マヨの備忘録・・・マヨのぼやきから

いろいろあったな・・・真実を知りたい!この一心で始めたブログだったが、知れば知るほど世の中の闇は深くなるばかり・・・。

今日はこちらで・・・・

2009-09-01 10:02:52 | 古代史

今日は朝からエキサイトブログの調子が悪く、エラーが続発。せっかく記事を送ったのに消えてしまった。あいにく直接書き込んだので全部やり直し、くやじー。

ところでここ数日間、私を痛めつけていた腎臓結石が昨夜のうちにどこかへ動いたのか、朝からうそのように痛みが消えている。つまり、直ってしまったのだ。ばんざい、快適、快適・・・・・。一体、なんだったんだろう。
ところで、今日は「マヨのぼやき」に書き込んでいます。
もうずいぶんと時間がたったからこのブログが「シバちゃんのため息」に移行したことを白状しておきます。続きはシバちゃんのため息を検索してね。

さて、サムライさんから「ツラン民族」についてのレポートが送られてきた。謎の多いツラン民族は少し調べただけで、なぜ謎なのかがよくわかる。つまり、私の根本理論である「お種」理論がこのツランでほぼ説明できる可能性があるからで、この民族の解明は即ち、日本の解明であり、世界史の解明につながる。しかも、なぜ中央アジア史の研究が進まないのかの疑問もすべてこの謎のツラン民族を知ることでわかってくるのである。

日本語はウラル・アルタイ言語であることは明々白々であるにもかかわらず、数多くの学者たちはそれを一笑に付し、日本語は世界の中の孤立言語であるとする。朝鮮語と語順が等しいにもかかわらず、その根底にある歴史を否定する。それはなぜか?それを認めると日本人の根本がウラル・アルタイにあることを認めざるを得なくなるからである。こんなものは学問ではない。私も古代の言語学者の本を何冊も読んだ。しかしいずれも日本語のふるさとを南へ求めるものばかりである。そうではない、語順と言うのは根本的なもので、簡単に変えれるものではないのだ。だから学者はきらいなのだ。

さて、「お種理論」で説明したが、ロシア南部、現在のアルタイ共和国近辺から出発したスキタイ族は遊牧民特有の三方向へ王族を派遣し、それぞれの王国を作るように指令を出す。右と左と中央である。シベリアから南を見て右方向へ派遣された部族は最終的に英国へ到達する。そして左へ派遣された部族はアムール川をくだり日本や満州にたどり着いた。さらに中央は匈奴となり、さらにフン族となり、突厥となり、最終的にカザール王国や新羅さらには日本までやってきた。

問題は日本に両方が入った場合どうなるのかである。日本書紀には二回、同じことが起きている。即ち、神武天皇がニギハヤヒの息子に出会ったときであり、雄略天皇が街道で同じ格好をした一軍と出くわした時である。その時どうするかと言えば、お互いに「伝国の璽」を確認し、その正当性を確認することになる。スキタイの掟では中央、即ち、中央部隊が最優先である。これが天御中主神である。

彼等は日本にいくつかのルートで侵入したようだ。一番早くは出羽ルート、さらに越(高志)ルート、越前ルート、敦賀、出雲・・・、いくつの部族が来たのかはまだまだ解明されない、しかし、大きな川に沿って文明が伝わったことを思い浮かべればその解明はそれほど困難ではないだろう。

さて、日本において一番問題となるのは、おそらくは本来優先されるべき部族が、実は圧迫され、本来は下につくべき部族が日本を支配した可能性があるという事だ。つまり、善光寺に存在する秘仏にはその証拠があるのではないかと私は想像する。

大東亜戦争の直前、日本の中に二つのワンワールド思想があると言った。つまり、世界を統一する中にも恐怖政治で行なうものと、平和的に統一するものとである。
ひとつが大本教を代表する世界紅卍党の理想であり、今ひとつは英国流ワンワールドだったのである。しかし、両者はともに源流を同じくするツラン族である。お互いの手の内はお見通しだったのだ。
その中で、彼等の同族であるカザール人に対する対応で大きく方向が異なっていく。極端な話、甘粕が満州で映画会社を任されたのはカザールユダヤを同胞として満州にユダヤ国家を建設しようと言う方向で、片やユダヤを追放し、彼等の莫大な資産を没収しようと言う国際ワンワールドのたくらみである。

世界紅卍党には大本教を全面に、後ろに明治天皇の落としだね、堀川辰吉郎を中心とした玄洋社、そして日蓮宗がいた。そしてそこには大江山霊媒衆をはじめ京都の公家衆などが名を連ねていたはずである。
片方、国際ワンワールドは薩摩を中心とした親英米筋で、天皇を人質に世界戦略の中に日本を組み込んだのである。

早い話、いまでも変わらないことであるが、日本の支配層は二つに分かれているのである。簡単に言えばそれが南北朝であり、それがすべてなのである。
残念ながら南北朝を十分に調べていないので、これ以上は答えれないが、根本的に言えばツランから派遣された部族が日本に別方向から合流し、未だに決着がついていないという事である。
調べればわかることを調べないのは、調べると困る人がいるからで、即ち、今の支配者が困るという事である。禅問答のようだが、お分かりいただける人にはわかる話ではないだろうか。

