マヨの備忘録・・・マヨのぼやきから

いろいろあったな・・・真実を知りたい!この一心で始めたブログだったが、知れば知るほど世の中の闇は深くなるばかり・・・。

なんこう節

2008-12-21 07:45:29 | ぼやき

昨晩、みなみこうせつのコンサートへいってきた。コンサートと言うより漫談みたいな感じだったけど、楽しい人だ。来年は60歳になるから私より少し上のベビーブマー世代だ。彼が「今夜、この会場で皆様に歌を歌えるのは、そして今でも日本中でコンサートツアーを続ける事ができるのもみんなこの曲、神田川のおかげです。」と、昔は本人も言うように、「神田川」ばかり歌わされ面白くない時期もあったが、ある時から吹っ切れ、逆に恩人のような気がし,感謝を込めて歌う事にしたのだそうだ。本人が感謝を込めて歌った歌が心に響かないはずがない。なにせ、デビューしたころは南高節と書いたレコードジャケットをラジオのDJが「なんこう節って、なに?」っていってたらしいから・・・。

彼のコンサートでは「お決まり」があり、いくつかの曲で決まった動作がある。拍手したり、幼稚園児のようにキラキラ星をすることは肩こりの重い我々の年代にはもってこいだが、こぶしを上げる動作だけは私にはどうしてもできない。年代の差なんだろうか、長渕の真似なんだろうか、私より若い人たちばかりなんだろうか、私がこぶしを上げたのは「安保反対!」「消費税反対!」と叫ぶ時だけであり、怒りを表す時だけだ。これだけは最後までできなかった。

来年度財務省予算案が発表され、史上最高の金額88兆円を越えるとかいてある。税収は確実に落ちる事から歳出を減らせとでも言うのだろうか。やはり新聞は国家債務が危機的状況だと騒ぎ立てる、あんたらは工作員か、国家資産がいくらあるのかも発表するのがすじというものだ。国家が財政を出動させ国の隅々まで税金を撒き散らす以外景気をしたささえする方法がないことぐらい理解できないのか。私は内閣支持率が下がれば下がるほど安心して政治を任せる気になる。早ければ解散まで3ヶ月ぐらいの麻生さん、漢字の読み方以外はおおむね正しいですよ。

さて、昨日行われた「歴史探求委員会」ですが、予定の人数が確保できず、議長の選出ができませんでした。議長を選ぶと一般議員が一人になってしまい、議長には採決の権限がないため議決ができません。すると姫様一人の意見が委員会の総意となってしまう。それは困るので、急遽、単なる座談会に変更した。用意した議題は取り消し、「零細商店のあるべき姿。」と、「義経はジンギスカンか?」について話し合い、「名古屋弁は世界を救えるか?」は次回以降に討議する事となった。

次回の開催はまたお知らせしますが、参加希望の方は申し出てくださいね。


牛が恐い?

2008-12-20 10:26:41 | ぼやき

なぜ天武天皇はを禁じたのか?これが私の今の課題だ。

中国の南部では四足なら机以外なんでも食べると言う。一体どこからこの「穢れ」思想がもたらされたのだろう・・・・、なんて考えている時に、関連はないだろうが、恐ろしい記事を見てしまった。

それは落合莞爾氏の偽史第18回にあった。華人留学生・王奇天からももたらされた情報で、陸軍が細菌兵器を研究するきっかけとなったのだという。「人間の胎盤、または人乳を食べた牛は体内に猛毒が発生し、当の牛は死ぬが、それ以前に近辺にいるものも死ぬ。」という事らしい。だからシナでは塩を取っていない牛、人間の生胎盤を食したる牛は決して野に放牧しないのだという。これがそもそも炭疽菌の元だし、世界中を震撼させた狂牛病、つまりヤコブ病はこの悪魔的な仕組みを利用したものだ。(もちろん人工的な細菌兵器であることはいうまでもない。)

有名な731部隊が満州で毒ガスを作り、人体実験を繰り返していた事は今では常識なのだが、彼等が炭疽菌を作っていたとは知らなかった。おそらく捕虜にした中国人の胎盤を使用し、繰り返しその純度を高めていったのだろう。

