形態を取りましたが、この時のテープは、回収して持っておりましたが、貧乏したとき、音楽をとるのにこのテープを使ってしまいました。今思えばとても貴重な、テープとなりましたのに、何ということをしてしまったのかと、後悔しております。)
 シナリオは作らなかった。テープを聴きながら、あの大きな絵コンテを書いてもらい、それを、手塚先生の校閲を受けて、なんども書き直してもらった。そして秒数をいれ、大目の25分ぐらいにして完成。それを今回は、手塚先生のキャラクターを描くのが一番うまいといわれていた、アシスタントのイケポンこと、池原成利さんに清書してもらい担当してもらった、進行の片山秀夫さんによって、スタジオビックとスタジオジョークに作画依頼した。
 男の子と女の子ではどっちがえらいか。
クラスで男の子と女の子の対立が始まった。メルモたちは上級生の女番長ナナメに、「男の子なんかに、負けてはダメ、」と激励された。
 男の子たちの応援には男番長のシカクが付いた。
男の子と女の子の対立は、どんどん大きくなって、ナナメとシカクの対立になった。
 ホームルームの時間メルモは男の子のいじめを先生に告げた。男の子たちはメルモに仕返しをしていじめた。そんなメルモを助けたのは、男番長シカクであった。弱いいじめはするなというのが、シカクの信念であったからだ。
 誤解したナナメはシカクを罵り、ついには男女のどちらが偉いかを、勝負で決めることとなってしまった。
 それぞれ作戦を立てる、男の子2人が女装してスパイとなるが、怪しまれ、ジュースをどんどん飲まされ、おしっこを我慢できなくなってばれてしまう。
女の子のスパイは、男装したナナメとメルモ、女の子たちに毛虫で脅かそうとしているのを、毛虫の入った箱に青いキャンディを溶かした水を入れる。
 ナナメとシカクはタイマンデ勝負をすることになる、いざ勝負というときに風が吹いて、ナナメの目にごみが入る。心配したシカクは、ナナメをおんぶして、ワレガラス先生の治療を受けにいく。ワレガラス先生から、男も女も、どっちがえらいということはない、どちらがいなくても、子供はできないのだ、という教えを貰い、二人は仲直りをする。
 一方男と女の勝負が始まろうとしていた。男の子が、毛虫の箱を開けると、そこから、きれいな蝶がたくさん飛び出した、これに女の子は、大喜びこれでは喧嘩はできない、駆けつけたナナメとシカクも仲直りしている。男の子と女の子は仲直りをした。

音響はグループタックの明田川進さん、虫プロ出身なので、気心も知れていてかなりのムリを聞いてもらった。効果はイシダ・サウンドが担当、録音が早稲田のアバコ・スタジオ、で行なわれた。
アフレコではメルモの武藤礼子さん、今回は学校の話なので声優さんも多く1話2話でも来てくれて、ワレガラス担当となった、北村弘一さんや 堀 絢子さん、富山 敬さん、 松尾佳子さん沢田和子さん新谷明さん川島ふじ子さんなど狭いスタジオがいっぱいになるほどお集まりになり、活気のあるアフレコとなった。この話は、次の話で、ワレガラスとの出会いがあるのであったが、スケジュールの関係で前後せざるをえなかった。
音楽取りも立ち会ったが、有名な、オーケストラの、楽団員が来ていた。楽譜一発で演奏できるのは良いのだが、楽譜どうりにしか演奏できず、融通が利かないなどという、愚痴が聞こえてきたりして、面白かった。ダビングは、見ていて余り面白くない、映像を見ながら作ってきた擬音を付けていく作業だか、納得いくまで何度も繰り返す、音楽を付けアフレコでとったせりふにかぶせていくのだが、徹夜続きには眠くなる作業で、隅で立ち会っているが、部屋も暗いし、プロジェクターの音が、心地よい子守唄に聞こえてくる。
 至福のとき。
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ふしぎなメルモ 