では、また、今度は「シバちゃんのため息」でお会いしましょう。


ヴェネチアはすごい

2009-03-17 09:27:11 | 古代史

最近なんとなく、このブログを始めたきっかけと、今やっていることと、方向がぶれてきた気がする。あくまでGoldwarriorsの翻訳をしながら、世の中の間違いを正そうという思惑だったが、やはり、多少アクセス数を稼ぐため、(と言っても感知していないが・・・)一般的な話題に行きがちになっているのは事実である。このあたりで、一度お引越しなどして、心機一転やり直そうかとも考えている。お奨めのところがあれば教えて欲しいな。

さて、格調高くいきましょう。フン族が匈奴かどうか、これは真っ二つに分かれる議題なのだ。それを認める人も否定する人も、確定できるような証拠はないといえる。しかし、匈奴が漢と戦い、その後、逆に消滅の危機にさらされ、東西に分裂し、さらに南北に分かれ、北匈奴が消滅したころに、突然フン族が西アジアに登場する、そしてそのフン族がアッチラの死のあと、この世から消え去るころ、隋の時代に突厥が登場してくる。そして突厥が唐に分断されたころ、カフサス地方にカザール王国が登場する。最終的にそれらの、いわゆる蛮族が統一され、世界帝国が建設されるのはフビライの時代まで待たねばならない。これらユーラシア大陸を縦横に駆け抜けたモンゴルやトルコ部族を知るには、従来の縦割り行政的な学習方法ではまったくらちがあかない。

日本史、東洋史、世界史をそれぞれが独立した学問として学んでいるが、残念ながら彼等ユーラシア騎馬民族は我々の想像を超えるスケールとスピードを持っていた可能性が高く、同時代をユーラシアサイズで考えていかないと彼等が見えてこない。

前置きが長ーくなってしまったが、今日の話題はヴェネティアです。フン族を学ぼうとしても、世界史の教養がない617pxleguna_veneta 私は地名から国名に到るまでまったく手も足もでません。そこで、母がたくさんそろえている塩野七生女史の「海の都の物語」と言う本を引っ張り出し、少しは素養を磨いてみようと考えた。

実に不思議な都である、イタリアの根っこの河口になぜあのように海に飛び出た町が出来たのか?これがとても興味深い話なのだ。

5世紀、フン族が西ローマ帝国を亡ぼそうと西に向かっている時、このヴェネティア近辺の人々はパニックに陥っていた。逃げる場所がない。待っていれば間違いなく略奪され、殺されると言う極限に追い込まれたとき、教会の塔に集まった群衆が決めたことは、「海の中へ逃げよう。」だった。遠浅の河口に材木を運び、川の水と海の潮流を妨げないような工夫をして水が腐らないようにし、固く守りを固めた結果、敵も攻める気をなくしたと言う。

この領土も人民もほとんどない国家が、以後1000年も成り立っていたと言うのは奇跡ではないだろうか。ヴェネティアの黒い貴族として私達は彼等を今につながる陰謀の主人公として位置づけているが、それにしても彼等が選択した国家形態、そして貿易立国としての政治手腕、さらには専制君主が現れないように工夫された政治形態、これらは今でも立派に通用する理念に溢れている。

古代史と直接関わりはないものの、ちょっと脱線してこのヴェネティアという都をしばらくは研究することにする。


古代史の視点

2009-03-05 15:41:04 | 古代史

最近、古代史でいろいろなコメントをいただいている。私は今、6世紀から7世紀あたりの中央アジアに夢中で、国内のことはとても手が回らない。コメントは大歓迎ですが、適切な返事が出来ない恐れがあります、勘弁してくださいね。

従来は、高句麗対唐、あるいは、日本対朝鮮半島という構図で古代史を眺めてきたが、どう考えてもそれは日本的中華思想というべきで、唐という国はその半分を中央アジアと接し、高句麗や日本のことばかり考えているゆとりはなかったと考えるようになって来た。

拓跋鮮卑族である隋は、高句麗遠征中に突厥に背後を脅かされて滅び、その突厥の協力を得た鮮卑族の李淵が唐を建国する。その後、李世民は突厥を離間策を使い分裂させ、遂に自分が天可汗になった。630年ごろの話だ。それ以後、50年間、突厥族は屈辱を味わい、再び第二突厥帝国を築き上げる。私の感触では、高句麗の武将、淵蓋蘇文はソグド人で、突厥の残党を動かし、唐を挟み撃ちにしたのだと思う。したがって、則天武后が唐を簒奪し、周を建国したと言われるが、どうもそれが疑わしい。しかし、どうにも中国史書だけではそのあたりがはっきりしない。ただ、間違いなく言えることは、ソグド人の商人たちが自分たちの都合のいいように東アジアを操っていた可能性が強い。