おそらくだが、ヒンズー教徒は古代から牛の持つ毒が人間にとって非常に危険な事を経験的に知っていたのではないだろうか。だから731部隊の学者達はその猛毒を中和するための秘薬をインドで見つけたのだろう。それが現在ヤクルトなどの乳酸菌に結びついている。

インド人は牛を食べる事が危険な事を知っていて、それを食べないよう宗教的に禁止したと解釈できる。ちょうど輸血するとエイズになると知っていたさるキリスト教徒が血液製剤を宗教的な理由で拒否したように・・・。

その731部隊の研究者達は中国での人体実験の結果をアメリカに提供する事で何ら罪に問われることもなく、逆にフォートデトリック研究所に雇われ、やがてそれはエイズ菌の発明に貢献したと言う。

落合氏はいう、最初からワンワールドの指令でそれをなし、完成した細菌兵器を風船爆弾でアメリカに落とす計画もワンワールドの指令で取りやめたのだと。最初から日本は仕組まれた戦争をしていたのだから、アメリカに勝つ気などなかったのは当たり前だが。

落合氏が知っていたように、炭疽菌や狂牛病はすべて細菌兵器であり、狂牛病の大騒ぎは作られた災害だったのだ。そんな科学者達の常識はどうして一般のわれわれに知らされないのだろうか。その点、この落合氏の勇気にはまことに頭が下がる。

天武天皇にはまったく関係ない話だが、見逃すわけにいかない話なのでお伝えする。牛を食べるのは注意しよう。


落合莞爾の「偽史」研究へ

2008-12-19 09:42:00 | 古代史

サンカの親分がアヤタチである、と述べた落合莞爾さんの論文集が読書日記http://2006530.blog69.fc2.com/blog-category-10.htmlというページで見ることができる。

ただし、とんでもない量ですよ。画面でこれを読んでいたらほとんどの人は目を患うことになるだろう。そこで、私は偽史と吉薗と二つに分けてコピーし印刷してみた。立派なものが出来、すぐにでも出版できるほどの質と量である。

さて、偽史を重点的に読んでいますが、落合氏が悩んでいるのは神武と崇神、そして応神、いわゆるこの三神が同体であるという事のようだ。応神天皇が八幡神でスキタイ部族だという事はお分かりのようで、私とまったく意見は一致する。神武は日本にその影すら見つけられないため、どうも応神と同体とみなす事にしているようだ。彼は朱蒙が神武である事に気付いていないのだろう。かわいそうに・・・・。

アムール河から降臨し、夫余を築いた余氏(あまる氏)の娘を略奪した檀君が、高句麗を建国したのはおそらく紀元後20年ぐらいであろう。この朱蒙は高句麗の始祖であり、百済の始祖であり、当然日本の始祖である神武というべき神様である。さらに、崇神天皇は高句麗の西川王または美川王で、即位年をどちらにするかの問題である。従って、三神を一体にしたいと願う歴史学者はその事実、つまり高句麗王が天皇だったことを認めたくないだけだ。さらに、応神天皇は好太王または、その次の長寿王である。

落合氏のすばらしいのは、日本へ渡来した部族の影にイスラエル部族が付属してきた事を見抜いていることで、日本をひそかに支配しているユダヤ、イスラエル部族たちは決して表に出ることなく裏から政治を支配してきたのだ。従って、王権にこだわっている従来の歴史家たちは決して日本の支配層を見破る事はできまい。というより、させてもらえまい。

落合氏はシュメールなどの古代文明の生き残り部族は多神教で、道教や仏教の形を以って日本に渡来し、ユダヤやキリスト教などの一神教に今でも屈服することなく生き延びていると述べる。

つまり、シュメール人はイスラエル10部族の中に生き残り、東方へ去り、残ったユダヤ2部族がユダヤ教、キリスト教、イスラム教を広め世界を一神教の世にしようとした。幸い日本はその影響を最小限にとどめ、現在でも世界にまれな多神教の国としてシュメール人の思想を受けついでいるのだそうだ。

