まつなが畑のはたけ日記

農ある生活をするため奈良御所市金剛山の麓に農地を借りスタート
素人農業の何気もない日々の日記

無くす

2011年04月24日 20時14分21秒 | Weblog
私たちが失ったもの、豊かさとは?
と数日考える。頭では無く心で。

そして希望とは?


この震災が私達に問いかけた。




私が学生のころは「やりたい事が見つからない」「好きな事が見つからない」と言う声が良く聞こえた。
随分生きることにやる気が無いなぁと感じたものだ。

だが一方で物に溢れた時代こその発想にも思える。

物が無い時代は溢れることに豊かさと希望を持ったように思える。
今それが現実となり便利さも含め皆が求めた豊かさの結果、裏側には不都合な真実と言うものが陰を潜めている。(どの時代も形を変えてあるものだが)
それが今の原発事故であり、環境問題であり、あらゆる社会問題、格差の拡大、虐待、治安の悪化などではないか。

人は前進を経済発展もしくは今の経済の維持としているように見えるが本当にそうなのだろうか?

今回の震災の復興も経済頼みのような気がしてならない。

もちろん間違いではないと思うが今その経済発展を支えた原発が事故を起こし人は何を思い、前へ進む?



人はこの豊かな時代に娯楽は見つけられても希望は見つけづらい。
「無い」と言う時代には反対に希望に満ちていたように思える。そして求めるものは「物から心の時代へ」と変化していく。


では私たちはすべきことは・・。
「在る」ことで失ったならば、「無い」ことで求めれば良い。


溢れたこの時代、物による豊かさは欲となり経済の主役となった今、その行き着く先は?
その欲を制限することで「無い」という状態を作る。

食べ物を無くすという事は難しいけれども、

スーパーで好きな野菜を選んでいた生活から野菜セット定期便と言う選べない形にする。

暖房を使って作った季節外れの野菜を食べない。

便利な物を減らす。

自分のものを減らす。

手持ちのお金を無くす。

保障を無くす。

などなど沢山ある。

私は身の回りのものを削れる今こそしたい。
農業が安定してしまえば今よりも「無い」という状況を作るのは難しくなる。
だから今。

人は無くす事で求めるか?まだ在る事を求めるか?

「やりたい事が見つからない」という人たちを見て、
豊かさとは欲を満たすことでは得られないという事に気づき始めた言葉のように思える。







風向きを・・

2011年04月18日 21時13分30秒 | Weblog
世界中で原発に逆風が・・・
何時かの新聞記事。

日本では菅首相が原発増設の凍結を示唆した。

原子力大国のフランスでは推進の姿勢を崩さないが反原発感情に警戒、ドイツでは脱原発に動き出した。


京都議定書以来、CO2削減が環境問題の要として、経済の要として動き出した。その結果、世界ではCO2よりも遥かに環境に悪い放射能を出す原発が推進される傾向が強まった。

今回の事故が、多くの犠牲が、世界を破滅から少し遠ざけたのかもしれない。




「原発がどんなものか知って欲しい」平井憲夫さん

二十年間、原子力発電所の現場で働いていた方で、被曝により癌で亡くなられた。
生前、平井さん残されたメッセージを今回の事故を通して読むと言葉がでない。

少し長いですが最後まで読んでください。(目が痛くなるのでプリントアウトすると良いと思います)
原発の見え難いところを分かり易く書かれています。



この文章の中に中学生の女の子の質問がある。

「お聞きしていいですか。今、廃棄物を五〇年、三百年監視するといいましたが、今の大人がするんですか? そうじゃないでしょう。次の私たちの世代、また、その次の世代がするんじゃないんですか。だけど、私たちはいやだ」



原発と言うのは途方も無い年月を要するもので動き出せば放射能汚染されたゴミ、死の灰を排出し出し、廃炉にするにも、事故を起こしても何十年、何百年という単位の年月と多額の費用を必要とする。
大地を汚し、水を汚し、空気を汚して私たちの体を蝕んでいく。

私たちの子供、さらにはその子供へ何世代にも渡ってこの大きな負の遺産を残す今の便利さ、経済発展は何なのだろうか?