広大な中央アジアを交易のために商団を率い移動し、高額な美術品や衣料品、そして武器、奴隷などを地域の要望に合わせオアシス間を行きかう。彼等にとって、道中の安全は最重要な課題なのだ。もちろん護衛兵を引き連れていただろうが、安全を保証し、商売の利益を守ってくれる王がいれば、彼等にとってそれが天可汗にふさわしい人物となるはずだ。

彼等の最も高額な商品は奴隷である、奴隷を獲得する一番簡単な方法は略奪だが、それには戦争が最も理想的な方法だ。彼等の持つ情報と金を使い、さらに遊牧民族を傭兵として雇えば、表向きは国同士の戦いだが、実はソグド人が裏で糸を引き、自作自演を演じたのではないか。そんなことを考えるのだが、なかなか尻尾はつかめない。

漢という国は匈奴と親戚関係にあり、シルクロードの交易はすべて匈奴が支配していた。しかしその漢も次第に欲を出し、徐々に西方向へ進出し、まんまと匈奴を亡ぼしてしまう。匈奴のくびきが取れたため、逆に中華本土は大混乱となり、最終的に匈奴族を味方につけた魏が勝利する。しかしその魏も司馬氏に簒奪され、またもや東アジアは動乱に見舞われる。しかしちょうどそのころ、フン族はローマ帝国と戦いに明け暮れていたのだ。つまり、匈奴の主力が西部戦線に移動していて東は留守だったのだろう。西にカザール帝国を残し、いよいよ東へ戻ってみると、なんと鮮卑が我が者顔であった。そこで突厥を利用し、隋や唐をコントロールした。

そんなにうまく世の中を動かすことが出来るだろうか、と言うのが私の研究である。

ソグド人が中央アジアを私の思っている方法で支配してきたとするなら、現代の世界は当然の事ながら、同じ支配構造で、同じ方法を使って支配されている可能性がある。

歴史観というのは簡単なものではない。ただし、陰謀論者として、現在の支配構造の原点が匈奴・フン族ではないかという視点で読み解くと言うのは、有力な歴史観だと確信している。問題は彼等が尻尾を見せないことなのだ。


偽書と真書とは

2009-03-03 10:00:55 | 古代史

先日ある方に、山形氏の「邪馬台国論争終結宣言」を紹介したら、中国各史書の良いとこ取りではないか、mayoさんの偽書の基準を教えて欲しい、とメールが来ました。

とても重要なことなので、一言言わせていただきます。

基本的に100%正しい本はないと言うのが私の前提です。逆に100%ウソの本もない。太田龍氏、副島氏、ベンジャミン氏・・などの主張も同様で、いくつかの誤り、ウソ、ガセを含んでいる可能性があるが、そこには真実や真実に近い重要な証言が入っている。だから、絶対に無視してはならないのです。ひとつの間違いを指摘し、あたかもすべてがウソだと決め付けるのは、本当の事を隠したい側の策謀と見るべきです。

中国の史書は、征服した人間が前王朝の歴史を編纂する。これがまず一番基本になる。だから、前王朝が亡びたのは天命で、我々が征服したのは天の意思である、という事をまずはっきりさせねばならない。したがって、政権末期に起きた出来事について、額面どおり解釈することは無理がある。和議を結ぶことを、相手が朝貢してきたと言い換えたり、娘を人質に送るのを、相手が婚姻を結ばせてくれと懇願した・・・などの言い換えはごく常識的なことだ。日本が大陸へ侵略するのを、進出するに書き直したようなものだ。しかし、そこへ軍隊が侵入したことは歴史的な事実であり、真実と認めねばならない。

王様同士が会談し、おとなしく国を譲ることにした、と言うのは建て前であり、現実は争いがあったと解釈するのは常識であろう。

私はどんな本でも100%信じることはしない。私の訳したシーグレイブ氏の著書も同様に、彼の置かれた立場で書かれた事を知って読まなければ、とても大きな誤解をまねくことになる。まず、彼は私から見れば英国諜報部寄りの人物で、反ジョンバーチ協会の立場である。マッカーサーやマッカーシーなどの反共産主義とは対立する立場なのだ。そのことを知った上で本を読めば、かなり重要な情報を手にいれることが出来る。彼の本の中でいくつかの誤りを指摘し、偽書であると決め付けるのは間違っている。南京虐殺やナチスのホロコースト、そして日本軍の従軍慰安婦の扱い方を知れば、彼の立場がわかろうというものだ。しかし、フィリッピンで日本軍が行なった行動はかなり真実に近いと解釈している。英国の情報部はアメリカが、そして日本軍がアジアで何をしてきたのかすべて知っているのだ。もちろん、英国がすべてのシナリオを書いた事は言わないが・・・。

それにしても、未だにGoldwarriorsの日本語版が出版されないのは、未だに日本人には知らせてはいけない内容がそこにあるのだろう。(あたりまえだ)

日本書紀でも古事記でも、朝鮮の史書でも同様で、どのような意図で編纂されたかを知らなければまったく偽書にしかならないし、それを正史と考え、馬鹿正直に解釈するのは自殺行為であろう。