人間を宇宙人が作ったと言う考えは楽しいが、それ以外にも、世界が核戦争で滅びた時、極少数の選ばれた人たちが生き残り、再び過ちを犯さないと誓い、彼等が世界を再建しようと立ち上がったと考えてもおもしろいのではないだろうか。

結局、その過ちを落合氏はワンワールド思想と呼ぶ、本来は多神教のシュメール人がユダヤ人たちによって歪曲され一神教になったために南北に分裂した。そして多神教の人たちは東に逃れ、遂に東の園、桃源郷を日本に見つけたのだ。

その数少ない多神教の日本を一神教に変えるための戦いが今でも続いているのだ。


トルハルバンと猿石

2008-12-18 16:08:35 | 古代史

年賀状でも作ろうかと思い、春に旅行した時の飛鳥村の写真を眺めていた。そして、吉備姫王の墓にある猿石という四つの石像をみていて思い出した。

P1010219 P1010221 それは少し前、サムライさんから天武天皇は済州島出身なのではないかといわれ、WIKIで検索した時の画像だ。

最初の二枚は私が飛鳥で撮った写真。次に載せてあるのが、WIKIから引用したトルハルバンという、済州島名物の石像である。これは大きい目、鼻、唇は閉じた顔で両手を腹部であわせるのが特徴だと言う。

Photo_2だから天武がそこの出身だと言うわけではないが、少なくともこの飛鳥の地にどうみても同じ特徴を持った石像が置かれていることはおもしろい。

この吉備姫王の墓が本来誰のものかはわからないが、何かを暗示しているのだろう。書紀によれば吉備姫王は欽明天皇の孫、皇極天皇の母、天智、天武の祖母に当たる。冗談はともかくとして、私は高市皇子(天武の第一皇子)だとしたい。

天武でわからないのが、675年肉食を禁止している事だ、最も4月から9月末までの限定なのだが、私の考える天武は道教だから、ちょっと違和感を覚えるな。仏教は基本に殺生を禁止している、その割りに人は殺してもいいのだが・・・・。

三国史記を読んでいると、新羅が肉食を禁じたのが、聖徳王4年(705)、教書を下し、畜生を殺す事を禁ずるとある。

焼肉大好きな韓国人が肉食を禁じていたとは知らなかったが、このあたりも含め各国の宗教などまだまだ調べる事はたくさんある。

きょうは写真を見て欲しかっただけです。


第二回歴史探求研究会のおしらせ

2008-12-18 09:40:32 | ぼやき

「千年王国」に関する考察が済みやれやれというところです。昨日しんくろうさんから易断は「エタ」革命ですよといわれ、それなら納得するな。

しかし、一向一揆はやはり一向宗の率いる宗教戦争だったと思う。宗教は詳しくないので間違っていたらごめんなさいなのだが、元来、ヒンズー教には生まれ変わりはない。バラモンが生まれ変わってもバラモンであり、ヴァイシャやスーダラは生まれ変わってもおなじである。お釈迦様は仏を信じることで来世にはバラモンになれるかも知れないと説き、カースト制に風穴を開けようとした。しかし、不可触階級を救済しようとはしてない。一向宗は「南無阿弥陀仏」と唱えれば、どんな人も生まれ変わってエタから普通の人間になれると説いた。悪魔的なところは死ねば救われるという事で、彼等は死ぬ事を恐れず、むしろすすんで死のうとしていたようだ。これでは相手はかなわない。石山寺で10年間戦ったのも恐怖を恐れなかったからだろう。

信長は朝廷を利用し和議に持ち込んだのだが、本願寺の無責任さは想像を絶する。各地で最後まで戦った戦士たちは張り付けにされたり奴隷に落とされた。しかもその奴隷達を本願寺が預かり、驚くことに江戸末期まで彼等を商品のように売買していたようだ。今でも続く差別の元凶は正にこの時に形成されたのである。それは太閤検地と呼ばれ、あたかも善政をしたかのごとくだが、現実には刀狩で庶民の武器を奪い、一向宗門徒の奴隷達を本願寺領に押し込めたのである。

