マヨの備忘録・・・マヨのぼやきから

いろいろあったな・・・真実を知りたい!この一心で始めたブログだったが、知れば知るほど世の中の闇は深くなるばかり・・・。

倭の五王はだれ?

2008-12-05 09:25:51 | 古代史

朝から腹立たしいことばかり。昨日は法務委員会でなんと!全員一致で国籍改正法が通ってしまった。DNA鑑定は外人に対し不当な差別なんだって、指紋を押させるのは差別ではないのか?

法案は今日、参院で通過するだろう。もうどうなっても知らないから・・・・。ほんでもって、朝の新聞はトヨタ、いすゞ、キャノン・・などが派遣社員、期間工の大幅解雇のニュース。

まるで経団連が談合して首切りするようだ。この年末に解雇され、社員寮を追い出されたら本当にネット喫茶難民がいっぱいになってしまうじゃないか。小泉時代に「会社は株主のもの」というのが定着してきたが、本来、日本では建て前かもしれないが、「会社は社員や家族のもの」と教育されてきた。日本のすばらしさはどこへ行ってしまったのだろう。某自動車メーカーの田原工場で期間工になったばかりの華さん、心配だな。元気でやってるだろうか、競馬でうさ晴らしは良くないよ。

不当な解雇ばかりしているメーカーの商品は買わないぞ!でも、エビちゃんが宣伝していたデジカメ買っちゃったな、しまった、やっぱりアユちゃんにすればよかった。車は買うなら鈴木にしましょう。ネットで呼びかけて圧力をかけていくしかないね。

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たまには気分を変えて倭の五王を考察してみよう。細かく検討してないが、教科書にのっている五王と天皇との対比はほとんどがでたらめなのである。
今日は結論を出すのが目的ではなく、皆さんに興味を持っていただくためのものです。
中国の史書、「宋書」の記事が有名だから、その倭国伝から引用します。例によって、堀氏の読み下しを使わせていただきます。

「高祖の永初二年(421年)、詔に曰く「倭の讃、万里を越えて貢献を修める」とあり、まず「」が登場する。
「太祖の元嘉二年(425年)、讃がまた司馬の曹達を遣わし、貢献。 讃が死に、弟のが立つと、遣使を以て貢献した。使持節、都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称する。」
とある。
この当時、宋は南朝で、北部には北魏、高句麗が台頭していた。ここで考えて欲しいのは、倭国王が仮に日本にいたとして、ほとんど韓半島全域を支配していたと考えるかどうかだ。安東将軍と言うのは東夷を軍事制圧するということで、はるか大和の地からどのようにして高句麗と対抗するのだろう。
もう一つ、幻の任那が出てくる。日韓併合時、日本の学者を総動員しても任那が韓半島南部に存在したといういかなる証拠も見つからなかった。

でも、宋へやってきた遣使は、はっきりと任那の名を出している。やはり、どこかにあったのは間違いないだろう。さらに、秦韓を辰韓と同じだという人があるが、中国人は漢字を大事にする、同じであるはずはない。秦は符氏が建てた秦国の残党だろう。さらに、慕韓はいうまでもない、燕国の慕容氏の国のことだ。

「元嘉二十年(443年)、倭国王の遣使が奉じて貢献、再び安東将軍、倭国王とする。元嘉二十八年(451年)、使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東将軍に旧来のように加叙。」
上の記事では百済がいなくなり加羅が増えている。百済が亡びたのか、加羅になったか、もしくは百済が倭国になったのだ。

「済が死に、世子のが遣使を以て貢献してきた。 世祖の大明六年(462年)、詔に曰く「倭王の世子の興、奕世(累代)忠を掲げ・・・・・宜しく爵号を授け、安東将軍、倭国王にすべきなり。・・・・興が死に、弟の武が立ち、使持節、都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称した。」
また、百済が復活した、結論からいえば、日本が倭国でないとしたら、宋に朝貢できる国は高句麗しかない。

「順帝昇明二年(478年)、遣使が上表して曰く「封国は残念ながら遠く、藩を外に作り、昔より祖先は自ら甲冑を着け、山川を跋渉し、安らかに暮らす暇なし。東に毛人を征すること五十五国、西に衆夷を服すること六十六国、(海を)渡り海北を平定すること九十五国。王道は安泰に調和し、国土を拡げ、京畿を遠く離れる。累代に亘って朝廷を尊び、歳を誤らず。臣は下愚といえども、忝くも後裔を先に残し、統べる所を率いて駆け、崇め帰すこと天を極め、道を百済に直行し、船舶を装備する。然るに高句麗は非道にも併呑を欲して謀り、辺境を略奪し隷属させ、(南朝宋の)劉氏を尊重して已まず、(そのために)いつも延滞させられ、(航行の)良風を失する。道を進むといえども、あるいは通じ、・・・・ 詔を以て使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に叙爵した。」
有名な文章で、東に毛人を征すること五十五国、西に衆夷を服すること六十六国とある、そしてまた百済が消えた。つまり、百済が再び倭国になったと考えたい。

私が細かく倭の五王を決めていないのは高句麗と百済の王を書き出せばそれほど苦労する事もなく決めることができるからだ。そう思い、いきなり大化の改新の研究へ行ってしまった。

倭国が日本にあると思っている方々には信じられないだろうが、遼東半島を制したものが韓半島を制するというのが私の考えで、旅順を制した国を調べれば倭の五王は簡単に特定できるはずだ。

隋や唐が中国全土を支配するまでの特に5世紀は歴史の空白時代で、韓半島や日本列島に何が起こったかは実際のところ不明なのだ。しかし、記録がないからといって何もなかったのではなく、書けないほどたくさんの事があったと解釈するのが正しいと思う。

しばらくは研究をこの倭の五王にしぼって考察してみようと思う。