中国の史書も信用できない点が多いのは確かだが、ウソをつく必要のないところ、ウソをついてもばれてしまうところなどがある。同じことを史書により書き方が違うところが研究の対象であり、一貫して同じ記述であれば正しいかと言えばそれはもっと怪しい。

少々くどくなってきた。私の基準は簡単です、私が疑っている出来事を定説として引用する人は信用しません。例えば、邪馬台国が九州にあり、卑弥呼がそこにいたという前提で歴史を組み立てたとするなら、その人の歴史に真実はありえません。もちろん、私からすればですが・・・。

天武と天智が兄弟で、額田姫を奪い合ったなどという小説を、歴史的な事実と考えるような歴史家は素人でしょう。歴史の空白を空想とロマンで埋めるのは小説の世界であり、それはそれで楽しいでしょうが、歴史ではありません。司馬遼太郎が罪作りなのは、あまりにも文章が上手で、かつ国民が望んでいる歴史をあたかも歴史的事実のように描いたことです。

藤原不比等の出自を疑わずに日本の歴史を描くことはあってはならないことだし、聖徳太子が隋に国書を送ったというのも私は信じない。

私は自分が正しいと信じ、こうしてブログを書いているが、結果的にウソになることはあると思う。それは避けがたいことだし、そうでなくては何も書けない。だからこそ、こうしてブログに公開し、皆さんの意見を求めている。みんなで真実を見つけようと言うのがこのページの趣旨であり、私が一方通行で意見を発表するならコメントなどいらないでしょう。

ということで、「私の偽書の基準はない!」でした。(ひどい結論ですね。)


中華思想とは?

2009-03-02 09:28:34 | 古代史

思わず難しいテーマを取り上げてしまった。少々自信がないけど書いていこう。中華の原点はやはり漢であろう。その漢自体、匈奴に攻められ匈奴と親戚関係になっているため、厳密に言えば中華とはいえない。漢が滅び、三国時代を経て、魏、晋、そして五胡十六カ国の後、北魏がほぼ全土を支配した。その第六代の孝文帝は、歴代北魏朝の中でもひときわ鮮卑の血が薄い王であった。彼はほとんど漢人なのに、蛮族、鮮卑の騎馬軍団を率いる事に抵抗を感じていたのだろう。なんと、自分の国である北魏の歴史を改竄してしまった。要は、遊牧時代の代という国を無視し、平城を都と定めた道武帝を初代の帝としたのだ。さらに、492年、詔を発し、「金をうけるに水を以ってす。」(資治通観)とした。つまり、北魏は本来なら魏の金徳を受け継ぐなら火徳であるべきを、あえて漢王朝の火徳の勝つ水徳を選んだのだ。

彼は北魏は漢を受け継ぐ中華国家だと高らかに宣言したかったようだ。そして、「鮮卑は五胡にあらず、中華なり。」が本当に言いたい事だった。そしてその鮮卑出身にもかかわらず、元という中華姓を名乗り、かつ皇族たちにも一文字姓を与え、正室に漢人を迎えさせる強引さであった。

さて、その北魏の拓跋国家を引き継いだのが周や済で、彼等もしょせんは鮮卑族であった。さらに、それらを最終的に統一したのが隋で、楊帝は南朝の陳を亡ぼし、遂に鮮卑族が中華を統一した。その隋が高句麗遠征に失敗し、唐が政権を握るが、李氏もこれまた鮮卑族である。唐の二代目、世民は突厥をも屈服させ、輝く天可汗となった。

この世民の時代に、彼は代表的な史書を編纂する。それは「隋書」をはじめ、「梁・陳・済・周」らにも及んだ。そして特徴的なことは、すでに編纂されていた「晋書」の重撰を命じている。

この書き直しというのは前代未聞の事だと言う。晋書の何を書き直したかったのか・・・・。

結局、世民も代という拓跋国家が北魏や隋、唐の前王朝であることを認めたくなかったようだ。

これ以上踏み込むのは止めよう。退屈なだけだ、結論は簡単なのだ、「中華=漢人」という、従来の常識を「中華=漢人+鮮卑」にしたかったのだ。

ちょうどダイエーの中内さんが経団連の会頭になり、以前に「たかがスーパーのくせに・・・」と言われた屈辱を晴らしたと同じ事なのだ。結局、中内さんは再び財界にいじめられ、唐の世民も高句麗に負け惨めな最後であった。

唐が中華として輝いたのはほんの一瞬であったが、鮮卑民族にとって、中華の一員に入れてもらえたのは、北魏孝文帝以来の拓跋鮮卑族、何百年の悲願だったのだ。もう少しわかり易く言うなら中華思想とは、経団連のことなのだ。

注・今日の記事は中日新聞の夕刊に連載されていた、後藤多聞氏の「「中華」の成立過程」を参考にさせていただきました。氏は国立民族学博物館客員教授だそうで、いずれ著書などを探し読んでみたいと思っています。


