あなたの夢の中で

2ちゃんねるを見ていて目に止まった書き込みを収集しています。

モルグ街の殺人(抜粋)

2008年07月23日 22時09分52秒 | 未来と闘え

 分析アナリシスの能力は、恐らく数学の研究によって、殊に数学最高の分野の研究(それが単に逆行的操作の故をもって特に解析学アナリシスと呼ばれているのは不当である)によって、大いに増進されるものであろう。しかし計算は必ずしも分析ではない。たとえばチェスのプレイヤーは、分析のため努力することはない。計算するだけだ。従って、チェスが知的能力の養成に役立つなどというのは大変な考え違いなのである。ぼくは今、論文を書いているのではない。いくらか風変りな物語の前置きとして、ゆきあたりばったりに所見を述べているだけだ。だから、ここでついでに言って置くけれども、思索的知性の高度な能力は、複雑で軽薄なチェスよりも、地味なチェッカーによって、遥かに多く養われるのである。チェスにおいては、駒の価値が様々に異なっていて、しかもそれが場合によって変化し、動きは多用で奇妙ビザールなため、単なる複雑さにすぎないものが(よくある誤解だ)深遠さと取られるのだ。ここでは注意力,,,が大きくものを言う。それが一瞬でもゆるむと、見落しをして、被害をこうむったり敗北したりすることになる。駒の動きとして可能なものが、単に数多くあるだけではなく、複雑を極めてもいるため、こういう見落しをする機会はますます多くなる。つまり十中八九までは、より明敏なプレイヤーがではなく、より注意力の強いプレイヤーが勝者となるのである。これに反してチェッカーでは、動き方は単一,,だし、変化もほとんどないため、見落しをする可能性は減少し、単なる注意力は比較的不要なものになる。より優れた鋭敏さ,,,によってしか、優勢を得ることができないのである。話をもうすこし具体的にするため、チェッカーのゲームを一つ想定してみよう。盤の上に成駒キングが四つだけになってしまったとする。こうなれば、もちろん見落しなどがあるはずがないから、勝負は(二人のプレイヤーがまったく互角だとすれば)ただ読みルシエルシェの作用によって、つまり知性の強さの結果によってのみ決定される。普通の手を打つ余地などまったくないのだから、分析的なプレイヤーは相手の心に没入して、彼と一体になる。このようにして、相手を落手に陥れたり誤算に導いたりする唯一絶対の手(ときとしては、それはまったく馬鹿ばかしいくらい単純な手なのだ)を一目で見抜く、などということもしょっちゅう生じるのである。
 ホイストはいわゆる計算力を養うと、昔からよく言われている。卓越した知性の持主で、軽薄だと言ってチェスは嫌うくせに、ホイストにはひどく熱中する人々がいるのである。たしかに遊び事のなかで、分析能力の訓練にこれほど役立つものはあるまい。キリスト教世界随一のチェスのプレイヤーと言っても、結局最優秀のチェス・プレイヤーに過ぎぬ。ところがホイストにおける熟達とは、頭脳と頭脳が闘いあうような、ホイストよりも重要なあらゆる仕事で成功できる能力を意味するのである。ぼくは今、熟達という言葉を使ったが、これは完璧の力倆を意味するのであって、これさえあれば、正当な優位を獲得し得るあらゆる,,,,筋が知覚できるのだ。こういう筋は単に数多くあるだけではなく、多様でもある。だから、尋常の理解力では到達できないような深い瞑想によって初めてそれを知り得ることが多いのである。さて、注意深く観察することは、はっきりと記憶することである。だから、その限りでは、注意力の集中に優れているチェスのプレイヤーは、ホイストにも極めて巧みだろう。そしてホイルの法則などというものは(ゲームのメカニズムに基づいているだけなのだから)、誰にもじゅうぶん理解できるものである。つまり、はっきりと記憶を持ち、「法則本」どおりにやるのが、世間で普通に考えられている名人というもののすべてなのだ。ところが分析家の力倆が発揮されるのは、単なる法則の限界を超えたところにおいてである。彼は黙々として、数多くの観察、数多くの推論をおこなう。もちろん、相手もおそらく観察し推理するだろう。それゆえ、結局のところ問題になるのは推論の妥当性ではなく、観察の質のほうなのだ。だから、必要なのは、何を,,観察すべきかという知識である。分析的なプレイヤーは、自分の思考をいささかも限定しない。また、ゲームが目的だからと言って、ゲーム以外のことに基づく演繹えんえきを避けることもしない。彼はパートナーの顔色を検討し、それを二人の敵の顔色と入念に比較する。彼はめいめいが手のなかのカードをどう分類するかに気をつける。そして、持っているカードに投げる持主の目つきから判断して切札や絵札の数を数えること位、しょっちゅうなのだ。彼はゲームの進行につれて、表情のあらゆる変化に注意し、確信、驚き、得意、無念というような表情の差から、思考のための手がかりを集めるのである。彼は、一回に出した札を集めるときのやり方から推して、その者がその組でもう一度やれるかどうかを判断する。彼はまた、卓の上にカードを投げる様子から、相手が実は何をたくらんでいるか見抜いてしまう。偶然に、あるいは不注意に、口にする言葉。ついうっかりと、落したり裏返したりしたカード。それを隠そうとするときの不安や無頓着。カードの数え方。それを配列する順序。当惑、躊躇、熱心、狼狽。これらすべては、一見しただけでは直感としか思われない彼の知覚に対し、事態の真相を告げることができるのだ。最初の一回ないし二回がすむと、彼はめいめいの手のうちのカードを知りつくしてしまい、それから以後は、正確にしかも絶対の自信をもってカードを出してゆく。まるで、ほかの三人がカードの表側を見せているみたいにして。


ポオ 「モルグ街の殺人」『ポオ全集第2巻』 丸谷才一訳、東京創元社、1979年十版、4-6頁