加賀、桑名、三河、河内、和歌山、山城、・・・らに今も残る被差別地帯はおおむね一向一揆で立てこもった跡地なのであろう。

私の仕事はなぜその地区に一向宗が広まったのかを調べる事で、関東や東北にそれがなかったのはもともと差別が行なわれていなかったからだろう。

一向一揆は16世紀の話だ、私の専門は3世紀から8世紀界隈で、ギャップが大きすぎる。今は中世の差別を語ることはよそう。もう少し基本となる古代をしっかりやろう。

*********おしらせ*****

さて、今日のタイトルにあるように、今週の土曜日、我がmayoカフェで第二回の歴史探求研究会が開催されます。

議題は「①名古屋弁は世界を救えるか?」「②エジプトに邪馬台国があったの?」

であります。定員は200名(うそ!)、会費はただ。時間は1時から4時半まで。

ご出席の方はコーヒー飲み放題です。講師はmayoです。

参加希望の方はコメントでお申し込みください。場所等をこちらから連絡します。

くれぐれも真剣に来ないでください、たぶん雑談にしかならないでしょうから。


千年王国の最終回

2008-12-17 10:06:25 | 古代史

なぜ最終回かと言えば、私なりに結論が出たからです。まず、著者、「窪田志一」氏の述べる「征韓論はなかった論」については、まったくその通りだと思います。ただし、ひとつをのぞいて、つまり、岩屋梓梁顕彰(易断衆の差別を解放するため)という目的が証明されないという事です。私はこの易断衆の存在したという、誰にも納得のゆく客観的な資料が出てくるものと思い本を読んだ。しかし、どこまで読んでもそれは出て来ない。

西郷が西南戦争で戦った理由は今でも定かではないし、征韓論を唱えて下野したというなら征韓論を彼が唱えた証拠があるはずだが、ない。だから、西郷が解放がなされないため、再び革命を起こそうとしたと言う理屈はかなり有力なのだ。しかし、それにしても易断でなく「エタ」ならわかる。結果、西郷の大使となって朝鮮へ行く目的が、岩屋梓梁の実績や証拠を確認するためという説と、易断衆を解放するために決起したという仮説はあくまで著者ひとりの考えであって、残念ながら証明されるものではない。

また、一向一揆が実は易断政権の一揆であり、石山本願寺との戦いは後の捏造であるという話も、確かに魅力あふれる仮説であるが、客観的資料は何一つ存在しない。その可能性がないわけではないので私も本の中から何かを発見しようとしたが、残念ながらすべてを徳川や島津が抹殺したという話では検証不能である。

秀吉、家康、信玄他、戦国時代の有力武将が多くが岩屋梓梁の息子だと言う、しかし、これも奇想天外と言わざるを得ない。信じたくても信じれる証拠、たとえ古文書だろうが、言い伝えであろうが、なにもない。これも検証不能と言わざるを得ない。

古事記、日本書紀をはじめ大半の重要史書が岩屋が書いたものだと言う説について、岩屋が書いたものだとするなら、なぜ岩屋を抹殺するために多くの架空の人間を登場させたのか、矛盾してくるではないか。古事記は江戸時代に本居宣長が書き直したものだとは八切氏の説であるが、彼は古事記の原本を見た最後の日本人だと証言している。彼によれば、マンガ本のようなものだったという。日本書紀は日本国成立の証明として唐や新羅にもたらされているはずで、日本書紀を元に三国史記が書かれたと聞いている。窪田氏の説を否定はしないが、やはり検証不能である。

たとえば、西郷が黒田清隆に「徳川と酒井、そして保科をまもってやってくれ。」と言ったなかで、保科だけが削除されている、と述べているが、何をもって削除されたと言っているのだろうか。