2007年01月29日 12時06分11秒 | ふしぎなメルモ
手塚プロ映画部には、設備が何もなかった。だから、必要な動画机などは、鎌田家具店に注文してあつらえた。虫プロのも作っているので、手間はかからなかったが、値段は手作りなので高価であった。
 演出家はせりふの秒数を計るのにストップウォッチが必要であった。これも稟議書を書いて20個注文してもらった。島方社長から、届けられたストップウォッチには、手塚プロダクション、と通し番号が彫られていた。早速No1のストップウォッチを、手塚先生にお届けした。
撮影出しをするためと、準備をするための、セルや、背景を置くための、棚が必要であった。これも鎌田家具店さんに作ってもらったが、請求書を見て、島方社長が、青くなるほどの値段であった。「今後、映画部が、放送を続けるための投資だと思って、長い目で見ましょう」と慰めたが、まさか後にあんなことになろうとは、想像だにしていなかった。

放送が近づくと、手塚プロ2階だけでは手狭となってしまった。そこで島方社長と、映画部として使える家を探し回った。探し回ったといっても、不動産屋めぐりをしたわけであった。

第5スタジオから少し離れた、南光幼稚園へ行く道の手前を左に入る道があり、突き当たり左に格子戸の門があってそこを入ると右に建物があった。左が大家さんで地元の広い家であった。1階は、ガラス戸で入ると土間になっており、部屋は上がるのには、少し高かった。板敷きで大きな押入れがあり押入れのふすま2枚分の広いトイレもあった。

 説明によると、縫製工場として使っていたとのことで、天井には配線プラグが都合よく着いていた。2階は2部屋あり、畳の部屋で有った、借りることにした。

一部屋を編集用の部屋として、もう一部屋は泊まりや、試写をするための部屋とした。
一階は撮影出しなど、進行が使う部屋とした。
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ふしぎなメルモ 2話

2007年01月28日 20時15分01秒 | ふしぎなメルモ
2話のときであった、美術監督の明石貞一さんは2階の部屋で背景設定などの仕事をしていた、背景は彼のスタジオで、彼のスタッフと描いていた。そのほかにも、前からの仕事で、ひろみプロの絵本作品も描いていた。

 ひろみプロは、虫プロ左正面の電気屋2階に有った。右の狭い階段を上がったところにスタジオがあり、手塚先生のアシスタントも出入りしていた、もちろん平田さんも手塚卓さんもひろみプロの役員でもあった。

 明石さんは伝える用事があったので、ひろみプロに寄った。仕上がったメルモ第2話の背景が、車のトランクルームに入れてあった。すぐなので、エンジンはかけたままであった。

 もどった目の前で車が盗まれた。追いかけても、車と人では追いつけない。すぐ先の交番で、急いで手配をしてもらったが、背景の価値がわからないので、緊急さに欠け、その日は発見されなかった。

 我々は真っ青になった。放送日も迫っている、撮影出しができない。その夜から、少年探偵団?が活躍する。まずは,逃走方向の石神井団地、駐車してある車をしらみつぶしに調べていく、その日は夜が明けて仕事場に戻った。
明石さんは、徹夜してでも、もう一度描き上げるといった。

 新宿方面の外注さんへ、打ち合わせをしに行くときも、目は明石さんの車を、車酔いするほど探した。

 人の慣性は面白いもので、新宿方面だと、フジテレビへ行くための裏の抜け道があるのであるが、何年も使っているものだから、気を抜くといつの間にか、そのうら道を走っている。 別の言い方をすれば、いつの間にかその道で、虫プロまで帰れるのである。

 その日も環七を突っ切り、裏道をいつものように中村橋から阿佐ヶ谷へぬける道を突っ切る、突き当たりに小学校が有り、少し広い道になる。そこを左折して富士見台駅前を通り手塚プロへと帰るのであるが、そこを右折すると左の歩道に片輪を歩道に乗り上げた乗用車が停めてあった。

 そのナンバーを確認するとビンゴである。すぐにまわりの様子を見て、ドアを開けてみる。ドアの鍵はかかっていなかったので、ボンネットを開けて、コンデンサーの一次コイルからの配線を抜いておく、これでエンジンはかからない。

 警察に連絡するために、公衆電話を探す。富士見台への向け道手前に新しくできた、うどん屋さんがあった。

 お店の公衆電話で110番をする。しかし相手の声は聞こえるのだが、こちらの声が聞こえない。そのうちに、相手が「お店の公衆電話の場合、お店の人から鍵を借りて、かけなおしてください」とのこと、そんなこと全く知らなかった不便である。