まず私たちがしなければいけないことは身の回りの人と手を取り合い関心を持ち話し合うことのように思う。
その小さな声が大きな声へと変ることを信じて。



風評被害

2011年04月16日 20時35分12秒 | Weblog
今日一人のお客さんが定期便の野菜セットを取っていただけることになった。

お客さんのお友達で私も3年前の路上販売で何度かお会いした方。
その時は栃木から野菜セットを買われているとお話されていたのを覚えている。そして子供の為にもという事も。

今回うちの野菜セットを買っていただくことになったのは栃木の野菜の放射能が心配だからということらしい。
もし私もこの方と同じ立場なら同じことをしただろう。

世間的には、今よく言われる“風評被害”になるのだろう。
同じ農家として他人事には思えない。その農家さんのHPを見ると誠実な農業をされている。放射能に関しても数字にして分かり易く消費者に伝えられていて県の定める基準値以下だと書かれている。
うちと同じセット定期便販売でお客さんとの距離も近いだろう。
それでもお客さんは減る。。

風評被害に対してよく「科学的根拠のないデマに惑わされないように」と耳にするが、「科学的根拠のもとに原発は安全だ」と言ってきた原発が事故を起こしたのだから誰が信じるだろう?
四大公害でも同じだ。
科学的根拠は一つの目安になるが全てを信用できるものではない。


ある中間業者では作付代として自然災害で野菜が採れなかったときは野菜代の半額を支払うシステムがある。
ただ直接お客さんに届けている農家は「出来なかったら半額払ってください。」とはなかなか言えるものではない。

直接的に放射能汚染された損害ではなく原発事故が要因での損害は国や東電からの賠償などまずない。

何とか持ち堪えて欲しい。
千葉の農家さんもお客さんが一気に減ったと言うし。。あちらの農家は皆苦しい。

そう儲けが多くない職業だけにその打撃は大きいように思う。



フランスの牛乳から福島原発の放射能物質が微量だが検出された。
北半球にはもう拡散されているという。

もし水蒸気爆発などで大量放出されるとどれぐらいの被害になるのだろう?

チェルノブイリからたった25年で繰り返される原発重大事故。
日本では福島原発を入れて55基の原発。
世界では・・・。

人類滅亡も本当にありえる話しだ。

戦争やテロで原発にミサイルや飛行機を落とせば・・。






スウェーデン在住の日本人の方のブログから転用です。
高放射能の探知しチェルノブイリ事故をソ連が公表するきっかけになったスウェーデン。汚染された食べ物への対応のしかたを具体的に書かれている。

最近でもどこの国かでチェルノブイリでの汚染が原因で羊から基準値の越す放射能が検出されたという記事も見た。
セシウムの半減期は30年。

【 肉 】

・酸味の強いマリネ(マリネード)に漬けた上で調理すれば、肉に含まれるセシウムが80~90%減少する。(マリネード = 酢・ワイン・油・香辛料・ハーブなどから作る漬け汁)
・茹でた場合、牛肉であればセシウムの50~70%、ヘラジカやトナカイなどの野生の肉であれば45~70%が減少する。
・塩漬けするだけでは、30%ほどしか減少しない(塩漬けはトナカイの肉の保存などに用いられる)。しかし、水に漬けて塩抜きし、茹でた場合は70~85%のセシウムが減少する。
・焼いた場合は、大きな効果はない。
・燻製にしたり干したりした場合は、全く効果はない。