例をあげればキリがないが、窪田氏の根拠はすべて家に伝わる「かたいぐち記」によるとする。であるなら、少なくともその原本を提示することは最低条件ではないだろうか。

それが提示されない以上、かれの妄想、もしくは仮説、あるいは小説と言われてもやむを得ないと思うがどうであろう。

では、全編すべてが妄想なのかといえば、そうではなく、彼が最も言いたかったのは、島津家と伊集院家の琉球を巡る利権争いを訴えたかったのではないだろうか。

これまた検証不能であるが、島津家が琉球を支配していた伊集院家を弾圧し、沖縄を基地とする朝鮮、明などとの密貿易で大きな利益を上げていたことはおそらく事実なのだろう。

幕末に、英国をバックにして大量の金と武器を手にした薩摩には今でも大きな秘密がある。窪田氏が言いたかった事は島津の闇だったのだろう。

窪田氏の語る日本の歴史には一理ある。つまり、アラブ方面から九州南部に上陸した部族が隼人であり、やがて九州を制圧し九州王朝を築いたと言うのだ。

また、島津の貿易船が漂流し、南伊豆に流れ着き、そこで鉄砲の生産基地を作ったのはおそらく本当だと思う。これは現地の地図まであり、鍛冶衆が鉄砲を作ったことは証明されると思う。

西郷、大久保、東郷ら、多くの有名人を輩出した鍛冶衆の被差別という視点は誤ったものではなく、明治維新後のいくつかの乱との関係を研究することは重要で、この本により新しい切り口が手に入ったことも事実なので決して無駄な作業だったとは思わない。

琉球王朝や薩摩藩に関わる事は専門ではないので割愛させていただく。

姫様のご好意で貴重な本を読むことができました、そして裏づけのため今まで知らなかった時代を研究できたことは非常に有益でした。この場をお借りして感謝いたします。

全体として否定的に聞こえますが、そうではなく、検証不能につき自分の歴史には引用できないという事で、発想としては悪くないと思っています。ただし、九州王朝については古田武彦先生の本を読みすぎではないかな。


千年王国の2

2008-12-16 13:36:51 | インポート

一生懸命「千年王国」を読んでいるが、なかなか大変。ブログで説明しようにもあまりにも細かく、皆さんにわかるように書く自信がない。

それにしてもこの本を八切氏も鹿島氏も読んでいたことに驚いた。彼等は両者とも多くの本を出版し、独自の理論を形成したいたはずで、彼等にとっても窪田氏の述べた内容は自分達の主張に衝撃をもたらしたと思う。私は研究している時代が違うので、従来からの説と特に矛盾はしてこないが、正直なところ大変に驚いている。

特に、家康、秀吉、武田信玄が岩屋の子供だと言うのはどうなんだろう。まず、世間の人は笑って相手にしてくれないだろうな・・・・。ただでさえ変人あつかいされてるのに・・・とほほ。

家康の出自が世良田次郎三郎であると述べたのは両者とも一致するが、単に被差別の出身だと言うのは実はごまかしで、本当のところ岩屋の息子であることを隠蔽するための偽装であったと考えるならまんざらおかしくはない。また、秀吉が自分の出自を隠すため、彼等易断衆を弾圧差別したのもうなづける。利休は秀吉の出自を知ってしまったからころされたのかもしれない。また、サンカと易断衆は敵対しているのかも・・・これはわからない。

現在の皇后の出自について、被差別出身と言いながら、実は岩屋の子孫なのかも知れないな。世良田が、あるいは大室の出身、田布施がその種のなんだろうか、だとすると、今でも易断衆が表に裏に活動し、皇室にその手のものが侵入した事になる。なかなかやるね・・・。

以前、白山神社を調べていて、加賀が一向一揆の発祥の地であることと、加賀前田百万石が幕末まで一度も減封されていない事で不思議に思ったことがある。

前田と秀吉は友人で、また、徳川家は前田家に一目置いていた・・・・むむっ、つながる。

さて、この本の最大の焦点は、大阪の石姫山(現在の大阪城宇)が、実は岩屋梓梁が築いた易断王国だったのかどうかで、さらに各地で起きた一向一揆が実は易断衆の起こした易断一揆だったかどうかであろう。