 話が通じるようになって、友人の盗難車を発見したので、すぐ来てくださいというのに、要領を得ない、いつの話ですかとか、など細かいことを聞かれる。

 それは、昨日届けを出した交番から盗難届けが上がっていなくて、110番しても、要領が得ないのであったのだ。
 説明するだけで、かなりの時間がかかってしまい犯人が車に戻っているのではと気がかりで仕方なかった。

 連絡がすんですぐに明石さんに電話を入れ、発見したことを伝えた。来るときに鍵がないので鍵を持ってきて欲しいことをも言った。

 車の中で見張りながら、かなり待足されて、パトカーが到着、盗難届けが上がっていなかったため、ここでも説明をする。

 鑑識が来て指紋など採取、車が粉だらけになる。
 助手席のドアにハンドバックが引っかかっていた、多分、ひったくりをして、捨てたのにドアに引っかかっていたのだろうと、被害者の手がかりを探していた。

 こちらはあとで、被害にあった方から、ハンドバック発見のお礼の電話を貰ったが、現金などはなくなっていたという。

 犯人が戻るかもしれないので、見張らなくても良いのですかと尋ねたが、明石さんが、鍵を持ってきたところで、練馬警察で調べるため、車で警察に向かった。

 あとで明石さんから聞いた話では、サンバイザーに鍵が隠してあったとのこと、犯人は、あとでまた戻って来るつもりだったのだ。

 少年探偵団としては、大人の警察官のふがいなさに、不信感ばかりが、増してしまった。

 それでも背景が、すべて無事で戻ってきたのは、うれしかった。
 何より疲れ気味の明石さんに、貫徹(完徹)をさせなくて済んだ事が喜びであったし、偶然にも盗難車が発見できたことに、神も仏もあったものだと感謝した。
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ふしぎなメルモ 4

2007年01月26日 17時35分39秒 | ふしぎなメルモ
ほかのスタッフについて触れてみよう。
ひばりが丘駅から田無へ行く道がある、谷戸という場所の手前に団地ができて、通りに商店街ができていた、本屋さんや電気屋さんなどがあり、床屋さんも有ったが、その床屋さんが廃業したあとに、ジャックという麻雀屋ができた。
むかしからジャックという作画のスタジオがあったが、その雀荘の2階にそれまでひばりが丘北口狭いバスどおりを志木街道に突き当たるあたりに有った、1軒屋のスタジオから引っ越してきていていた、永樹さんの親父さんが雀荘をやっていた。
だから作画を依頼したついでに暇があると、下で、麻雀をした。
そのジョークの代表者として忙しかった、凡人さんに、手塚プロの2階に、机を置いて,ムリ無理チーフディレクターを頼み込んだ。麻雀で勝ったので、そのツケで無理やりやらせたのでは、けしてない。

親友のスタジオテイク正延さんには、やはり机を用意して、これまた社長として、また作画家を育てている最中にもかかわらず、強引に作画監督をお願いした。
同じ頃手塚先生の作品製作が開始されるとの噂を聞きつけて駆けつけてくれた、山本繁さんも、何か手伝いますよ、と来てくれ、手塚プロの2階で作画監督と作画をやってくれることとなった。

この3人がいれば1話の作画は楽にできるであろう、その上ジャックとテイクのスタッフが協力してくれたのであった、が当然絵コンテは遅れに遅れた。
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ふしぎなメルモ 3

2007年01月25日 09時59分18秒 | ふしぎなメルモ
7月スケジュールはどんどん無くなり手塚先生の第1話の絵コンテは遅れに遅れた、さばどころかめざし、を読んでのスケジュールはすでに無いものとなっていた。