世界は犬つながり

2009-02-23 09:19:45 | 古代史

先日書いた「赤犬、黒犬伝説」に関し、いくつかの投稿をいただいている。特に丹生神社に関しては、複数からの情報が来ています。あいにく日本の民俗学まで勉強が行き届かないので、あくまで参考に頭に入れて置く、としか言えないけれど、金と水銀が、犬族と大いに関わる事だけは間違いないようだ。

以前、日本は犬を食べないが・・・と言う記事を書き、稲荷は「いぬなり」と解釈してきた。つまり、日本の中に犬族はたくさんいたし、それなりの勢力はあったと考えてきた。

今日は視点を変えて、久しぶりに川崎真治先生の本を引っ張り出してきた。川崎氏の本は4、5冊読んだが、最終的には、受け入れられなくなった。しかし、古い著作「混血の神々」だけはかなり説得力があり、たまに引っ張り出しては、自分の考えとすり合わせることがある。この本の後に方向が変わっていった気がする。

さて、川崎氏は、犬族をアーリア人だとしている。それは高句麗の五部を考察した時に出てくるが、引用してみよう、「私がなぜ、狗加を印欧系人種であるとあえて言うのか。その論拠を示せば、いわゆる、印欧系人種と呼ばれる民族の樹立した国々の国号が、「犬」を内包しているからだ。」

En-g-land イン・グ・ランド 犬の国

G-er-man G・エル・マン  部・犬の・・・

In-d     イン・ド     犬の・・・

Ira-q          イル・(ア)K   犬部族

I-ran    イル・(ア)n   犬

P-er-sia  P・エル・シイヤ 部・犬・牛

B-el-gium B・エル・ギウム 部・犬・牛

ご覧の通り、川崎氏は国の名前の中に、犬が入ってると述べる。また、鉄を表すiren,ireも犬族をあらわし、製鉄部族だったことも証明していると言う。

にわかに信じがたい話ではあるが、この理論を間違っていると言う根拠も、正しいと言う根拠もないため、比較言語学の成果を、どのように考えるかは簡単ではない。

ただし、これが正しいとなれば、日本も英国も、イラクもイランも、同じ部族がやってきて、製鉄部族としてそれなりの地位を築いたことは間違いない。それは我々が違う方面から証明してゆくしかない。ひとつの意見として、極めて重要な指摘と考えるべきだろう。

川崎理論でゆくと、夫余の四加である狗加はアーリア人で、それは高句麗では桂婁部(けろべ)になり、魏志に言わせれば、高句麗の王族だった事になる。つまり、「高氏」は犬だったのだ。

先日の記事からすれば、世界の支配者はアーリア人で、ロシアのアルタイ地方から世界に散り、それぞれに支配者になったと考えられない事もない。その割りに、韓国では大いに嫌われ、今でも大好物として食されている。そんなことしてるから、国家が分断されるのだぞ、犬はかわいがりましょうよ。いうまでもなく、アルタイは金と密接にかかわり、そこから世界に金山を求めて散っていったと言うのはとても説得力があり、彼等が直接日本へやってきて金山を押さえているのかもしれない。先日も言ったように、日本は黄金の国ジパングで、金がいっぱい詰まっているのだから。その証拠は、日本語がウラル・アルタイ系の言語だという事で証明される。

我が家は猫を飼っているが、犬も大好きだ。関係ないか・・・。


敦煌出土ぺリオ・チベット文章の謎

2009-02-19 09:44:16 | 古代史

森安孝夫氏の「シルクロードと唐帝国」の中に、極めて興味深い記事があった。そのチベット文章という資料は、フランスの探検家ぺリオが敦煌で発掘し、現在は英国図書館に所蔵されているという。細かい事はともかくとして、五人のホル人(恐らくはソグド人)がホル王の命令で敦煌を出発し、チベットの北方にどのような国があり、どんな王がいるのかを調査したものと言われている。中身について細かく述べるスペースはないので、今日は添付した地図に、Ⅳと書かれた使者が残した情報をお伝えしよう。

①その(ウイグル国、つまり自分の国)の北方にはバスミル語部族がいて、ウイグルとかカルルクとの三者が共謀し、突厥の王を打ち破り、バスミルの族長が可汗になった。それからウイグルとカルルクによりバスミルの可汗が殺され、バスミルは分裂する。そのバスミルのなかのゲスドウム族とバヤルク族は強い国で、カルルク族は支配下に出来なかった。

②これより(バスミル国)北方にいるゴコク族は誰とも争わない。その西には10ほどの部族がいる。あるものは国が強く、あるものは大きな谷、あるものは国がよくて大きい牧草地。

③これらの北方には砂漠性大山脈地帯。

⑤その向こう側には天の帝王の二部族がいて、突厥の王である射摩可汗が国が安定していたころ、軍隊をその方向へ導いたが、軍隊は通り抜ける事が出来ず、二人りの人が迷子になり、さまよい行くと、雌ラクダの足跡と出くわし、ついて行くと、雌ラクダの一群がいる近くに婦人がいるのと出会い、トルコ語で話し合い、案内してもらいついていった。

