前々回、あまりヒステリックなノリの書物(人)はよろしくない、と書きました。例えば、前回に話した和英辞典の話にしても、「英単語の微妙なニュアンスが掴めないから、和英辞典は危険だ」とこき下ろしたり、英和辞典も、「日本語を仲介して英語を理解するのは非効率だ」という言い方をする人とか、います。例えばこういうのを、私はヒステリックだと言っているのです。
じゃあ英英辞典は何もかも完璧なのでしょうか?英英辞典なんて、言ってしまえば日本語で言うところの”国語辞典”みたいなモノでしょう。そこまでヒステリックな物言いをするのなら、「国語辞典で日本語を覚える人などいない」とか言って、英英辞典もこき下ろしてほしいものですが、何故か、英英辞典だけは無条件に褒めちぎる人が多い。何か高尚っぽいからでしょうか?私に言わせれば、そんなのはステレオタイプです。私自身は英英辞典なんて”役に立ったなぁ”と思った経験はほとんどありません。しかし、それは単に私が経験していないだけで、本当に役に立つこともあるのだと思います。想像もできます。
だとすると、和英も英和も、同じじゃないでしょうか。所詮ツールなんですから、万能であるはずもないし、役に立つ・立たないはケース・バイ・ケースでしょう。要はそれを見極めて、必要な場面で必要なモノを使いこなせばいいだけの話。欠点があることが分かっているのなら、可能な範囲で必要な時に、他のツールで補うことを考えればいいだけの話。和英とか英和が”ベストな”ツールになる場面とか、英英オンリーではできない事・効率が悪くなる事など、絶対にあるはずです。だからこそ、和英も英和も存在しているのではないでしょうか。
私が前回言ったような、日本語をキーにして英語の”へぇー”を増やしていく勉強というのは、英語だけをひたすらインプットしていく辛い辛い勉強を、違う形で補って、楽しみを与えてくれるモノだと私は感じるので、実行してみようかと長年思いを温めているのです。どうせ勉強法についててクチクチ言うのなら、ステレオタイプの上から目線論じゃなくて、創造性のあるモノ言いをしてほしいです。私は人が何といおうと、こうやって自由な方法で自分の能力を伸ばすことを考えていくのが一番楽しいことだと思っていますので、わりかし自由奔放にやっています。間違いも多々あるでしょうが、全て自分のためにやっていることですから、構いません。
学ぶことの本来の楽しさ、とはこういう事のはずです。学校の勉強をそういう風にするのは難しいでしょうけど、教師と呼ばれる人はせめて、そういう楽しみを子供達に教えてやってほしいです。いたづらに点数を競わせて、痛めつけて、それじゃあ、できるものもできなくなってしまうのは当然です。自分自身の学生時代を振り返っても、学ぶ事の楽しさを教えてくれたような教師は、一人としていませんでしたね。何なんだろう、あいつら。
色々な先達たちの著書を参考にするのは良いことですが、ウブな人はついつい騙されてしまう事も多いと思います。色々な人の物言いを情報として一応は仕入れつつも、最終的には自分の判断での取捨選択、そして、創造力を駆使しての勉強法の模索、そういう事をやってほしいものです。それこそが本当の”知性”ではないでしょうか。”偉い人”の武勇伝を読んでマンセーするだけなら、馬鹿でもできます。
他の会社がTOEICだと言えば、どこもTOEICばかり。誰かが”英語は体で覚えろ”と言えば、そればっかり。ホント、右へ倣えが好きですよね。この国は。「お前自身はどう思うんだ!」まさにそれが問われるのが、グローバルコミュニケーションの場ではないのか!
じゃあ英英辞典は何もかも完璧なのでしょうか?英英辞典なんて、言ってしまえば日本語で言うところの”国語辞典”みたいなモノでしょう。そこまでヒステリックな物言いをするのなら、「国語辞典で日本語を覚える人などいない」とか言って、英英辞典もこき下ろしてほしいものですが、何故か、英英辞典だけは無条件に褒めちぎる人が多い。何か高尚っぽいからでしょうか?私に言わせれば、そんなのはステレオタイプです。私自身は英英辞典なんて”役に立ったなぁ”と思った経験はほとんどありません。しかし、それは単に私が経験していないだけで、本当に役に立つこともあるのだと思います。想像もできます。
だとすると、和英も英和も、同じじゃないでしょうか。所詮ツールなんですから、万能であるはずもないし、役に立つ・立たないはケース・バイ・ケースでしょう。要はそれを見極めて、必要な場面で必要なモノを使いこなせばいいだけの話。欠点があることが分かっているのなら、可能な範囲で必要な時に、他のツールで補うことを考えればいいだけの話。和英とか英和が”ベストな”ツールになる場面とか、英英オンリーではできない事・効率が悪くなる事など、絶対にあるはずです。だからこそ、和英も英和も存在しているのではないでしょうか。
私が前回言ったような、日本語をキーにして英語の”へぇー”を増やしていく勉強というのは、英語だけをひたすらインプットしていく辛い辛い勉強を、違う形で補って、楽しみを与えてくれるモノだと私は感じるので、実行してみようかと長年思いを温めているのです。どうせ勉強法についててクチクチ言うのなら、ステレオタイプの上から目線論じゃなくて、創造性のあるモノ言いをしてほしいです。私は人が何といおうと、こうやって自由な方法で自分の能力を伸ばすことを考えていくのが一番楽しいことだと思っていますので、わりかし自由奔放にやっています。間違いも多々あるでしょうが、全て自分のためにやっていることですから、構いません。
学ぶことの本来の楽しさ、とはこういう事のはずです。学校の勉強をそういう風にするのは難しいでしょうけど、教師と呼ばれる人はせめて、そういう楽しみを子供達に教えてやってほしいです。いたづらに点数を競わせて、痛めつけて、それじゃあ、できるものもできなくなってしまうのは当然です。自分自身の学生時代を振り返っても、学ぶ事の楽しさを教えてくれたような教師は、一人としていませんでしたね。何なんだろう、あいつら。
色々な先達たちの著書を参考にするのは良いことですが、ウブな人はついつい騙されてしまう事も多いと思います。色々な人の物言いを情報として一応は仕入れつつも、最終的には自分の判断での取捨選択、そして、創造力を駆使しての勉強法の模索、そういう事をやってほしいものです。それこそが本当の”知性”ではないでしょうか。”偉い人”の武勇伝を読んでマンセーするだけなら、馬鹿でもできます。
他の会社がTOEICだと言えば、どこもTOEICばかり。誰かが”英語は体で覚えろ”と言えば、そればっかり。ホント、右へ倣えが好きですよね。この国は。「お前自身はどう思うんだ!」まさにそれが問われるのが、グローバルコミュニケーションの場ではないのか!