オープニングは、中村橋に手塚先生の実験映画を制作するため、待機していた作画家の中の中村和子さんに個人的に手塚先生が頼んだ。これは私に中村橋の人たちは、絶対に手伝わせないで下さいといった手前、私にナイショで、頼んだ形になって、正式には知らされていなかった。だからオープニングは手塚先生が一人で、作ってしまったと、信じていた。
 7月スケジュールはどんどん無くなり手塚先生の第1話の絵コンテは遅れに遅れた、さばどころかめざし、をよんでのスケジュールはすでに無いものとなっていた。
 そんな中、1話のためになんにとも寝ないで仕事をしていた。仕上も東映動画やタツノコの友人たちから紹介された、かなり遠くの外注さんを使っていた。三ヶ島農協のさき16号国道に近い、宮寺という所での農家で、彩色を手伝ってくれたグループの人たちなどは、遠いところを来てくれているというので、徹夜で枚数を上げてくれたことをありがたく覚えている。
 1話の撮影だし最終日には、撮影の菅谷さんの家まで届けに行った、その帰り道、いつものように裏の狭い道で、関越の下の道へ行こうと右折した、その先は下り坂であって、関越沿いに広い道がある、そこを突っ切って、裏道で、大泉学園のほうへ向けられる。
右折したまでは、覚えていた。そのあと熟睡してしまった。けたたましいクラクションの音で、目を覚ました。左を見ると車が迫っていた。思わず、アクセルを踏み込んだ。
 ものすごい衝撃を受けた。後ろを見ると、車とカーブミラーの支柱に挟まれて後ろの席に隙間はなくなっていた。もしアクセルを踏まなかったら、そこに私の体があったわけであった。
 警察での取調べがあったので、会社に知らせるのが遅れた。ギャランGTOは珍しかったので、通りがかった人から手塚プロに「あれでは大怪我か、死んでいるかもしれない」と連絡があった。すぐに島方社長が、現場に駆けつけた。車の状態を見て、気が遠くなったそうだ。取調べが済んで連絡をいれると迎えに来てくれた。会社に着くと手塚先生やスタッフ皆が心配して、出迎えてくれた。先生が島方さんに病院で検査を受けるよう付き添っていくよう指示してくれた。
 
 この事故は、不幸な出来事であったが、島方社長が、個人の車を使わせてもらって申し訳ない、せめて、保険を入っておいて貰おう、と言うので、事故の前日もう1台の軽自動車と保険に入っていた。だから余り出費しないですんだ。
 もうひとつは、言ってはいけないことなので、あえて書かないが、法的処分を受けないで済んだ、と言うことだった。

1話 「ミラクルキャンデーをどうぞ!! 」1971年10月3日  演出 手塚治虫

ある夜のこと、メルモの母親が酔っ払い運転の車にひかれ亡くなってしまった。
 お母さんは天国へ連れて行かれた。神様たちの前で、もう一度メルモたちに合わせて欲しいと、お願いした。そのとき、運命の知恵の輪が外れた。願い事がひとつだけ叶えられるという知恵の輪だった。
 生き返らせてもらえないのなら、残された3人の子供たちを大人にして欲しいと頼んだ。
 神様は十歳年をとる青いキャンディと、反対に十歳若返るキャンディを作る。
2階の物干し台で、悲しんでいるメルモのところに、母親が現れてそのキャンディのビンを渡す。


両親のいなくなった、メルモ、それにトトオ、タッチは、遠縁の遺産(保険金)目当ての意地悪な伯母さんに引き取られることになる。しかしメルモたちは、引き取られることを嫌がった。
 そこでメルモは青いキャンディーを食べて、大人になり、ママも服を着て母親になりすます。どたばたのあと、伯母を追い返すことに成功する。

 放送時間の関係で、もうひとつのエピソードとして、
運転が乱暴な男の話。まるで進行の「やーさん」を予言するような話を入れた。

 その話も解決してその夜、母親のまま、メルモは、トトオと一緒にお風呂に入っている。(ここは、サービスカットで、メルモの、裸を見せている、明らかに、話題になることをねらってのカットであった)
 トトオは「お母さんではない、お姉ちゃんだ、」と言って、メルモであることがばれてしまった。
「どうしてわかったの」のメルモノ問いに「だって目が違う、お姉ちゃんの目だ」といった。
キャンディの秘密をトトオに話し、これからは3人でこの家を守っていこうと誓うのであった。

手塚先生は、久しぶりのテレビアニメということで、乗りに乗っていた。いろいろなアイディアをだしたりもした。
この一話では多くの作画を描いている。
 特に伯母さんのしゃべりのシーンは、手塚 治虫ならではの表情としゃべりの表し方で、これがやりたかったのでは、と思えるほどであった。 アフレコのときに声優さんたちも、この表情の面白さに、乗りに乗ってアフレコをした。 
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ふしぎなメルモ 2