野生草食動物を狩りに行っていた犬の一群が戻ってくると、犬たちは二人の存在を鼻で嗅ぎつけた。そこで婦人は二人に犬たちに敬服させた。それから犬たちは、10頭の雌ラクダと必需品全部と無人の砂漠性山脈を越えるための水を積んでやって二人を出発させ、無事にトルコ国へ帰着した。

最初の犬は天から降りてきた。赤い犬と黒い犬との二匹が峠に下りて、妻には牡狼を見つけて与えたが、子供には恵まれなかった。そこでトルコ人の家庭から一人の娘を強奪し、その娘と暮らしていると、息子として犬が生れた。女の子供は本当の人間に生れた。赤い犬の一族はキジルクチュといった。(トルコ語で「赤い子犬」の意味)黒い犬の一族はカラクチュ(黒い子犬)といった。犬と女はトルコ語で会話し、家畜などや財産・食糧は女が調達して使った。その向こうに人がいると言う話は聞かなかったHorujinntizu。(P321) 地図はクリックしてもらえば大きくなります。

長い引用で申し訳ないが、Ⅳの道のりを説明するには全文を書く必要がある。

まず、⑤がすべてであるが、おおむね760年ごろの事と思われる。地図を見てもらうと、上のほうに「赤犬・黒犬伝説の国」とあり、もちろん確定は出来ないが、そのあたりに犬をトーテムとする部族がいて、トルコ語を話す天の帝王の二部族がいたことになる。

この伝説の国から真東に向かえば、そこは樺太に近い、アムール川河口に到着する。日本は昔、狗族が支配したと言われるが、まさにその源流を見る気がする。アムール川からやってくることを天降る、つまり、アムールという。この道こそが、栗本氏の主張する草原のシルクロードではないのか。

まさか、犬が草食動物を狩りに出かけるわけはないから、これはいうまでもなく狗族がそこにいたのだ。彼等のところへ突厥が軍を送っても近づくことすらできなかったと書いてある。

現在のロシアの地図で確認すると、エニセイ川の始まり、クラスノヤルスクという都市に行き当たる。ご承知の通り、ロシアは鉄のカーテンが下りて以来、なかなか内部を伺う事は出来ないし、ましてや寒い地域であるから、訪れる人も少ないであろう。しかし、地政学上、このあたりはハートランドと呼ばれ、最重要な地域ではないか。

あくまでも仮説の域をでないが、私の探しているものがここにあるのかもしれない。非常に大きなロマンを感じる地図であり、資料ではないか。

また、地図の右上、ダスレと書かれている国がある。朝鮮史にも、中国史にも登場しないが、じつは高句麗の奥にそれらを動かしている国があったのかもしれない。習わなかったからそこに国がないわけではない。あったのかもしれないではないか。

仮説ついでに言ってしまおう。まず、世界の支配者をこの「赤犬・黒犬国」としよう。そして、その召使、が地図にある「巨人国」、即ちアルタイ部族である。これが支配人である。支配人は南に広がる広大な中央アジアをソグド人を使って支配した。これが当時の世界支配構造だった。どうでしょうか?わかってもらえるでしょうか。

ちょっと暇だったので、そのクラスノヤルスクを調べてみると、やはり、シベリア縦断にはここを通る必要があり、大変に重要な地域のようだ。そしてグーグルで眺めてみると白くぼかした軍事上の秘密基地?あるいは、ミサイル基地があるようだ。現在でも市民が近寄れない何かがあるみたい。http://homepage2.nifty.com/enisei2580/centersib1.html

には、「クラスノヤルスク26市、クラスノヤルスク45市という地図にも載っていない軍事秘密都市もできました。核弾頭用ウランやプルトニウム工場を作り、同時にそこで働くための技術者や労働者のための住宅を作り、その人たちが生活するための店、学校、病院、コルホーズなどを作り、周りを鉄条網で囲み、出入り口を一つだけつけて閉鎖都市としたものです。

 ソ連時代は、誰もその町のことは知らないことになっているどころか、そもそも存在しない町で、外国人はもちろん、ロシア人でも許可がなければ入れませんでした。

 26市や45市だけではなく、1991年のソ連崩壊までは、クラスノヤルスク地方全体が、軍事的重要産業が集中しているため、外国人は入れないことになっていました。アルミも機械も電力も軍事利用が優先されていたわけです。

 戦後強制抑留者達のお墓もたくさんあるのですが、91年までは、墓参団も普通の旅行者も入れなかったのです。今では、もちろん、自由に訪れることはできますが、ジェレズノゴルスク市(元の暗号名のような26市が、まともな固有名詞に改名した)と、ゼレノゴルスク市(元の45市、実は、私はここにペレストロイカ後の『混乱』期1992年から94年まで住んでいた)は、今でも閉鎖都市で、出入りには、モスクワの関係省庁の許可がいります。」

とあります。たまたまかもしれませんが、何かと秘密の多い都市のようです。あやしい・・・・。


まっすぐな見識とは

2009-02-08 06:42:39 | 古代史

最近読んでいる本、というより研究している本は森安孝夫氏の「シルクロードと唐帝国」で、これは講談社の「興亡の世界史シリーズ」第5巻であります。一般の歴史読本とは次元が違い学術書に近く、読むというより学ぶ本なのだ。この先生は先日楽しませてもらった杉山正明氏と同じく、中央ユーラシア中心史学とも言うべき東洋史学の分野に属するようだ。