ちょっと長いが、読んでいない人に説明するには引用するしかない。読みたい人は読んでください。

岩屋梓梁こと弥次郎は、明応六年(一四九七)正月、薩摩国伊集院神殿に生まれ、俗称橋口弥次郎左衛門兼清、僧名を岩屋梓梁といったが、背高十尺、容貌魁偉、頭上右髪に三寸ほどの高さの肉腫(角)がおっ立っていたため、当時の民衆から「岩屋大天狗」「鼻天狗」「岩殿(いわどん)」「ヤジローどん」「金精様」「金屋様」「たゝらぽっち様」など多くの呼称で畏敬された。
 岩屋梓梁は永生四年(一五〇七)以来、十数回渡鮮して多くの書をなして弥勒天徳教(後の天道教)を説き、仏教の再興、韓語(ハングル)の創出、易占(ムーダン、タンゴル、シンバン)の普及など、想像を絶する多元的な文化興隆を図り、天文十三年(一五四四)には自分と朝鮮王女玉珥との間に生まれた清茂を王(仁宗)に擁立するなど多くの事績を遺した。
 岩屋梓梁は、朝鮮を支配した余勢を駆って、薩摩人の文化、経済力を駆使して、永正年代末期(一五二〇年代)、時の室町幕府を衰頽せしめ、大永年代(一五二一年代)、『日本記』(『日本書紀』)の編纂、『古事記』の自記、その他多くの古典を書いて易断政治の思想的根拠を固め、北はアイヌ族から南は琉球の果てに至るまで、神仏習合、祭政一致の易断教団政府を樹立し、また、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康ら多くの英傑を子として残した。

西郷隆盛がぜひ手にいれたかったのは岩屋の朝鮮での実績だったのだ。

また、各地で子供をもうけたのは、岩屋に鉄砲製造のノウハウがあり、鍛冶党を雇うためには「お種頂戴」をする必要があったと解釈できる。戦国時代を勝ち抜くためにどうしても鉄砲が必要だったのだろう。

この岩屋とザビエルは宗教論争をしてザビエルは頭にきて本国へ帰ってしまった。そしてカタキをとるためにフロイスは満を持して日本に来て信長に武器を提供した。

この信長を易断衆が家康と組み殺害した。そして約束どおりやはり岩屋の血を引く秀忠を二代目の将軍にした。

キリがないので今日はここまで。お疲れ様。



千年王国その1

2008-12-15 09:42:07 | 古代史

姫様からお借りした貴重な本、「岩屋天狗と千年王国」から少しずつ引用し検討してみたいとおもいます。今日はその一回目。

第一章 明治維新の裏面に暗躍した謀略集団真方衆 から始めます。

あらかじめお断りしておきますが、全二巻を少しずつ読みながらこれを書いていますので、後からわかってくる事があるかと思います。わからないところはそのまま読み飛ばしてください。

第一章は大きくいって西郷隆盛の征韓論とはなんだったかが主題でありますが、真方衆、伊集院、易断の説明を含めると170ページ以上になり、一回でそれらを説明するのは不可能で、今日は、西郷隆盛の征韓論を巡る謎にせまってみます。

西郷はもともと平和主義者であり、朝鮮へ攻め込む事を主張したというのに違和感を覚える人が多いのは当然です。一般的には、板垣退助にあてた手紙にあるように、「自分が単身、全権大使として乗り込めばきっと朝鮮人に殺されるだろう。その場合、朝鮮に攻め込む絶好の言い訳ができる。」、を額面どおり受け取る場合が多いようだが、これはやはり、板垣の同意をもらうための策略で、西郷としては、とにかく単身で、しかも大使としての立場で朝鮮に行く必要があったようなのだ。

個人的に、西郷は抜刀令で失業した武士達の死に場所を対ロシア戦につぎ込見たいと望んでいたと解釈していた。人望のある西郷が朝鮮に乗り込み李王を説得し、力を合わせて半島を守る事が西郷の戦略ではなかったか、と思っていた。

時間がない人が多いだろうから信じるかどうかは別の問題として、結論から言ってしまおう。

まず、明治期、岩屋梓梁顕彰問題の発端は、明治5年、重野 安繹(しげの やすつぐ)が太政官中議生になり歴史編集に着手し、彼が西郷と岩屋梓梁に関し論争となったのが発端のようだ。