2007年01月24日 11時24分18秒 | ふしぎなメルモ
この頃手塚先生は仕事を減らしていた。
「火の鳥 復活編」これはCOMの看板漫画
早川書房のSFマガジン「鳥人大系 」 を連載
小学館の 小学一年生 と よいこ に「ママァちゃん 」を連載
毎月10日と25日発売小学館のビッグコミックに 「きりひと讃歌」を連載
集英社の週刊少年ジャンプに毎回読みきりの「ライオンブックス」シリーズ
サンケイ新聞には、毎日「青いトリトン」を連載していた。
6月28日 月曜 秋田書店の週刊少年チャンピオン「アラバスター」最終回で連載終わらせた。
 
メルモをにらんでか、かなりの量を減らしたのであった。
減らしたと言っても、もともと多すぎたので、それでもかなりの仕事量であった。

 暇を見つけては、手塚先生と打ち合わせをした。スタッフはまた決まっておらず、仕上の池田さんと、背景の明石さんが、ひろみプロの仕事つながりで、付き合ってくれていた。

先生からのアイディアのひとつで、絵コンテを大きくして、一コマを動画用紙の大きさにする、そうすれば作画の人が楽になるし、キャラクターの統一もできる、「一石二鳥のアイディアだろう」と言うのである。このメルモに関しては、手塚プロ社長の島方さんと、手塚先生が虫プロで、できなかったことをメルモでやらせてあげたい。たとえ赤字になっても、と言うとても幸せな約束をしていた。通しの絵コンテがなくなることで、作業の面では話の全体を見ることが、大変になり、当然制作サイドの仕事は増えるけど、その覚悟をした。

一人では仕事が多すぎてんてこ舞いしているときに、総務課で仲の良かった井出康道君が進行に移っていた、その彼が制作のベテラン片山秀夫君を引っ張って、「メルモ」をやらせろと、押し掛けてきた。手塚先生から、虫プロには迷惑かけないというのが最低条件だから」とありがたいけどお断りしたが、すでに辞表を出してきて、受理されているのだから、ほかに行くところも無いんだぞ、と言われ、本来なら制作の実力者、片山君も進行をやってくれると言うので涙が出るほどうれしかった。

池田さんが、サイケと読んで可愛がっていた進行をやめた、吉田優一さんも引きつづいて来てくれた。4人入れば、何とか進行はまわせる、しかし、先生に付きっ切りなので、最低あと一人欲しく、島方さんに新聞広告を出して募集して、とてもおとなしくて何でも言うことをきく、頑丈そうな、芝野達弥君に来てもらうことに決めた。

のちに彼は、羊の皮をかぶった(いい意味では当時のスカイラインがそうであったが)悪い意味のオオカミであった。車のハンドルを握ると、ジギルとハイドのように、全く人格が変わり、「どけどけじゃまだ、コンニャロー」など、誰が同乗していようがお構いなしに、変身してしまった。池田さんが当然つけたあだ名は「やーさん」であった。

音響を担当してくれることになった、グループタックの明田川さんから、オープニングの楽譜が届けられた、母屋にいたときであった、放送時間枠が西崎さんから、知らせてきて、オープニングの曲は1分ちょっとと言うことになっていた。

奥の先生の机のその奥にピアノがあった。すぐに先生がピアノでその曲を弾いた、アトムやジャングルのときみたいなインパクトは無く、感激したとは行かなかったが、手塚先生からは、何も文句は出なかったので、この曲で行くことになった。

 まだ家に帰れていた、あさガードよりの狭い階段を上がりまずタイムレコーダーを押すことから仕事が始まる。一番はいつも私であった。

階段を登って行くと階段に腰掛けている影が見えた。そろそろ来るだろうと手塚先生が外で待っていたのだ。人がタイムレコーダーを押すのも待てぬようで腕を引っ張り、2階の制作室へと連れて行く、手には持ちきれないほどの動画用紙を持っている。

