マヨの備忘録・・・マヨのぼやきから

いろいろあったな・・・真実を知りたい!この一心で始めたブログだったが、知れば知るほど世の中の闇は深くなるばかり・・・。

そうだ、邪馬台国にしよう

2008-12-22 14:29:19 | インポート

きょうはブログの記事がなかなか決まらない。そうだ、悩んだ時は邪馬台国にしよう。

ということで、前回、あまり丁寧に説明しなかったから、今日はもう少し詳しくやって見ましょう。

特別サービスに地図を描きました。Photo_2 まず、公孫氏の場所を見ましょう。帯方郡というのは遼東の南、遼東半島の中心部だったと考えられます。魏の明帝から公孫氏を討伐するように命ぜられた司馬仲達はまず三韓を騙す事にした。彼等を戦後独立させ、帯方郡を設置しないと約束した。そして日露戦争の激戦地、旅順にいた三韓の女王、卑弥呼を見方にした。

船団を遼東へ派遣するにはどうしてもそこを押さえる必要があったのだ。

そして海と陸からとで公孫氏を挟み撃ちし、見事に亡ぼし、公孫氏全員を焼き殺した。京観を築いたと書かれている。

さて、魏志倭人伝によれば、237年、卑弥呼が朝貢したというが、これは怪しい、すなわち、朝貢したのは帯方郡とされ、その当時そこは公孫氏が支配していた地域であり、朝貢ができるはずがない。つまり、他の史書に書かれた様に「先帝の公孫氏を亡ぼすや、卑弥呼が朝貢した。」が正しいと思う。

しかし、司馬氏は三韓との約束を破り、帯方郡を設置し、結果、郡と三韓はこの後争う事となる。韓遂に滅す、とあるが、事実は逆で、帯方郡が亡びている。ところで、倭の実態はじつは狗邪国のことであり、邪馬台国というのは三韓に共立され、旅順に居た女王様卑弥呼のことである。卑弥呼を女王というものの倭王とは言っていないはずだ。その後、卑弥呼は晋から死を賜り、倭もしばらくは戦乱が続いたようだ。

魏志を記した陳寿は晋の官使であり、司馬氏がウソをついたとは書けない。ありもしない邪馬台国をでっち上げたのは三韓を騙した事を隠すためだろうか、倭国が正式に朝貢したとしたら仮授とはしないだろうし、本紀に載せるはずだ。さて、問題は行程にある。

ありもしない邪馬台国が実は帯方郡の目の前では都合が悪い。そこで、韓半島にそっくりなイタリアの記録を持ち出し、エジプトまでの航路を適当にアレンジし、出来上がり。風俗などは雲南から沿岸にいた倭族の風俗をコピペした。刺青は日本の風習じゃないし、はだしで歩くには日本は寒いよ。

お分かりでしょうか、邪馬台国はでっち上げで、日本の書紀編纂係はそうとは知らず、大和という名を作り出し、それとなく邪馬台国と日本を連続させようとした。なんと罪作りな偽装だったんだろう。中国はこの当時から表示偽装を行い、日本もそれに倣ってしまったのだろう。

もっと言うなら、この倭国の存在を消すため三韓は韓半島にあったことにされ、楽浪郡は遼東にあったはずが現在の北朝鮮まで南下させた。帯方郡は遼東半島にあったものを現在のソウルあたりにされてしまった。そのことが、現在、中国と韓国の歴史認識問題が発生する原因になっている。図を見ての通り、高句麗はその領土のすべてが現在の中国領に存在する。

つまり、朝鮮とは遼寧省のことで、高句麗は吉林省なのである。現在の朝鮮は古代の倭のことである。中国との歴史認識を争えば韓国人は自分達のアイデンティティーのすべてを失う可能性がある。中国の認識、即ち、古朝鮮は現在の中国の一地方で起きた出来事に過ぎない、というのは完全に正しいのである。

彼等が朝鮮人になったのは李氏朝鮮ができてからだ。私は韓国の人に言いたい、真実を知る事が幸せかどうかはわからないと。それを承知で真実を知りたい人がいるなら私とは友達になれるだろう。