そのとき重野が西郷に、「朝鮮における岩屋に関する資料が確認されない以上「かたいぐち」と「異端記」の記録は無価値である。」とのべた。

ご承知の通り、重野は抹殺博士と言われていたから、西郷としてはどうしてもその記録を朝鮮で確認しないと日本の歴史から岩屋が消されてしまうと思っただろう。

読者は岩屋とはなに?だろうが、それは後日十分に説明する事になるから今日のところはそのような問題があったとだけ覚えておいて欲しい。

そこで西郷は、なんとしても朝鮮に行きたい、それは朝鮮には岩屋に関わる重要な資料があったからに違いない。

毛利敏彦は、「通説では、明治6年の政争が征韓の是非にあったように言われるが、西郷が閣議や公的な席で征韓を主張したとする証拠はない。」と述べている。

明治6年、西郷は三条太政大臣にあてた手紙の中で「もしや相変じ節は実に無致方万死を以って国友へ謝し候・・・」と書いている。

この国友とは、誰のことなのか。

つまり、西郷が求めてやまなかった資料は、全国の国友が悲願とする岩屋易断政府に関わる重要なもので、ユタモンと卑称され弾圧された易断党を解放する四民平等の日本にしなければ明治維新革命は完了されないとする西郷にとってどうしても獲得しなければならなかったのだ。

しかし、それをさせたくない大久保達は海外組が帰るまで西郷を訪朝させるわけにはいかなかった。

最終的に西郷が足止めされているうち、重野ら歴史捏造グループは朝鮮に渡り、必要な書類、証拠類を日本に持ち帰ったと言われる。

そして、西郷の希望は「朝鮮事情、切迫論にこれあり・・・」と矮小化され、征韓論に摩り替わったという。

少々わかりにくいとは思うが、日本中の被差別の易断党を解放するのが西郷の使命であり、そのために全国の民が幕府討伐に立ち上がったのだ。それが達成されない以上、彼は万死に値し、死を持って償うしかなかったのだろう。

政府はこの西郷の志を圧倒的な軍事力で粉砕し、かつ、全国の易断党の存在を抹殺、に押し込め歴史から消す事にしたのだろう。無論、政府の要人の中には被差別出身者は多かった、しかし彼等は自分達が栄光をつかんだ時、同胞を裏切る事にしたのだろう。

それにしても、何故これほど易断党の存在を隠そうとしたのか、実は私にも十分理解できていない。次回からはそのあたりを考察してゆきましょう。長くなるので、今日はこれまで。


第一回歴史解明委員会閉幕

2008-12-14 08:03:08 | 古代史

さくじつ、mayoカフェにおいて第一回歴史解明委員会が開催されました。参加者は、議長役のmayoを含め総勢二名で、激論3時間半、閉店時間が来たためにやむなく閉幕となった。

議題はもっぱらヤジローこと岩屋梓梁に関する歴史であったが、「岩屋天狗と千年王国」に書かれていることが果たして真実かどうかで委員会は荒れ模様で始まった。

姫様によれば、この本に坂上田村麻呂、平将門、藤原純友、行基、源為朝、実朝、藤原秀郷、弁慶、役小角、一角仙人、空海、大江山酒顕童子、小野道風、鞍馬天狗、秦河勝、弓削道鏡、菅原道真・・・・・などが、岩屋を抹殺、あるいは存在をごまかすために捏造された架空の人物なのだと書かれているという。

信長暗殺の真相は、暗殺直前、愛宕大権現に参集した易断衆残党首脳会談で神盟誓約がおこなわれ、真方衆大将窪田稲羽姫が本能寺で信長を刺殺する見返りとして、家康が将軍位についた後の二代目を稲羽姫の子、窪田隼人正兼相に譲る約束だったという。

その約束を家康が破った結果と西郷隆盛の征韓論がどうして関わるのか?あるいは、徳川幕府がどうしてそこまで歴史書を改竄しなければならなかったのか。一向一揆とは一体なんであったのか・・・・。