注1:茹でた水は捨てること。
注2:減少するのはセシウムだけでなく、カリウムやビタミンB6などの水溶性の栄養分も、セシウムの減少割合と同じだけ減少する。


【 魚 】

・魚を丸ごと茹でた場合、セシウムの15~20%が減少する。
・魚を細かく切って茹でた場合、20~30%減少する。
・塩漬けにしたあと、水で塩抜きし、茹でた場合はセシウムが70~80%減少する(塩漬けの時間が1週間であろうが、4週間であろうが関係ない)。

注1:茹でた水は捨てること。
注2:減少するのはセシウムだけでなく、カリウムやビタミンB6などの水溶性の栄養分も、セシウムの減少割合と同じだけ減少する。


【 野菜 】

・葉野菜であれば、外側の葉を取り除いたり、丁寧に水で洗ったり、湯通ししたり、茹でることで、セシウムの10~90%を取り除くことができる。
・人参やグリーンピースであれば、ゆがくか、凍らせた後に茹でて使用すれば、セシウムを50%減らすことができる。
・人参はゆがけば、放射性のストロンチウムが5%減少する。グリーンピースはゆがけば、ストロンチウムが35%減少する。

注1:茹でた水は捨てること。
注2:減少するのはセシウムだけでなく、ビタミンBやCなどの水溶性の栄養分も、セシウムの減少割合と同じだけ減少する。


【 キノコ 】

・たっぷりのお湯を沸かして軽く茹でれば、キノコに含まれるセシウムの70~80%が減少する。水は捨てること。

こうならない事を願いたい。


最後には・・

2011年04月13日 20時14分07秒 | Weblog
【福島原発】2011/4/12/火★最悪の「レベル7」引き上げの意味 小出裕章先生


●最悪シナリオのような大規模な溶融が起こってしまうと、圧力容器も格納容器も破壊され、チェルノブイリ並みに放出される可能性がある。

●更に悪いのは福島は1〜6号機があり、これらを合計するとチェルノブイリの3倍以上の核燃料がある。またそれと同量の燃料が使用済み燃料プールにある。

●チェルノブイリの事故で数百万人が被曝したが、今現在日本でも何十万人もの人たちがチェルノブイリと同じような被曝を既にしている。

今尚多くの情報が正しく伝えられていないように思います。
「破局的状況の中では過小評価するよりも過大評価するほうが被害を最小限に抑えられる」どこかで聞いた言葉です。
私たちは最悪の事態と言うのを正確に知る必要があると思います。






「レベル7」になりチェルノブイリと同じか・・・と・・・。
小出先生の話しを聞き背筋が凍りつく。

混乱を避けるため政府は情報を制限する。
賠償責任を少しでも逃れる思惑もあるだろう。


今の日本の国民にはこの現実は受け入れがたいのか?
確かに混乱するのが目に見え、そこに向かい合うのではなく助かろうと回避することに必死になるだろう。
窮地になると人の本質が見えてくる。
向かい合う事が出来ないこの日本で果たして道筋はあるのだろうか?


東大寺が1億円を銀行から借り入れ全額を寄付。痛みを分かち合う為に。。



放射能は私たちには何も出来ない。
ただただ「受け入れる」それだけ。

それは子供も同じように受け入れなければいけない。
チェルノブイリ事故以来、甲状腺癌発症率は成人では5~6倍に、子供においては58倍にまで増加したと、ある博士がロシアに開設した甲状腺治療センターを訪れる患者数を統計した結果だと言う。

海外に住む日本人のブログを見ても、随分日本の人たちはのん気に見える。
一般的情報を絶対視する風潮は変らない。


子供の笑顔を見て辛く思う社会。

私自身もエネルギーとゴミを沢山出す農業に後ろめたく思う。
原発も同じように。
関心を持って向かい合っていきたい。

そして最後には「受け入れる」しかない。

手を取り合って

2011年04月09日 07時35分45秒 | Weblog
小出裕章先生(京都大学原子炉実験所)再臨界の懸念1
小出裕章先生(京都大学原子炉実験所)再臨界の懸念2
臨界事故は無いと早い段階で言われ、デマと言われてきましたが、今その可能性が出てきました。
私は最悪の事故を今の段階では心構えしておく必要があると思います。
1基でも大量の放射能が放出されれば人は近づく事ができず6基全部を手放すことになります。

days japan4月号編集後記ではチェルノブイリの事故直後、モスクワ指導部の事故隠しに対して、被災共和国の首相が、泣いて「あなたの家族が汚染されたらどうする」と詰め寄った。と書かれている。




