マヨの備忘録・・・マヨのぼやきから

いろいろあったな・・・真実を知りたい!この一心で始めたブログだったが、知れば知るほど世の中の闇は深くなるばかり・・・。

千年王国の2

2008-12-16 13:36:51 | インポート

一生懸命「千年王国」を読んでいるが、なかなか大変。ブログで説明しようにもあまりにも細かく、皆さんにわかるように書く自信がない。

それにしてもこの本を八切氏も鹿島氏も読んでいたことに驚いた。彼等は両者とも多くの本を出版し、独自の理論を形成したいたはずで、彼等にとっても窪田氏の述べた内容は自分達の主張に衝撃をもたらしたと思う。私は研究している時代が違うので、従来からの説と特に矛盾はしてこないが、正直なところ大変に驚いている。

特に、家康、秀吉、武田信玄が岩屋の子供だと言うのはどうなんだろう。まず、世間の人は笑って相手にしてくれないだろうな・・・・。ただでさえ変人あつかいされてるのに・・・とほほ。

家康の出自が世良田次郎三郎であると述べたのは両者とも一致するが、単に被差別の出身だと言うのは実はごまかしで、本当のところ岩屋の息子であることを隠蔽するための偽装であったと考えるならまんざらおかしくはない。また、秀吉が自分の出自を隠すため、彼等易断衆を弾圧差別したのもうなづける。利休は秀吉の出自を知ってしまったからころされたのかもしれない。また、サンカと易断衆は敵対しているのかも・・・これはわからない。

現在の皇后の出自について、被差別出身と言いながら、実は岩屋の子孫なのかも知れないな。世良田が、あるいは大室の出身、田布施がその種のなんだろうか、だとすると、今でも易断衆が表に裏に活動し、皇室にその手のものが侵入した事になる。なかなかやるね・・・。

以前、白山神社を調べていて、加賀が一向一揆の発祥の地であることと、加賀前田百万石が幕末まで一度も減封されていない事で不思議に思ったことがある。

前田と秀吉は友人で、また、徳川家は前田家に一目置いていた・・・・むむっ、つながる。

さて、この本の最大の焦点は、大阪の石姫山(現在の大阪城宇)が、実は岩屋梓梁が築いた易断王国だったのかどうかで、さらに各地で起きた一向一揆が実は易断衆の起こした易断一揆だったかどうかであろう。

ちょっと長いが、読んでいない人に説明するには引用するしかない。読みたい人は読んでください。

岩屋梓梁こと弥次郎は、明応六年(一四九七)正月、薩摩国伊集院神殿に生まれ、俗称橋口弥次郎左衛門兼清、僧名を岩屋梓梁といったが、背高十尺、容貌魁偉、頭上右髪に三寸ほどの高さの肉腫(角)がおっ立っていたため、当時の民衆から「岩屋大天狗」「鼻天狗」「岩殿(いわどん)」「ヤジローどん」「金精様」「金屋様」「たゝらぽっち様」など多くの呼称で畏敬された。
 岩屋梓梁は永生四年(一五〇七)以来、十数回渡鮮して多くの書をなして弥勒天徳教(後の天道教)を説き、仏教の再興、韓語(ハングル)の創出、易占(ムーダン、タンゴル、シンバン)の普及など、想像を絶する多元的な文化興隆を図り、天文十三年(一五四四)には自分と朝鮮王女玉珥との間に生まれた清茂を王(仁宗)に擁立するなど多くの事績を遺した。
 岩屋梓梁は、朝鮮を支配した余勢を駆って、薩摩人の文化、経済力を駆使して、永正年代末期(一五二〇年代)、時の室町幕府を衰頽せしめ、大永年代(一五二一年代)、『日本記』(『日本書紀』)の編纂、『古事記』の自記、その他多くの古典を書いて易断政治の思想的根拠を固め、北はアイヌ族から南は琉球の果てに至るまで、神仏習合、祭政一致の易断教団政府を樹立し、また、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康ら多くの英傑を子として残した。

西郷隆盛がぜひ手にいれたかったのは岩屋の朝鮮での実績だったのだ。

また、各地で子供をもうけたのは、岩屋に鉄砲製造のノウハウがあり、鍛冶党を雇うためには「お種頂戴」をする必要があったと解釈できる。戦国時代を勝ち抜くためにどうしても鉄砲が必要だったのだろう。

この岩屋とザビエルは宗教論争をしてザビエルは頭にきて本国へ帰ってしまった。そしてカタキをとるためにフロイスは満を持して日本に来て信長に武器を提供した。

この信長を易断衆が家康と組み殺害した。そして約束どおりやはり岩屋の血を引く秀忠を二代目の将軍にした。

キリがないので今日はここまで。お疲れ様。