委員会は紛糾した。姫も証拠として「千年王国」上下二巻を提出し、「信じるか、信じないかはあんたの勝手でしょ。読んでから判断してちょ!」と、姫様の割には出自が疑われる名古屋弁で応酬した。この発言に委員会は全員沈黙。(もっとも二人しかいないのだが・・・。)

時間切れでもあり、委員長のmayoが証拠書類二冊を次回委員会までに熟読し、その真贋を検証することになった。

なお、公平を期すため証拠文書の内容はこのブログで順次報告することとし、次回開催時には姫様の名古屋弁をもう少し京風に直すことを決議し閉幕した。


歴史の二回目

2008-12-13 10:25:45 | 古代史

さて、昨日一回目が済み、早いもので今日は私の思っている歴史の最終回です。早い?実は完結しないんだなー。昨日の主張は私がここ何年も考えていた結論の集大成なのです。それさえわかれば後はそれほど大変ではないと思っています。

一番悩んだのは、なぜ、中国の史書が、そして三国史記が、そして日本書紀が改竄され、捏造されたのかであり、その理由を、唐が高句麗に敗れた事、そして、則天が匈奴に国をゆだねてしまった事に求めたのです。この二点を中華思想で凝り固まった漢人はどうしても認めたくない、あらゆる手段を使っても抹殺するべき歴史だったと私は考えます。他にそれ以上の動機は考えられない。

この主張をしたのはおそらく日本で私一人じゃないかな。今まで私はそんな話は聞いた事がない。しかし、陰謀研究家として言えることは、「真実は誰も語っていないところにある。」のだから、誰も言わない以上、真実の可能性は十分にあるはずだ。

従って、①高句麗が唐と決戦する645年まで。②則天武后が唐を簒奪する690年。③則天が宰相張柬之に退位を迫られ中宗が再び帝位につき唐を復活する705年。

この三つの時代に合わせ、韓半島も日本も大幅に歴史を書きなおす必要が出てくると思う。

今日最終回なのは、実はあまりにも難しいのと、日本書紀に書いてある史実?をどこまで信じるかの結論が当分出そうにもないからです。全部否定する気にもならないし、もちろん、かといって絶対に正しいと思われるものは少ないのだ。

問題は日本では道教と仏教の盛衰。韓半島では唐との関係。高句麗が滅び渤海が建国されるまでの経緯。このあたりを慎重に調べる事でかなり判明してゆくのではないだろうか。

結局、日本も単独で存在できるわけもなく、半島や大陸の政争がそのまま影響してきたと思う。

先日も書いたように、匈奴は日本に仏教を持ち込み、高句麗は日本に道教と神道をもたらした。百済、新羅はあくまで騎馬民族に付属して日本に渡来し、職能集団として各地に文化をもたらした。それらの王族はあくまで傀儡であり、鮮卑に、あるいは匈奴によって共立されたものだろう。彼等の恐ろしいところは、自分達の存在を隠し、いっさい裏に隠れている事だ。

表の歴史は三韓から来た王権の歴史なのだろうが、実の歴史は支配者達のどろどろとした政争なのだ。しかもそれは今でも継続しているのだ。

その中で戦国時代の下克上というのは、身分の低い三韓の渡来人が身分の高い支配層に逆らったことを言う。おそらく明治維新もそれらの三韓の身分の低い被差別人を解放する戦いに見せて、実は支配者達が武家政権の一掃を計ったのだ。鎌倉以後、彼等はそのチャンスを狙っていたのだろう。武力では勝てないから商売人の振りをして影から政治を動かしていたのだ。

今後は今書いた内容を少しずつ裏付けていこうと思う。これが基本構造なので、仮に基本が間違っていた場合はすべてが崩壊する。崩壊した時は素直に報告します。でも、正しいと信じている。

唐が負けたという記事は桓檀古記以外にいくつか残っているようだが、今のところ私はしらない。本当はもう少し資料が欲しいのだが・・・。韓国の方、知りませんか?