学問は何でも色分けしないと気がすまない縦割り社会だが、さすがに日本史を語る人とはスケールが違う。日本の歴史を日本の中だけで完結させ、アジアの隅っこで一人、外からの影響を受けず、日本民族は世界でも唯一の単一民族である、なんて真剣な顔をして主張する学者って、本当に脳みそあるのかしら、って話だ。

それはともかくとして、私がこの先生を信じようと思ったのはその見識である。前半に次のような文章が書いてあった。

「日本の平和憲法は確かにアメリカの都合で作られた。しかしそこには人類の理想がある。私とてアメリカ・ロシアの軍事力や中国・朝鮮の核武装を含む軍備増強には脅威を覚えている。しかしだからといって防衛という名で「戦争のできる普通の国」を目指すというのでは、人類史を後ろ向きに歩むだけである。沖縄や広島・長崎を思い、平和憲法に共感を抱く人々を「平和ボケ」と揶揄しているのは、もはや自分や家族が徴兵制に引っかかる恐れがない地位を築いたか、軍需産業によって大きな儲けが期待できる人々である。防衛だろうが侵略だろうが戦争は経済行為なのであり、結局は「お金儲けのどこが悪いんですか」とうそぶく資本主義の申し子的連中が戦争をしたがるのである。そういう輩が口にする「国益」「国際貢献」とか「国家の品格」などという言葉ほどいかがわしいものはない。」

この文は本の比較的はじめのほうに書かれていたため、これを読んで以降、この先生の言う事なら信じてもよいのかな?と思ってしまった。西尾幹二氏の「国民の歴史」というブックオフで大量に売られている本は、「戦争は犯罪ではない」という視点から、日本の第二次大戦を正当化しようというまったく不見識な立場で書かれているが、歴史を歪曲し、金のためなら真実も曲げましょうという歴史を学ぶ資格のないひとだ。金のために人を殺したら死刑である。今はそうなっている。しかし、金のために真実を曲げるのは許されるのか、しかも税金で雇われた学者にそれが多いのだ。殺人を犯した人を、「罪を憎んで人を憎まず」と許す文化が日本にはあった。しかし、「学問」という名で国家殺人を容認するのは決して許される事ではない。

そんな人の書く本など一文の価値もない。さすがブックオフで山積みされるはずである。

歴史を学ぶ事は現代を学ぶ事と同じである。正しい認識を持たない人は歴史を正しく学んでいない人である。


パルティア日本法人

2009-01-30 09:51:54 | 古代史

昨日は鮮卑、拓跋族の研究成果を発表しました。本日は現在のイラン近辺にあり、その後消滅したパルティアのことについて少し発表します。

このパルティアは中国表記では安息国と呼ばれ、漢時代には遼東方面に移住したといわれている。さて、この安息氏と思われる人物が登場するのは好太王のときである。

『梁書』高句麗伝

 396年、慕容垂が死に、子の宝が立つ。句驪王の安を平州牧に任じ、遼東と帯方の二國王に封じた。安は、司馬、参軍官を置いた。その後、遼東郡を略取した

詳しくは略すが、このとき高句麗は鮮卑、慕容氏の傀儡であった。この安氏こそスキタイ王なのである。中国史にも登場する安羅国とは、この安息氏の国に違いない。慕容氏は高句麗王に安羅王を指名し、広開土王とも言われるが、倭、百済、新羅の攻撃を防ぎ、高句麗最盛期を築き上げた。私の想像では、彼は応神天皇として九州へ攻め入り、宇佐で秦氏と同盟する。その後、近畿地方まで攻め入り、飛鳥に本拠を構えた。そのとき移住した王族が後の王仁(わに)一族であろう。飛鳥は安氏の住むところで「あすか」である。彼等の東征が神武東征の実態と考えている。

その当時、近畿地方を占有していたのが海部一族、即ち敦賀から上陸し、伊勢王国を作っていた一族で、やはり安羅国から来た古代イスラエル部族であった。彼等は応神天皇と同族だ、つまり、ニギハヤヒなのである。応神天皇は奈良に入り、ニギハヤヒの末裔、ウマシマジと対面する。ウマシマジは屈服し政権を譲る。ウマシマジは伊勢の斎宮に王朝を構え、応神と協調路線をとる。このとき逃亡したナガスネヒコが青森に逃げたという説もある。私見では、猿田彦はナガスネ彦ではないだろうかと思っている。