「見て」と、目の前に差し出して、ぱらぱらと見せる。つぼみが花開く動画が描かれてあった、「ふしぎなメルモ」のオープニングの初めの絵である。昨夜雑誌の仕事が終わったあとで、描き始め今朝書きあがったらしい。楽しくてだらかに見せたくて、待ち焦がれて階段に腰掛けて私が来るのを待っていたのだ。
 寝てないのに、目は爛爛と輝き、少年のいたずらっ子のような仕草であった。次々と出勤してくるスタッフに見せていく、そんな先生のためにもとスタッフは新たな覚悟を決めたのであった。
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ふしぎなメルモ

2007年01月23日 09時55分16秒 | ふしぎなメルモ
手塚先生に母屋へ来るようにと呼ばれた。
昔の社長室に入ると手塚先生の傍らに一人の男が立っていた。
「商亊の西崎 弘文氏です」と先生が西崎さんを紹介してくれた。
「実は西崎氏が「アポロの歌」2クールの放送を大阪朝日放送(ABC)で決めてきてくれたんだよ」
 先生の顔が喜びであふれていた。
そして私に「プロディースしてくれるよね」と言った。
 今まで虫プロでは、何度も手塚治虫原作のパイロットフィルムを作っていた、営業したが、誰も放送を決めて来なかった。今考えると営業の力不足だったように思えるが、力不足を隠すためか、手塚原作はもう古い、どこも買ってはくれない、と言う伝説まで作られていた。

 そんな事はない社員からは、ほかのプロダクションは、ああも簡単に放送を決めてくる、手塚原作のほうが、誰が見ても手塚原作だと視聴率が取れるのだから営業もしやすい筈なのに、不思議なことだ、と言う噂が蔓延していた。

 それを、目先を変え大阪のテレビ局へ、商亊へ入ったばかりの平の営業が決めてきた。だから西崎さんは、大英雄である、私も尊敬のまなざしで彼を見て、よろしくと固い握手を交わしたのであった。
 それが西崎氏と初めてお会いした出来事であった。
東京支社の人たちとは、忙しい先生の代理として、細かいことは、西崎氏と一緒に打ち合わせをした。
 スポンサーたちに見せるため、パイロットフィルムが必要だということで、急いでパイロットを制作した、手塚先生がアポロの歌の絵から新たに書いてくれた絵を、カメラワークで動いているように見せる、という、あまり時間とお金をかけないで作る方法にして、音をつけてパイロットフィルムとした。
 そして、その後手塚先生はアニメ化の準備としてアポロの歌の年齢層をさげるために新たに「ままあちゃん」の連載を始める。
虫プロでは手塚原作作品を作らなくなっていたので、版権収入が減り、資金がなくなって行った、その失敗を繰り返さないため版権問題は慎重に検討された。
調べてみると「ママァちゃん」は、すでに商標が登録されていたので使わないことになる。

マネージャーの手塚卓さんや平田昭吾さんが調べたが、いくつか提案された良い名前は、すべて登録されていた。日本語での良い名前はほとんど登録されてしまっていて、だめだと言う話であった。

 新たなネーミングを考えようと、母屋へ集り会議がなされた。こんな状況、前にもあった、と思ったのは、昭和41年の社長室の時にCOMの名前を決めるときにも同じように、喧々諤々と会議をした。そのときとダブる。
 雑誌の編集者やCOM の編集者校條 満さんか、石井 文夫さんまたは野口 勲さんの誰かが参加していた、そして手塚卓さん、平田昭吾さん西崎弘文さん鈴木紀夫さん須崎さんあたりであったと思う。
 何日か討論があり手塚先生が、ボードの黒板に(白板)ボードペンで、メルモと書いた、卓さんがメタモルフォーゼ変身ですねと言った。正直私には分からない言語であった、「メルモ」変な名前、名前としては異質に思えた。
結局ほかにも無くて、登録もされていない、言いなれればいい名前だよと言うことで「メルモ」に決まり、登録された。そしてタイトルは「ふしぎなメルモ」に決まった。
ふしぎなは、ふしぎな少年初め、多く冠用されていて、歌の題名の悲しきなどと同じで無難な題名であった。
スタッフ集めが始まる、手塚先生からは「虫プロには絶対に迷惑をかけないように」
「中村橋の人たちは、当てにしないで」
と言う条件が課せられた。
すでに昭和46年6月となっていて、放送までは4ヶ月を切っていた。
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