ここ数日悶々と考える中で今私たちは何をしなければいけないか?自分に問い掛ける。

原発が最悪の事故を起こすことを危惧し、また最悪の事故とはどういう事なのか?また体内被曝についてどれだけ危険か?という報道、政府の説明が無い中、自分たちの在り方を考える。
そしてまだまだ続いている被災地の悲惨な状況の上で。



まずは自分達の周りを見渡し、こういう時こそ手を強く握り合いたい。
それは報道、政府の間違いを見つけ出し批判することではなく、本当の部分の情報を共有し答えを出していく。
思うことが共通しても求める事を一つに纏め上げることは必要としない。


100人いたら100通りの考えの中でお互いどう手を取り合うか?

この緊急事態に自分の足元、まずは生活だが身の回りの人との在り方についても考えたい。

原発反対は私の意志ではあるが身の回りの人と共有することはそういう事ではなく原発と言うものに対して共に関心を持つ関係でありたい。
極端に言えば推進派の人たちとも手は繋いでいたい。

決別するのではなく手を取り合うことで今違いけど将来100年後であっても分かり合える時を信じたい。
希望を持ちたい。

まつなが畑はそういう畑でありたい。




生きる力

2011年04月04日 20時23分10秒 | Weblog
去年の春の寒さを教訓に今年は対策を考えるも次々冷害が出る。
4月に入っても雪が降り、最低気温が氷点下。
夏野菜の苗も気が気ではない。

今年も寒い。
今年だけは早く温かくなって欲しい。被災地を想う。



地主さんが地震のとき仕事でいわき市に居たと今日聞く。
ビックリしたのだがその話しを聞くと胸が痛い。

避難所で水が出ないことでトイレが・・という話しで私の家は汲み取りなので今までピンときていなかったのだが、水洗トイレが流れ無かったら悲惨だ。

便利さという代償がこういう時にも現れてくるものなのだなぁと感じる。


嫁さんの大先生である隣のおばあちゃん。
おばあちゃんは毎朝、被災地の人たちのことを思いお祈りする。
「今の便利な時代に生きた人たちだけじゃなくて、物が少ない世代に生きた人たちや若い人たちと、いろんな世代の人がいるからきっと復興できるんじゃないかなぁと思うのよ。」
とお話してくれた と嫁さん。

今のおじいちゃん、おばあちゃんが居なくなった社会は悲劇かもしれない。

電気がプツンと切れたとき。
水が出なくなったとき。
ガスが使えなくなったとき。
ガソリンが無くなったとき。


こういう時人間はいかに“生きる”という行為を日々していないことに気付く。
便利さというのは生きる行為を捨てているとも言える。


農業でも感じるときが良くある。
効率化、機械化をしていくとき
この石油由来の資材が無くなったら?
燃料が無くなったら?
便利さに共通する部分がある。

農業もどれだけ自然を相手にしていても今の社会の一部なのだから経済活動という物差しから外れることはない。

もし私達が日々“生きる”為に生きれば原発は確実に必要としないだろう。
火力発電所であっても環境に問題にならないぐらいで済むだろう。



私たちは今の社会から抜け出すことは出来ないが“生きる”ことを大切に日々生きたい。
商品としての野菜ではなく、生きる為の野菜でありたい。

これがきっと貨幣価値に勝る価値だと信じる。

札束を幾ら目の前に積まれても、30年経っても「原発はいらない」言い続けられる。
祝島の人たちのその強さを想う。