彼等は旧支配者の一員として、天武朝後も生き残り、その姫が安宿姫、藤原光明子である。つまり、藤原仲麻呂家は鮮卑、慕容氏系のスキタイ族であった。

唐の時代、やはり安息氏系の一族が唐に反乱を起こす。これが安禄山の乱という。これに呼応する形で、渤海は日本と示しあい、新羅を挟み撃ちにしようと試みる。このときすでに光明子は亡く、吉備氏、弓削氏らにより仲麻呂は亡ぼされ、鮮卑、慕容氏は日本での地位を失ったと考えられる。これ以後、日本と渤海の関係は文化的な方面に限定され、軍事的な同盟関係は失われた。つまり、これから推察するに、渤海の支配層は鮮卑、慕容氏と考えてもよいのではないだろうか。もちろんまだまだ確定するべきではないが。

このように、安羅国は相当大きな勢力を持っていたと考えられるが、韓国の歴史書では相当矮小化されており、到底納得できない。おそらく通常の歴史解説書における百済国がそれに相当すると考えても間違いはないと思っている。なぜなら百済王といわれる武寧王の古墳はスキタイ形式であるし、南部方面には前方後円墳が多く見られる。いずれこのあたりも解明しなければならない。


元と源は同源?

2009-01-29 09:02:28 | 古代史

私の研究テーマは多い。ひとつに絞らず、いろいろな方面から仮説を証明してゆくことが求められている。そのなかでも、ジンギスカンが義経であるという証明は非常に困難である。

なぜなら、関係するすべての人たち、つまり、ジンギスカン本人ですら、その出自を隠そうとしていたからだ。しかし、日本人の武将がたまたま満州へ渡り、偶然大活躍をして、大モンゴル帝国を築いたと考えるのは漫画でしかあり得ない。それには奥州藤原三代が、なぜあれほど繁栄していたのか。そして、なぜ金を多く保有していたのか。どうして藤原の姓を名乗る事ができたのか、などを検討しなければならない。

昨日述べた中に、藤原氏は鮮卑族ではないだろうかという仮説を提示した。鮮卑だとすれば、北魏、渤海などのころ、アムール河を下り、ハバロフスクからサハリン経由で青森までたどり着くことは、韓半島から対馬を経由するより、はるかに安全で早く到着できたであろう。

つまり、古代において、大陸と列島のメインルートはこちらであった。これは栗本氏の特に強調しているところである。

北魏の王家、拓跋氏は自分の身内を貴族とし、他の鮮卑族と区別するため元氏を名乗った。これは拓跋氏が中華思想に染まってきた証拠に他ならない。ここで重要な事がわかった。その拓跋氏の所へ、禿髪(とくはつ)氏が河西王国がつぶれたために逃げ込んできた。もともと同族であった北魏の王は彼等を歓迎し、「源」と名乗ることを許した。王、大武帝は彼に「そちたちは、朕と源を同じくする。事に因りて姓を分かつ。今は源氏と為すべし。」と述べたという。つまり、元と源は同族としたのだ。

源頼朝は伊豆に流され、平家に監視されていた時、北条家は彼を貴種だと認めたからこそ危険を顧みず、自分の娘、北条正子を嫁にやったのだ。つまり、源頼朝は坂東武者達には貴種中の貴種だったのである。彼の父親は八幡太郎義家、その兄弟には高麗次郎義網、三男に新羅太郎義光というのがいる。その名前で出身地が判明するはずもない。つまり、韓半島を代表する家系なのである。

義経が頼朝の兄弟という証拠はどこにもない。頼朝がそれを認めただけの事である。歴史小説と歴史とは違う。ただ、頼朝は奥州から下ってきた義経を利用しようとしたに違いない。

ちょっと話がそれるが、義経がは鞍馬寺に預けられ、修行を積んだことはおそらく事実だろう。この鞍馬寺は天狗で有名だが、この天狗はいうまでもなく突厥の王、テングリ・カカンから来ている。つまり、鞍馬寺は突厥の在日大使館だったのだ。なぜ清盛がそこへ預けたのかは謎である。

北魏王家の血を引く若武者を、突厥のエージェントたる鞍馬天狗が教育し、日本を去るときに、突厥の身元保証書を発行し、さらに大金持ちの鮮卑王の家系、藤原氏がそれを裏書すれば、蒙古の地においてもそれは貴種であったはずだ。彼、義経は大陸の支配者に気に入られ、大モンゴル帝国の表の顔として指名され、君臨したのである。彼も大きな組織の傀儡だったのではないか、と言うのが私の解釈である。

以前にも述べたが、彼は日本において北条氏が源家を絶滅させたことを知っていた。きっとすぐにでも日本へ攻め入り、北条氏を亡ぼしたかったに違いない。その遺志を継いだのがフビライで、彼はおそらく北条氏の首を差し出せと要求したはずだ。びびった北条氏は、思わず使者を切り捨ててしまった。いくらなんでもこれでは戦争は避けられまい。困った北条氏は、傀儡である天皇家に泣きついた。元寇は神風が吹いたといわれるが、そうではあるまい。

元に命令された高麗には、同族の日本と戦う気がなかったのだろう。彼等、高麗軍は日本へ上陸すると全員が逃亡したと言われている。真実はいかに?

さて、義経の姓は源氏であり、見事大帝国を築いた時、その国の名を元とすることは、まことに当を得た事だったと言えまいか。どうです、姫?